古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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奈良の古墳めぐり・・その2-6

近鉄文化サロン現地学習 H20.10.16

天理市北部の古墳古代豪族物部氏の古墳

 天理よろづ相談所病院の前の道を北へ突当たり、右手の細い道を入る。
その先の小学校の裏手を右手(東)に入り左、左と進み池の間を行くと突き当りが今日最初の「別所大塚(べっしょおおつか)古墳」である、全長125m。丘陵部の最西端に位置する。後円部に廻ると周濠部が畑として残っており良く観察できる。ここの後円部を回り込んだところと中学校との間の道を右(北東)へ登ってゆく。登り切ったあたりで広い道につきあたる。

 広い道を横切って右手の林に入って山道を行くと左手にブドウ畑があって、その先が「ウワナリ塚古墳」の前方部になる。左手の山道への入口に柵があってすぐに横穴式石室の羨道部が破壊開口していて中に入れる、丘陵部を利用して成形した後期古墳では大型に属する前方後円墳で、全長110m、後円部径68m、高さ16m、前方部巾80m、高さ16m。玄室は奥行き6.8m、幅3.1m、高さ4mの大きなもので、県下でも有数の大石室を持つ。羨道は3mを残して大部分は破壊しているが9mは有ったと想定されている。前方部はぶどう畑になっている。ウワナリとは後妻のことで先妻はコナミ、奈良市北方の佐紀古墳群のウワナベ古墳、コナベ古墳と同意。

 天理市の市街地からこの付近にかけては当時の大和政権の武器庫であった石上神社を支配した「物部氏」の影響が大きく、これらの大型古墳も物部氏とその一族の奥津城と推定されている。

和爾氏の故郷、檪本・和爾地区へ 
 ウワナリ塚古墳を東へ抜けて小道を左(北)へ行き、西名阪道路をくぐって、側道を左(西)へ行くと右にシャ-プ総合開発センタ-への進入道路があるのでそこを入る。この区域には28基の古墳が有ったが工場建設に伴って調査の後、2基の前方後円墳を残して破壊されてしまった。破壊された26基の古墳はそのほとんどが横穴式石室をもつ後期古墳で、径20mの大型円墳から墳丘がほとんど判らないくらい小さく1m内外の石室を持つ古墳までさまざまであるが、このうち5基の石室が総合開発センタ-入口門の手前に復元されている。

左:左手が開発センター入口」、右:移築された石室
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 先ほどの人材開発センタ-の西にある社宅の裏手に前期の前方後円墳「赤土山古墳」がある。3年前に行った時は墳丘に樹木が無く形状がよく判ったが、今回は草茫々で墳丘へは一歩も入れなかった。平成12年~13年にかけて発掘調査があり天理市教育委員会から13年12月に現地説明会があった。今まで測量図から前方後方墳と見られていたが括れ部の形状から全長110mの前方後円墳に変更された。また後円部先端に方形の造りだしが認められ、双方中円形的な要素がある。古墳時代前期末~中期初頃の特徴をもつ。 

 和爾下神社の参道左手にゲ-トボ-ル場が有りその先にこんもり木が繁った区画に「歌塚」と書かれた碑が建っている。説明板によると柿本氏の氏寺が有った所で、歌聖柿本人麿(かきのもとひとまろ)の遺骨を葬ったとある。これが本当なら6月に「山の辺の道」の歌碑を紹介した人麿は、妻を龍王山に葬ったが本人はここに眠っていることになる。

歌塚
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 和爾下神社の本殿は古墳の後円部頂いあって全長約120mの前方後円墳で前方部は両側へ撥形に開く特異な形態をしていたらしいが破壊されてしまっている。

和邇下神社の北にある天理教城法大教会の裏山に東大寺山古墳(北高塚(きたたかつか)古墳)がある。本殿の裏に案内板があって山に登る階段が有る。この奥は道が無いが「史跡東大寺山古墳」の目印に添って左手に昇ると後円部墳頂で、これより奥(北)が前方部になる。後円部から割竹型木棺を持つ粘土槨の埋葬施設が検出されている。豪華な副葬品が多数出土しているが、中に2世紀末に中国後漢末の年号が記された金象嵌(きんぞうがん)の銘文を持った花形環頭太刀(はながたかんとうたち)を含む鉄刀20、鉄剣9が検出されている。

 この古墳と赤土山古墳、シャ-プ総合開発センタ-内に散在する古墳群、和邇下神社古墳を合わせて東大寺山古墳群を構成している。天理市の北部和爾町から檪本町(いちのもとちょう)にかけては古代大和政権の一翼を担った和爾(和珥)氏の本拠地とされ、奈良市北部の佐紀古墳群と同様和爾氏一族の奥津城の可能性が高い。柿本氏も和爾氏から出た同族である。
天理教教会を出て東大寺山古墳の北へ回り込んだところ、和爾の集落への入口にあたる所に「櫟本(いちのもと)高塚公園」があって展望台から奈良平野を一望できる。

左:展望台からの眺め、右:左写真のほぼ中央に見える白い建物の向こうに、平城宮跡に建設中の大極殿の覆いが見える、その先には奈良大方面。
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 高塚公園から戻って県道の西の新池とその南のAコープとの間を入ると墓山がある、これが「櫟本(いちのもと)大塚古墳」で、墳丘全体が墓地になっており県道側を除いてあまり建物が無いのでよく目立つ。ここから南西に抜けると車の通る道に出るので左(西)へ行くとJR桜井線檪本駅にでる。
by yumeoijyuku | 2008-10-20 21:50 | 古墳めぐり案内