古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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奈良の古墳めぐり・・その2-4

近鉄文化サロン現地学習 H20.7.17
山の辺の道添いの古墳④

古代王家中興の継体天皇の皇后手白香皇女はどこに眠るのか

今日はJR長柄駅を起点に「山の辺の道」を中心に分布するおおやまとこふんぐん大和古墳群の南部を散策した。

 JR「長柄駅」の踏切を東にわたり上ツ道、さらに県道天理桜井線(国道169号線)を越えて更に東へ進むと、前方に小さなミカン山が見える「マバカ古墳」と呼ばれている前方後円墳で2002年に県道天理環状線の建設に先立って県立橿原考古学研究所が行った調査によると土器の形式、濠の状況から箸墓古墳より古く纏向の勝山、ホケノ山古墳などと同じ最古級である可能性が出てきたとしている。今回の訪問ではこの計画道路が古墳の西端をかすめて開通していた。そして、申し訳に説明板が立っていた。今来た道は古墳の前方部を横切る形で右に曲がって南へ行く、車道はすぐ左(東)へ行くが曲がらずにそのまま南へ畔道を下池山古墳のある下池に向かう。

 この古墳では竪穴式石室の検出と大型木棺が見つかっている。1995年12月大和古墳群調査委員会の発表によると、木棺はコウヤマキ材をくり抜いたもので約5m残っていた、元は6mあったと判断されている。この木棺の残骸は橿原市の奈良県立橿原考古学研究所付属博物館に展示されている。築造年代としては墳丘から出土した土器片から桜井市の箸墓古墳とほぼ同時期の3世紀末頃とみられている。
下池山古墳:西山塚古墳より、右が後方部
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 次はいよいよ今日散策する大和古墳群最大で中心的な存在の「西殿塚古墳」(手白香皇女衾田陵)に向かうが、途中の古墳も紹介しておこう。下池山古墳の南を東に行ってすぐの上池を右(南)へ回り込んで東に向かい念仏寺の前を通って、中山大塚古墳を右に見てすぐの地蔵のところをそのまま細い道を東へ行く。この墓地の道の左手が「燈籠山古墳」で、手前の前方部が墓になっていて後円部は柿園になって残っている。そのまま道を東に行けば「手白香皇女衾田陵」(西殿塚古墳)の拝所に出られる。
 手白香皇女は継体天皇の皇后で欽明天皇の母に当たる。継体天皇は6世紀初めの人なのでこの西殿塚古墳は年代が古く日本書紀に言う手白香皇女衾田陵でないことは確定的で、衾田陵は後で訪問する西山塚古墳ではないかとの説が有力である。
西殿塚古墳へ
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 この古墳の東は東殿塚古墳になる、宮内庁の管理になっていないので墳丘は果樹園に利用されている。97年に墳丘調査が行われ、船の線刻絵画が描かれた鰭つき円筒埴輪が出土した。船首と船尾がゴンドラのようにそり上がり、8本の櫂やたなびく幡などが描かれている。ほかに特殊器台形埴輪と特殊壷が一体化した朝顔形や各種の透かし穴、赤彩色などの初期埴輪が出土している。

 次は萱生支群でもあまり知られていない古墳に向かう。道路をまたいで屋根がある「萱生町作業所」の東に菅原神社が有る。入り口には鳥居が無いが階段を昇った所の右の燈籠の横の子供の背丈ほどの小さな石碑に「古墳霊供養塔」とある。本殿の右手の山が「空路宮山(くろくやま)古墳」である、土地の人に聞くと石室は戦時中に防空壕として使っていたが今は崩れてしまったとのことで石室は認められなかった。

 萱生町作業所の西が山の辺の道になる。ここを南へ行くとすぐ右手に西山塚古墳の墳丘がある。左手の池も周濠の一部と見られる。家の横をすり抜けて墳丘に登れる、墳丘は果樹園になっている。この古墳から出土した埴輪の一部が大阪府高槻市の新池窯群で焼かれたことが分かった、この窯は継体天皇の支配下にあった窯とされることから大和に葬られたとされる継体天皇の皇后・手白香皇女の衾田陵の可能性が更に強まった。衾田陵は西殿塚古墳とされているが研究者の間では6世紀前半築造とされるこの西山塚古墳をそれとする人が多い。継体天皇の御陵も実は高槻市の今城塚古墳であるとほぼ確定されており、天皇、皇后とも御陵指定が間違いであったことになる。

