古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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纏向遺跡の新発見が語るもの講演会

邪馬台国からヤマト王権へ2010.03.21

奈良大春のオープンキャンパス&公開講座に行ってきました。

『卑弥呼の宮殿跡か? 邪馬台国論争に決着か? 邪馬台国からヤマト王権へ-纏向遺跡の新発見が語るもの-』との触れ込みで奈良大学講堂で市民公開講座が有ったので聴きに行ってきた。講堂は臨時に椅子を並べるほどの盛況で、資料の数が足らずに増刷して配っていた。

出演者
桜井市教育委員会文化財課主査、奈良大学20期生 橋本輝彦先生
大阪府近つ飛鳥博物館館長、前奈良大学教授 白石太一郎先生
司会:奈良大学文化財学科 坂井秀弥教授

『纏向遺跡の発掘調査』-卑弥呼の宮殿を探して-橋本先生

・奈良大学では国文科で学び、部活が考古学で最初は退部の時期をうかがっていたが止められず、そのうち纏向を掘りたくなって桜井市に就職した。

◎纏向遺跡の範囲
① 纏向遺跡の初期は最初に祭祀遺物が出土した団地の一角を中枢とする庄内式期(2~3世紀初)中枢地域を中心とする1km四方の区域であった(今の遺跡で言うと纏向の石塚、東田大塚といった‘墳墓’、相撲神社口バス停を含み、箸墓古墳の大池の北付近までを含む範囲)。
② 次の規模は布留式期(3世紀末~4世紀)で東西2km、南北1.5kmの範囲であった。中枢地域はこの地域の北東に偏るが珠城山古墳群のすぐ北から天理市との境界付近までを想定している(地域の概略は北が天理市との境界付近、南は箸墓古墳を含みその南、東は穴師の相撲神社付近、西は東田地区を含む範囲)。

◎纏向遺跡の特徴は
① 出土する工具の内スコップとして使用する鋤の比率が95%有って水田が主な唐子遺跡で 50%、他の場所では20~50%なので明らかに水田に使用されたものではない。また土器も他の地方からのものが多い。
② 近くにはベニバナ工房も見つかっている。ベニバナを染料として使用するには高度の技術が要る。アフリカ→中国→纏向に伝わったものと思われる。藤ノ木古墳で使われているが6世紀末頃のことである。
③ 3世紀後半のものとして鍛冶関連遺物が出土している、これには北部九州の羽口が有って九州とのつながりが有ったことがわかる。

◎発掘場所
今回発掘した場所は周りの田圃から一段高くなっていて、柿本人麻呂の屋敷が有ったのではないかといわれていた場所である。

◎発掘の成果
(発掘現地の報告は、タグ「現地説明会」で検索し「纏向遺跡発掘現地09.3.21」、「纏向遺跡発掘調査現地説明会09.11.15」参照)

  発掘された建物は柱跡から09.11.15のブログの模型が想像されている。この柱跡発掘につ いて、
①ブログにある模型の奥にある建物Dは現地では東(奥)の柱列2通りと他一部が検出された、柱跡からは当時柱を立ち上げた方向まで解明できて、建築の専門家の意見を参考に復元したものでかなりの精度が得られた。
②各建物の軸線は東西一直線に揃っており設計意図がうかがわれる。
③建物Cの棟持柱は壁の外に建てられていて後の伊勢神宮式である。
④柱は全て抜き取られている。柱穴には土器が残っているものが有って庄内3式(3世紀中葉以降)が出ている。

◎遺跡のその他の特徴
①建物の時期は卑弥呼の時期と合う。
②南北が正しく建てられている。
③後の宮殿建築設計に引き継がれている。
④建物建築以前の遺物は出ているが、以後の地層には遺物が出ていない。居館区域は清い場所とされていた。飛鳥宮跡も同様の傾向がある。

橋本先生は注意深く、「卑弥呼の時代に有った居館遺跡」とし、卑弥呼の居館とは言わなかった。


『考古学からみた邪馬台国と初期ヤマト王権』 :白石先生

1、古墳の形態と時期的な分布を中心に、弥生末期から古墳墳時代に移る時期の国家連合形成にかかる持論を展開された。
① 古墳時代前期初頭には広域の首長連合の首長が地位に応じた大きさの古墳を造った、その中心が大和である。以前は3世紀末~4世紀初頭とされていた(小林行雄ら)。しかし今ではその時期が遡っていた、出現期の古墳は3世紀中頃と考える。古墳の考えでは九州説には無理がある。
② 弥生末には鉄の時代となったが、日本では鉄の製造ができなかった。
③九州では輸入した鉄を再生して使わなくても、捨てられるほどに豊富にあった。
④ 3世紀初めに九州と畿内・瀬戸内連合が鉄の入手で争って、中心が畿内に移った。漢鏡の分布の状態からも分かる。
⑤その後は畿内の邪馬台国連合と濃尾平野に代表される狗奴国連合が共存したが、やがて邪馬台国に合体した。これは東海地方にあった前方後方墳が4世紀初頭から後半にかけて姿を消して前方後円墳が全盛となることでも理解できる。


2、二十数年来邪馬台国は大和でなければ考えられないと思ってきた。纏向の建物が卑弥呼の建物である。
① 纏向では学術調査の結果が早く出た。
②建物群(奥にある東からD,C,B,A)としては建物B,Cの辺りが立てこんでいるので正面は建物Dの奥側(東)である可能性が大きいので今後の調査を待つ。
③ 邪馬台国から大和の政権への歴史を語る初期の倭王5基の古墳(纏向を中心とした箸墓古墳→西殿塚古墳→桜井茶臼山古墳→メスリ山古墳→行燈山古墳(現・崇神天皇陵)→渋谷向山古墳(現・景行天皇陵))とその周りの古墳の解明が必要。
④国家形成を考えるには飛鳥に匹敵する国レベルの調査・保存が必要で、今回の調査が契機になる。

この後、坂井先生の司会でシンポジュウムが実施されてから閉会となった。
by yumeoijyuku | 2010-03-22 21:15