古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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大和の古墳をめぐる・・その2-30

斑鳩町とその周辺の古墳①   2010,11,18

今月は斑鳩町の古墳をめぐる。訪問に便利なようにJR王寺駅北側からバスで「法起寺口」まで出て近くの「駒塚古墳」から始めよう。
後で訪問する瓦塚1、2号墳と共に斑鳩の3基の前方後円墳の内最後に造られたものである。現状での長さは49m、前方部は大きく削り取られている。江戸時代の説話によると、聖徳太子が崩じたとき愛馬が悲しみのあまりその墓の前で殉じたので、哀れに思った人びとがここに塚をつくり手厚く葬ったとされている。聖徳太子は馬に乗って筋違道を飛鳥へ通ったと伝えられている。墳丘には葺石の一部と土器片があったが埴輪は確認されていない。駒塚古墳が築造されたのは5世紀前半とされており築造は太子の時代より大きく遡る。またこの古墳の南にみえる「調子丸古墳」はこの駒の馬丁が眠っていると言われている。2000年の調査で北約5mのところから土馬の頭部が発掘されている、推定全長は約30㎝。2基の古墳は古くから塚として認識されていた古墳である。

中宮寺東の交差点を北へ行くと、建物が途切れた辺りの右手に遊休地のようなグランドがあってそのすぐ北に一段高い区画が有って森が見える、これが中宮寺跡である。斑鳩町によって発掘調査が続けられている。今回の13次発掘調査では、三重塔(高さ20m)の心礎と、心柱を立てるための櫓跡(やぐらあと)が見つかっている。
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左:中宮寺跡地、西から、右:発掘調査中

 ここを北へ行き、法起寺への進入路のある信号のある変形交差点を北へ入って行くと右手の塀に「瓦窯跡」の説明板がある。「地下式有階有段(ゆうかいゆうだん)登窯」で窯内からは丸瓦と平瓦が出土している。この窯跡のすぐ上に瓦塚2号墳が有る。東面する前方後円墳で1976年(昭和51年)の調査で全長95m、後円部径60m、前方部幅45mと計測されている。鎌倉時代の初期に法隆寺の学僧が表したとされる『古今目録抄』 (『聖徳太子伝私記』ともいう)にある「瓦塚」に当たる。築造は1号墳と同じ5世紀前半頃と推定されている。2号墳の墳長からの眺めが良い。

 この古墳と後円部が接するように「瓦塚1号墳」が有る。これは前年の1975年に調査されている。前方部を北北東に向けた前方後円墳で全長97m、後円部径60m、高さ8m、前方部幅47m、高さ2m。墳丘は二段に築造されていて、各段の裾部には埴輪列とその内側には葺石も整然と検出されている。埴輪列は円筒埴輪を主とし、壺形、朝顔形埴輪も有った。後円部には家型、鳥形の象形埴輪片が散乱していて祭祀跡と判断されている。5世紀前半のものと推定されている。2号墳のすぐ南に直径約40mの3号墳が有るがこれが最後に造られた模様。

 さきほどの信号のある変形交差点に戻って今度は右手(西)に進む。左手にさきほどから見えている三井岡原遺跡(弥生時代後期低丘陵性集落)の丘の頂部に富郷(とみのさと)陵墓参考地とされている径30mの円墳がある。聖徳太子の子の山背大兄の墓との伝承がある。墳丘から埴輪片が採集されていて、古墳時代中期の築造と考えられており、643年に蘇我馬子に攻められて自害して亡くなった山背大兄王とは時代に大きな開きがある。
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左:富郷陵墓参考地(北より)、右:説明板

法輪寺のところから南へ行くと右手の森が中宮寺の墓地になっているが樋崎(ひいざき)古墳群と呼ばれる小規模の円墳10基ほどの古墳群があるが詳細不明。
片野池のところを右手(西)に行くと突き当たる天満池を左(南)から回りこんで北へ向かうと、右手に「仏塚古墳」が見える、田圃の中なのでよく分かる。1976年(昭和51年)に斑鳩町教委の依頼によって橿考研が調査している。現状で南北16m、東西18mの方墳であるが、調査の結果空堀をもつ一辺23mの方墳と分かった。南に向かって開口する横穴式石室式は花崗岩の自然石を積み上げた両袖式で、玄室長3.9m、幅2.2m、高さ2.7m。羨道は長さ5.5m。石室床面に河原石を敷き詰め、玄室の周囲と羨道の中央部に蓋石を持つ排水溝があった。土師質の陶棺の破片があって亀甲形陶棺が二棺以上有ったことが分かっている。開口部には施錠された扉があって中に入れない。石室内の出土遺物は古墳本来の遺物よりも後の時代の仏教遺物が多く、注目された。
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左:仏塚墳丘、中:開口部付近、右:開口部

古墳は石室に巨大な石材が使用されていることと、出土した須恵器の形式から6世紀後半から末にかけて築造された。その後、いつか開口した石室が石の堂として利用され中世の長期に亘って信仰の場として使用され続けていて、時には納骨堂として利用された可能性もある。被葬者については聖徳太子の妃を出した在地の豪族、膳臣氏との関連を想定する説がある。
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左:石室奥壁、右:左側壁、奥から、右手が入口

仏塚古墳から南の山沿いに西、南西にとると車道がいよいよ細くなる辺りで左の山の中へ入る道がある。この細道をそのまま南へ行くと法隆寺の西端を行くことになる。法隆寺の門の南を通る東西の道路を右(西)へ行くと復元された藤ノ木古墳に出る。
藤ノ木古墳は、径48m、高さ9mの円墳。玄室長6.3m、羨道長8.2m、さらに長さ5.5mの墓道が付くので総長は約20mとなる。06年11月から一般公開に向けて整備工事が実施されたし08年3月に完成した。
藤ノ木古墳は1985年の発掘調査で透彫りのある金銅製鞍金具ほかが発掘され、さらに88年には密封状態を保っていた凝灰岩製の刳抜式家型石棺が開かれ人骨とともに夥しい副葬品が取り出された。これらの副葬品は一括して04年に国宝に指定されている。復元されたものも含めてレプリカが近くの「斑鳩文化財センター」に展示されている。
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藤ノ木古墳(復元)全景
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開口している羨道部には扉が有って入れない。

  2008.3に整備工事が完成した藤ノ木古墳の近くに斑鳩町「斑鳩文化財センター」が2010.3に開館している。藤ノ木古墳関係出土品(レプリカ)が展示されている。(今月は「特別展」のため有料300円)。
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文化財センター、左は複製された石棺、以前藤ノ木古墳の前に置かれていたもの

斑鳩大塚古墳へは斑鳩町役場の国道を越えた南にある斑鳩小学校の東側の細い道を南へ入って裏手に出てさらに細い道を南へ行くと殉国碑が立つ斑鳩大塚古墳に出る。径35m、高さ4mほどの円墳であるが殉国碑建設で改変されている。1954(昭和29)年に殉国碑建設中に粘土郭が現れて緊急調査されている。全長7.5m、幅1.5mの規模と推定された粘土郭の中には幅約60cmの割竹形木棺が安置されていたと推定された。この粘土郭が中央より南に寄っているので他に粘土郭があったのではないかと思われている。古墳時代中期の古い時期、4世紀末から5世紀初頭と推定され、斑鳩町他この付近では最も古い古墳に属するとされた。
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左:斑鳩大塚古墳、後円部、右全景、南より

帰りは「斑鳩町役場前」バス停までが近いが、JR「法隆寺駅」までは約1kmで行ける。
by yumeoijyuku | 2010-11-22 22:35 | 古墳めぐり案内