初期の前方後方墳が点在する萱生古墳群

 山の辺の道を(北)へ行って「みかん共同貯蔵所」を過ぎるとすぐ左手に前方後方墳「波多子塚古墳」が見えるのでこの先を左(西)へ入って古墳に行くが、ここの道端に歌碑がある。
柿本人麻呂の万葉集巻7-1088の歌である。ここにある「弓月が嶽」は①三輪山の北にある穴師山(409m)②龍王山(586m)③三輪山の東北東にある巻向山(567m)の説があって定まらないが、場所はここよりずっと南の巻向駅あたりの眺めになる。ただし、新しいものなのでここの山の辺の道沿いには大和の茶がゆ「夕月庵」があるのでその関連で碑が建てられたものと思われる。
歌碑
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 波多子塚古墳は後方部墳丘に続き前方部がだらだらした感じの果樹園になっている。周濠があったらしく痕跡が残っている。出土した埴輪や土器片の形式から4世紀はじめに築造された東殿塚古墳よりやや新しい時期に築造された前期の前方後方墳と見られている。
前方部を過ぎたあたりを西へ行くと「ヒエ塚古墳」を分断して道が通っている。左手が前方後円墳の前方部、右手(東)が後円部で、前方部と後円部裾は柿園で山頂は雑木林になっている。

 この道が突き当たる小道を左(西)に行くと左手に「ノムギ古墳」がある、前方部は削平されている。ここも2003年9月に前記マバカ古墳と同じ道路の建設に伴う調査が行われた。周濠から出土した土器(布留0式)から箸墓古墳と同じ3世紀後半頃の古墳である可能性が高いとされた。また前方後円墳と思われていたがこの調査によって前方後方墳であることが確定された。後方部をかすめて県道天理環状線が開通している
ここを西へ行くと県道の交差点の所で上ツ道に出会うので、上ツ道を南に行き朝通った朝和小学校の所で右へ行きJR長柄駅にでる。
by yumeoijyuku | 2008-07-17 21:50 | 古墳めぐり案内

奈良の古墳めぐり・・その2-3

近鉄文化サロン現地学習 H20.6.19
山の辺の道添いの古墳③
大和古墳群(1)

今日は「山の辺の道」を中心に分布する大和(おおやまと)古墳群を散策した。大和古墳群は5月に訪問した景行天皇陵、崇神天皇陵を含む柳本古墳群の北に位置する古墳群になる。大和古墳群は西殿塚古墳(手白香皇女(たしらかのひめみこ)衾田陵(ふすまだのみささぎ))を中心として、全長100mをこえる前方後円墳や前方後方墳で形成されているが、これらの古墳は西殿塚古墳に引き続いて築造されたものとみられ、ほとんどが古墳時代前期から中期のものである。ただし西山塚古墳だけは6世紀に位置づけされている。
 JR「柳本駅」を東に出るとすぐに上ツ道に出会うのでこれを左(北)へとる。上ツ道は飛鳥と奈良平城京を結ぶ古代の幹線で上、中、下の内一番東の道にあたる。間もなく右手に屋根と太い柱だけのお堂「長岳寺五智堂」がある。五智堂は鎌倉時代の建物で国の重要文化財になっている。ここから東へ1km弱で弘法大師が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建したという長岳寺がある。

五智堂
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広い道を右(東)へ行くと県道に出るので左へ行きすぐの細い道の所を斜め右(北東)に入る。すぐ交差する道を右に行くと山の辺の道に出会うのでこれを左(北)へ行く。すぐ右手に歌碑がある
衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無
「ふすまじを 引手の山に 妹を置きて 山道を行けば い生けりともなし」
柿本人麻呂の歌で万葉集に納められている。東に見える龍王山は死者を埋める山で「引手の山」と言われている。人麻呂は我が妻を失い龍王山の麓に葬った後、とりとめのない心を「生けりともなし」と歌ったという。この歌碑は故犬養孝阪大名誉教授の筆によるもので「孝」の銘がある。

