古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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大和の古墳めぐり・・その2-19

朝日カルチャーセンター 現地学習 09.12.17

石舞台古墳から飛鳥宮跡へ

飛鳥の3回目は石舞台古墳から飛鳥の中心地の南部分を歩いた。592年、女帝推古天皇が豊浦宮で即位して以来、計画的な首都である藤原京が出来るまでのほぼ一世紀の間、天皇の宮は飛鳥に集中して営まれる。近年飛鳥宮跡の発掘調査が進み、当時の宮の場所がほぼ確定されてきている。
近鉄吉野線「飛鳥駅」からバスで石舞台古墳まで行く。平日なので約15分で到着する予定。石舞台は蘇我馬子の墓とされている。飛鳥では早くから水田に露出している巨石が知られており、1912年には蘇我馬子の墓と推定されている。1933年(昭和8)から京大の浜田耕作が指揮して後に橿考研所長となる末永雅雄が発掘調査をしている。1954年からは埋もれていた堀を掘り出す工事が行われていて今の姿が現れている。古墳は一辺50mの方墳で濠の幅は約8.4m、斜面には花崗岩の貼石があって一部は復原されている。玄室の大きさは長さ7.5m、幅3.4m、高さは7.7mあって両袖式の巨大石室の代表格である。最大の石材は推定72tあるという。凝灰岩片が多数有ったことから石棺が有ったと推定されている。
石舞台古墳より南南東に都塚古墳がある、冬野川を越した対岸にあたる位置にあるが、今日はその前に、石舞台から東へ冬野川橋を渡らずに県道を川沿いに少し上って、冬野川に架かる橋の手前を案内標識に従い左手の山に登って打上古墳に向かう。どんどん上り人家が途絶えて間もなく古墳への標柱が有るところの林の外れを山に入る。すぐ右手に古墳が開口している。7世紀中頃の古墳とされている。
打ち上げ古墳、左:開口部、入口は這ってはいる。中:奥壁と右手が側壁。右:玄門部袖石と開口部
大和の古墳めぐり・・その2-19_e0080110_21215766.jpg


都塚古墳は金鳥塚ともいわれ、金の鶏が埋められていて正月元旦に出てきて鳴くという金鳥説話がある。残念ながら石室入口には柵があって学術調査以外では中に入れないが、石棺まで見られるので行ってみよう。墳丘の改変が相当著しく、不整形になっており推定直径30m程度の円墳とも方墳とも考えられている。横穴式石室は長さ12.20mで南西に向かって開口している。玄室は長さ5.30m、幅は奥壁部で2.55m、羨道部寄りで2.95m、両袖式のもので、高さは玄室中央の最高所で3.55m、花崗岩の巨石を奥壁で石積みを行っている。羨道部は長さ6.90m、幅は約2m。石組みは二段積みで、いずれも天井石は持ち去られている。現高1.9m。
 玄室内には、見事な刳抜式の竜山石(凝灰岩)製家形石棺が安置されている。この前面には木棺が追葬されていたと推定されている。石棺の型式や玄室内出土土器などより、6世紀後半にその築造が考えられているが今ではもう少し新しい時代に設定されている。
都塚古墳、東から。手前の空き地には建設資材置き場になっていたが、かたずけられていた。
大和の古墳めぐり・・その2-19_e0080110_2129031.jpg


都塚古墳からは明日香村役場のすぐ東にあるエビノコ槨に行こう、南北70m、東西95mあってその中にエビノコ殿と呼ばれる大きな建物が見つかっている。Ⅲ期の飛鳥浄御原宮の大極殿とされている。
ここからずっと北に行くと、飛鳥板葺宮の実物大模型が復元されている。この辺りから南西にかけて南北約197m、東西155mの区域が飛鳥京跡とされている。1960年以降の調査で、舒明天皇の630年以降藤原京に移るまで宮殿が次々に営まれた場所であると分かった。下層からⅠ期~Ⅲまで区分されている、
Ⅰ期:舒明天皇(629~641在位)の飛鳥岡本宮(630~)
Ⅱ期:皇極天皇(642~645在位)の飛鳥板葺宮(643~)
Ⅲ期:斉明天皇(655~661在位)の後飛鳥岡本宮(656~)。天武(672~686在位)・持統天皇(686~697在位)の飛鳥浄御原宮(672~694)
宮殿跡から飛鳥川右岸を少し上って川原寺跡に向かう。今中金堂の跡には弘福寺(ぐふくじ)がある。川原寺跡の南向かいには橘寺がある。聖徳太子生誕の地とも太子が建立したともいわれている。
次に橿原市に入って菖蒲池古墳に向かう。途中バス路を避けて一つ南の道を西へ行き、亀石を見て行くことにしょう。
亀石付近を行く
大和の古墳めぐり・・その2-19_e0080110_2130529.jpg


亀石から西へ程なく交叉する車道を右に行き、すぐのバス路を左(西)へ行く。すぐに右に入る道があるのでここを行くとまもなく菖蒲池古墳になる、国の史跡に指定されている。形状ははっきりしないが、20m前後の方墳か円墳と考えられている。玄室は両袖式の横穴式石室であることが判明している。二基の家形石棺が石室主軸にあわせて縦一列に安置されている。家形石棺は屋根部分が極めて特徴的で、二基とも天井部分が棟飾り風に仕上げられている。時期は7世紀中頃前に位置づけられている。
もう一つ橿原市にある丸山古墳を訪問して今日の締めくくりとしたいが、途中「植山古墳」にも寄りたい。この古墳は2000年8月に発掘調査現地説明会が行われて、東西2基の石室が調査された。東石室には阿蘇ピンク石でできた家形石棺が残存していた。また西石室の玄門には竜山石製の閾石が置かれていた。東石室が6世紀末頃、西石室が7世紀前半頃のものとされている。現在公園整備中で近寄れないが、南東の春日神社からのぞいてみよう。推古天皇は死後には竹田皇子の墓に葬ってくれるよう遺言し、そのようにされたとあるので、先ず植山古墳に埋葬しその後大阪府太子町の現推古天皇陵に改装されたとされた。菖蒲池古墳のすぐ西の道を北へ住宅地の中を入り2ブロックほど先を西へ入って行き、広い道の先の丘に春日神社があるのでここの階段を上る。社殿の裏から古墳が覗ける。
植山古墳、青いテントの下。向こう左手に丸山古墳墳丘が見える。周囲は公園整備中。東の春日神社より。
大和の古墳めぐり・・その2-19_e0080110_21341344.jpg


春日神社から西へ抜けて丸山古墳を見学しよう。古墳は全長320m、後円部径150m、高さ21m、前方部幅210mの規模で、前方部側の幅で測って300mの周濠が付く。横穴式石室で、宮内庁の実測では玄室長7.5m以上、幅4.5~5.5mあって、日本一の大きさを誇る。被葬者は欽明天皇が有力である。この古墳は墳頂部が陵墓参考地に指定され、宮内庁の管理となっている。ヒアダリ:丸山古墳後円部へ。右:後円部のみ陵墓参考地になっている。
大和の古墳めぐり・・その2-19_e0080110_2135918.jpg


ここからは近鉄吉野線「岡寺駅」に近い。
by yumeoijyuku | 2009-12-18 21:44 | 古墳めぐり案内