歌碑の解説、後は中山大塚古墳
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そのまま山の辺の道を行き坂を上ると中山公民館がある、ここの右手が広場になっていて祠が並んでいる。このあたりが中山大塚古墳の前方部前面で祠は古墳を削り取ったかたちになっている。ここを右手に廻った土堤の外れに小道が有って墳丘に登れる。1993年の調査では後円部の墳頂から内部長7.5mにおよぶ長大な竪穴式石室が発掘された。この時期の古墳では最大級のもので、成立間もない大和政権の有力者の墓の可能性が強い。また94年の調査では後円部の墳頂以外ほぼ全面に10~30㎝大の石で覆った特異な構造であることが分かった。前期の主だった前方後円墳では墳丘上面には葺石を施さず、墳丘斜面の葺石も一重かせいぜい二重である。後円部墳頂の竪穴式石室の有った場所には植木で区画されていて分かりやすい。
先ほどの中山公民館の前を西へ坂を下ると左にカーブしている内側が「小岳寺古墳」にあたる、墳丘は裾部分が道路で削られているようである。

坂の下で交差する小道を右に行き県道を横断してさらに西へ向かうと上ツ道に出会う。ここを左(南)へ、すぐの道を水路に沿って右(西)へ曲がる、すぐに右手に新池、左手に古池が有るところに出るので、右(北)へ新池を左に見て池の縁を伝う道を行きそのまま池沿いに堤防に出ると池の西の堤に出られるが、この堤の中程の所に祠があってその外(西)のJR桜井線との間に「弁天塚古墳」がある。古墳を観察するには池沿いの道を堤防に上らずにJRの方へ行き廻りこむとよい。前方後円墳の後円部が残っており前方部は削平されて耕作されている。
上ツ道に戻り左(北)へ行く左手に柿園がある、前方後円墳「ヤハギ塚古墳」である。古墳の北側の道が墳丘に沿ってきれいにカーブしている。
上ツ道を北へ取りすぐ中村電気店が有る所を右(東)に入るとすぐ左に全長約110mの前方後方墳「フサギ塚古墳」がある、墳丘上からは崇神天皇陵、その先に三輪山が望める。この古墳は東側から北へ回り込むとまわりは田でよく観察できる。

墳頂から南を見る:左は三輪山、その手前は5月にめぐった崇神天皇陵
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フサギ塚古墳:北より
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上ツ道をさらに北へと行くと大和神社の鳥居のすぐ横が鳥居池であるがこの池が「馬口山(ばくちやま)古墳」の周濠の一部になっている。この古墳から採取された特殊器台や埴輪の破片から築造年代が分かり、大型前方後円墳の元祖のように言われている桜井市の箸墓古墳よりさらに古く2世紀後半から3世紀にかけての年代と判定された。大型前方後円墳が突然出現する前の段階のものはほとんど知られておらず注目された。
この古墳の前方部と後円部の間あたりにある小道で古墳を横断すると西へ向かう道に出るので、そのまま行くとゲートボール場に突き当たる、ここを左に行くとすぐ小山に突き当たる、ここは大和(おおやまと)神社の境内になっていてこの山が「星塚古墳」で星山として祀られている。この山を右手に回り込むと大和神社の社殿に出られる。祭神は「大和大国魂大神(おおくにたまのおおかみ}」「八千戈大神(やちほこのおおかみ)」「御歳大神(みとしのおおかみ)」とある、大和大国魂大神は神代の昔から我が国土の守護神として国民に幸福を与え国威を輝かし給える国の御魂という、八千戈大神は大国主神の別名、御歳大神は穀物を守護する神。すなわち大和神社は日本最古の神社で日本の大地主神と言うことになる。太平洋戦争の末期に戦局打開を期待されながら華々しく散った戦艦「大和」にはここの分霊が祀られていたと言う。

帰りは先ほどのゲートボール場の横をそのまま北へ人家のあいだを行くと通りへ出るので、ここを左(西)へ行くと朝出発したJR「長柄駅」に出る。


〇 <写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2008-06-19 20:50

奈良の古墳めぐり・・その2-2

近鉄文化サロン現地学習 H20.5.15
山の辺の道添いの古墳②

上ツ道沿いの古墳

 今日は新シリーズ2回目、4月にめぐった桜井市纏向地区の北の部分になる。JR巻向駅から古代の国道「上ツ道」を北上する。桜井市と天理市の境界をこえると間もなく右手にある小さい美容室「カットサロン和」の裏手にある「柳本大塚古墳」に登る。この古墳は明治・大正期の資料によると小石室から径39.7㎝の内向花文鏡が出土している。後漢の鏡をモデルに作った国産品(仿製品)で後から行く天神山古墳より若干遅い時期とされた。前方部、後円部上は果樹園になっている。ほぼ築造当時の墳丘を保っているように見える。次に行く「石名塚古墳」と「ノベラ古墳」と共に100m前後の前方後円墳で同じころ共通の企画で造られたとされている。

 上ツ道に戻って北へ「石名塚古墳」に向かう、すぐ左の池の向こうに石名塚古墳がある、この古墳は西側から観察する方が見やすい。古墳を越えたところの道を左(西)へ入って墳丘を外れたあたりの「森モータース」の西の小道をはいると、後円部が見られる、畦道を行くと墳丘に登れるがその先は他人の家の庭先になるので遠慮しておこう。

 一旦上ツ道に戻って北へ行きすぐのところを左(西)に入る。家の裏が果樹園になっているところが「ノベラ古墳」である。古墳は削平されている、果樹園の中を歩くと、前方部はほぼ長方形になっており後円部はくびれ部らしいところが左右に確認できるが削り取られている。墳丘は何時ごろ削平されたか分からないが、土地の人は知っている限り現状は変わっていないとのことであった。民有地なので古墳の道路側にある民家に断ってから果樹園に入ってほしい。

山の辺の道沿いの2基の巨大古墳

 一旦上ツ道に戻り南へ行き先ほど石名塚古墳に入った所を今度は左(東)へ行き、県道に出て右(南)へ行く。左手に「上の山古墳」が見える。全長125m、後円部径86m、前方部幅60mの前方後円墳であるが、次に行く景行天皇陵の陪塚とされている。

 県道を南へ行くとすぐ景行天皇陵(渋谷向山古墳)に着く、県道側に拝所がある。全長約300m、後円部径168m、前方部幅170mの周濠を持つ大型の前方後円墳で、県下では橿原市の丸山古墳に次いで二番目の規模を誇る。山の辺の道ならびに県道天理桜井線沿いでは北にある崇神天皇陵(行燈山古墳)と並んで大型古墳として威容を誇っている。南側の周堤を後円部に廻る、周濠は渡り堤で区切られていて後円部や前方部には水が貯えられているが、空堀となっている部分もある。前方部の周濠は南側のものが異常に出っ張っている、幕末の陵墓改修で灌漑用に拡張されたものかと思われる。陵墓改修には領民を使って周濠を拡幅して灌漑用に利用できるようにする例が多い。は号陪塚「赤坂古墳」、その山手には「シュウロウ塚古墳」があって柿園となっている、墳丘からの眺めはすばらしい。景行天皇は奈良市内の近鉄「尼が辻駅」近くに御陵のあるすいにん垂仁天皇の第3皇子で、日本古代の英雄日本武尊(やまとたけるのみこと)の父に当たる。崇神天皇の父は近鉄「奈良駅」近くに御陵のある開化天皇で崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇と続く。関西大学考古学博物館に天理市渋谷から幕末に出土したという石枕がある、馬蹄形をしていて頭が乗るように窪みがあって鋸歯文がある優品である。出土古墳は確定していない。ここの博物館は見ごたえのあるものが多い上に日頃はすいているのでゆっくり見学できる。写真撮影も自由。

景行天皇陵の南の外堤を行く

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景行天皇陵の後円部の山の辺の道を北に行く。ろ号陪塚を経て渋谷町公民館の所を右に行って崇神天皇陵に向かう。
 休憩所を過ぎると「崇神天皇陵(行燈山古墳)」である。崇神天皇陵の後円部の東、ちょうど山の辺の道を挟んで「櫛山古墳」がある。まずその「櫛山古墳」によって行こう。古墳としては珍しい形で双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)と呼ばれている。普通前方後円墳の円墳を中心として前方部が向き合った形を言うが、この古墳の場合は前方後円墳の後円部の東側に方形の出っ張りが着いた形でしかも古墳軸上からずれて取りついている。雑木林となっているが下刈りされていて墳丘上や周囲には通路もできている、ただし北側は中円部で途切れている。山の辺の道からの入り口の両側には溜池が有り、周濠の名残と思われる。墳丘には所々に葺石が残っている、また白や黒のきれいな小石が有るが「めくら石」と伝えられているので持ち帰えらないようにご用心を。

まず説明板で勉強
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 崇神天皇陵は全長242m、後円部径158m、前方部幅102mの前方後円墳で周囲に水をたたえた周濠があって雄大な眺めを見せる。景行天皇陵と同じように周濠の東西に段差があるので渡り土手で区切って水位を保っている、また周濠の形態も幕末の修陵で拡幅されていて、元々は景行天皇陵と同じようなものであったと思われている。古墳の西を前方部の拝所に行く。崇神天皇陵は宮内庁によってよく手入れされているので外堤上を一回りできる。西の拝所正面の左(北)が「アンド山古墳」、右(南)が「南アンド山古墳」になる。

崇神天皇綾前で
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県道の西すぐ南に県道に一部削り取られた前方後円墳がある、いざなぎ伊射奈岐神社の境内にある「天神山古墳」で、県道工事に伴って調査された。全長113m、後円部径55m、前方部幅50m。後円部中央に主軸と平行した石室があって、扁平な割石を持ち送り積みしていて、檜の木櫃があって木櫃内に3面、周囲に20枚におよぶ銅鏡が出土したことで有名。人体埋葬の痕跡はなかった。

 今日は時間の都合で黒塚古墳は墳丘上を素通りしてJR柳本で解散した。次回は黒塚古墳とその資料館から始めることになる。

鬼気迫る山間の龍王山古墳群

 景行天皇陵から崇神天皇陵に行く途中、休憩所を過ぎてすぐに右手に龍王山へ向かう道がある。龍王山には総数1,000基におよぶといわれる古墳・横穴の密集地として有名な奈良県下最大の龍王山古墳群がある。この古墳群は標高586mの龍王山の西南斜面の標高150m~450mの間に分布している、別に山頂近くに横穴式石室が露出した古墳も有って見逃せられないので、一応全容を紹介しておこう。だらだらした坂道を上る。

 暫く行くと右手を流れる川が小川になってさらに沢となって道沿いを流れる。このあたりまで来るとすぐ後ろに円墳が見られる。さらに行くと今度は龍王山城跡を示す道標があり三叉路になっている、この直ぐ手前の右に上部が欠けた石仏が置いてある、元は6体分と思われるが、気をつけなければ見落としそうなくらいにひっそりと置かれている。この付近から上が龍王山古墳群を観察し易い場所となっている。このあたり一帯に小円墳や横穴が有る、横穴式石室が陥没したものもあるが石室が残っていて良く観察出来るものも多い、石室は割石・自然石を積み上げた横穴式石室である。

 登り切った所の三叉路を左に「長岳寺奥の院、不動明王石仏」の方へ行く、すぐに右手に樋から水が落ちているところに「長岳寺奥の院」の標識がある。山手に回り込むとそこに不動明王が佇立している。建物は無く石碑が有るだけの簡素な施設となっている。ここの水場の直ぐ先の山側は古墳になっていて、道側に横穴式石室が開口している。羨道も残っていて幅約1.4m高さ約2m見当。奥行き5~6mで割った石の平らな面を内に向けて積み上げ、上に行くに従ってせり出してくる造りをしている。天井が高いわりには封土が低く天井石が露出しそうな気がしてくる。よくもこんなに高いところにまで石を運んで古墳を作ったものと感心させられる。

 帰りもいま来た道を下るが、周囲の古墳に注意して下ると登りに見落とした古墳に出会えるかもしれない。この龍王山古墳群の古墳・横穴は総数1,000基におよぶといわれ、奈良県下最大の古墳群と考えられるようになっている。今回全域は回れなかったが機会を作って登ってほしい。
by yumeoijyuku | 2008-06-06 21:24 | 古墳めぐり案内

奈良の古墳めぐり・・その2-1

近鉄文化サロン現地学習 H20.4.17
山の辺の道添いの古墳①
大神神社から箸墓へ

「奈良の古墳めぐり」は3月で一巡し、この3年間で271基・群の古墳、古墳群、王墓を踏査した。今月からは2巡目になる。
今日は桜井市の北部「山の辺の道」を北へ大神神社から箸墓、ホケノ山、纏向の古墳を巡る。3月の「古墳めぐり」は雨のため1週間ずらしたが、今月も雨のため1週間延ばしての実施であった。しかしまたもや雨天で午後3時の解散まで断続的に雨模様が続いた。
桜井市は市街地の南部では明日香村に、西では橿原市の藤原京に接し古来大和国家の草分けから律令国家の成立までを見つめてきた地域といえる。

 大神神社は古墳にあまり関係が無いが、三輪山と共にこの地方の古代を語るとき避けて通れない。ここのご神体は三輪山そのもので正面の建物は本殿ではなく拝殿ということになる。
大神神社のすぐ北に狭井神社がある。祭神は、主祭神「大神荒魂神」。他に「大物主神」「媛踏鞴五十鈴姫命」「勢夜陀多良比売命」「事代主神」の名が挙がっている。垂仁天皇の時創建されたとある。本殿左奥には「御神水」が出る、水を飲めば諸病が免れるとされている。
 
 山の辺の道を、左に「大美和の社」入口を見て小さい坂を下ると古の小川「狭井川」を渡る。坂を上った所で「山の辺の道」と別れて左(西)へ行く。すぐに「神武天皇聖跡」の碑があるので目印になる。ここを行くと北村製麺所とある、三輪地区は三輪素麺で有名だ。突当たりを右へ、またすぐ左(西)へ行きJR桜井線の手前を右に折れる。ここの左手JRの線路との間に果樹園が見える、ここが「狐塚古墳」だ。削平されてしまっているが一片約40mの方墳と予想されている、石室の規模は全長17.3m、玄室長6m、幅2.6m、高さ3.2m。羨道長11.3m、幅2.1mで大きく県下でも有数の規模を誇る。石室の造りは明日香村の石舞台古墳に似ているので6世紀末から7世紀初めのものと思われる。石室内には、玄室奥壁に並行して凝灰岩製組合式石棺が1基、中央と入り口に2基分の破片があり、さらに羨道部には鉄釘が出土したので木棺が置かれていたと考えられる。横穴式石室でも4基も葬るのは珍しい。
  
 少し戻って集落の中を北に進むと、左手に小さな神社があって、この中に「弁天社古墳」が有る。墳丘は無く石室だけが残った感じで一見無造作に大木の根元に大きな石が置いてあるように見える。羨道部に凝灰岩を刳り抜いた家形石棺がある。石棺が覗けるところは石室奥壁の上で、玄室の石棺は無かった。

 今来た道をさらに北へ行くと集落のはずれの左手に小高い丘がある、「茅原大墓古墳」である。前方部を北に向けた前方後円墳で全長66m、後円部径56m、高さ8m。前方部は長さ10m、幅29m、高さ2mと小さく帆立貝式である。手前の池は周濠の名残といわれている。後で行く東田の4基の古墳よりは小ぶりで定型化しており時期的に下るものと見られている。埋葬施設等は不明。

 巻向川を渡ると国津神社の前へでるのでそこを左(西)へJR桜井線の踏切を渡って箸墓古墳に行くと、古墳の南の道路に出る。古墳の西手に拝所が有る。さらに北へ回りこむと周濠の名残の池が有る、今は潅漑用になっていて箸墓の美しい姿を映して景観を整えている。箸墓は全長280m、奈良県下第3の前方後円墳で後円部径157m、高さ25m。前方部幅140m高さ15mを測る。大型古墳の草分けとされており、最近の調査でその築造年代が更に遡る可能性が出てきた。
 4月から新メンバーが増えたが、雨で日程がずれたので休みの会員も多かった
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 箸墓から戻って先ほどの踏切を渡り巻向川沿いに行くと慶運寺がある、本堂のすぐ裏に「慶運寺裏山古墳」の両袖式石室が開口して残っている。墳丘は削平されて墓地になっている。寺の入り口付近には刳抜式石棺の身に仏像が彫られて残っている。

石室内、羨道は無くなっていた
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石棺のふたが利用されている
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 慶運寺から川沿いに少し戻って右(北)へ行くとすぐにホケノ山古墳がある。全長90m、後円部径60m、前方部幅40mで周濠をもつ前方後円墳。墳丘の一部に貼石が復元されあたりが公園になっている。「石囲い木槨」が発掘されて一躍有名になった。木棺を安置した木の部屋の周囲に川原石を積み上げて石囲いを作り、その上部は木材の天井、さらにその上は最終的に積石で覆う構造をしていた。
 ホケノ山古墳から道なりに北へ行く、小高い山が珠城山で3基の古墳が知られている。今日は雨なので登坂を避けて位置を確認するだけにした。1955年に今のJR桜井線巻向駅を造るに際して土を採取するときに、偶然石室の羨道部が開口して発掘調査が実施された。東の1号墳は横穴式石室が後円部に築かれ南に開口している、凝灰岩の組合せ式箱形石棺が残っており、橿考研付属博物館の庭に展示されている。古墳は纏向地区の北端に位置するが、この地区の他の古墳と比べて築造時期が明らかに新しく6世紀後半と考えられている。

纏向遺跡と4基の古墳
 西へ国道169号とJR桜井線を越えて纏向団地を過ぎて行くと纏向小学校があってこの付近に4基の古墳がある。いずれも帆立貝形の前方後円墳で古墳発生期のものとされている。
まず小学校手前に石塚古墳がある。円墳のようであるが前方後円墳であることが分かっている。全長93m、後円部径62m、前方部幅45m。実際それまでは円墳でないかと思われていたが、1971年に小学校の新築事前調査によって90mを超える帆立貝式の前方後円墳であることが判明した。1989年にも調査が行われ、前方部が三味線のバチ形に開いた全長約90mを越える前方後円墳と分かった。周濠から見つかった檜の板は年輪年代測定法で西暦175年前後と判定されて3世紀前半の築造ではないかとの見方もある。3世紀半ばとすると被葬者は大和政権に直結するとされる卑弥呼を知っていた人物とも考えられ興味が広がる。1996年12月には桜井市教育委員会の調査で石塚古墳の墳丘から出土した大量の土器によって3世紀初めに築造された日本最古の古墳と見られると発表された。

 小学校の右手(北)には勝山古墳がある。古墳の東側を除いて勝山池と呼ばれる灌漑用の池に囲まれていて周濠の名残と思われている。全長100m、後円部径60m、前方部は幅20mと極端に狭いが、最近の調査で築造時は他の古墳と同じような構造であることが分かった。

 小学校の西へ回り込むと矢塚古墳がある、矢塚古墳も一見円墳のように見えるが、古墳の南側が前方部で、くびれ状の曲線も観察できる。全長96m、後円部径64m、前方部幅40m。
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 矢塚古墳から南に「東田大塚古墳」が見える、他の3つの古墳と異なり周濠が無いのではないかと思われていたが、周濠が有る事が確認されたと平成10年3月に調査結果の発表があった。全長96m、後円部径64m、前方部幅30m。

 今まで見てきた4基の古墳はホケノ山古墳も含めていずれも90m~100mの帆立貝式の前方後円墳で前方部の縦軸長さが後円部の半径にほぼ合致し、前方部が極端に短く後円部がやや縦長の卵型をしている、前方後円墳が定型化する前の段階のもので、石塚古墳と同時期に短期的に同じ企画性の下に築造されたものと思われている。
ここの東の山麓から西へかけて約1km、南北500mに広がる区域は纏向遺跡といわれている。戦前の1937年には発掘の報告がされており「太田遺跡」として知られていたが、1971から始まった辻地区の県営住宅団地建設に先立つ調査および纏向小学校移転に伴う東田地区の調査によって古墳時代前期の遺跡が広範囲に分布していることが分かり「纏向遺跡」と呼ばれるようになった。
纏向遺跡は周辺の箸墓・渋谷向山・行燈山古墳といった古墳と時期を一にして大集落が突然現れ、また衰退している。発見された大溝も潅漑用と言うより資材運搬を目的とした運河の可能性が高い。この地域には都市としての機能が備わっており当時の日本の都であったとしてもおかしくなく、築造された大前方後円墳群とそれを築造した大王の権力と深いかかわりを持つ遺跡とされていることもうなづける。

 2007年7月27日の新聞によると。纏向遺跡の井戸から3世紀前半の木製の仮面が見つかり26日に市教育委員会が発表した。農作業用の鍬(くわ)の刃の部分を加工していたことから、豊作を願う祭祀(さいし)に使われた可能性が高いという。木製の仮面としては国内最古の出土例で、当時の信仰の様子を知る上で貴重な資料とされた。

 帰りは纏向小学校の所を東へ行き、JR桜井線「巻向駅」からとなる。巻向駅は無人で後の車両の扉は開かない。

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by yumeoijyuku | 2008-04-24 22:49 | 古墳めぐり案内