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茅原大墓古墳現地説明会見学報告 2012,2,18 

纏向遺跡現地説明会と同じ時に茅原大墓古墳の現地説明会もあったので見学した。

 桜井市教育委員会の第5次調査・研究現地説明会資料を参考に報告する。

 茅原大墓古墳は4世紀末頃築造とされ、奈良盆地東南部で3世紀代から続く大型古墳の系列の最後に位置づけられている。それまでの200mを超える巨大前方後円墳は造られなくなっている。、奈良盆地北部や河内地域に移り、当時の政権内における勢力変動を反映しているとされている。

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墳丘は果樹栽培のため大きく改変されている。左:茅原大墓遠景、後方は三輪山。中:中景、説明中。右:説明図。

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出土土器1:墳丘西側2段目くびれ部埋葬施設として流用されていたもの。

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出土土器2:同上

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左:前方部北東角の葺石と渡土堤、手前が東、周濠は向こう(右=西)へ延びるが、右の説明図(上が南)茶色のように前方部北東隅に渡土堤があった・・周濠の段差による水位調整用。

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2段目東側くびれ部。右:その位置

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後円部墳頂より。左:三輪山。中:箸墓。右:後円部には周濠跡が残る、正面に耳成山、その左に畝傍山。

以前の発掘調査報告はこのブログの2011.2.26(盾持人埴輪)参照。

 桜井市は2011年11月に市長選挙があって、新人の松井氏が前市長谷奥氏を倍以上の票差で破り当選している。谷奥市長は「卑弥呼の里・桜井市」を売り物にしていたが、今後の桜井市はどうなるのか?

 当日は寒い日であったが途中の道の要所に道案内の方が立っていてくれた。現地説明の方共々、寒い中お疲れ様でした。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2012-02-24 23:04 | 現地説明会、講演会

纏向遺跡現地説明会見学報告 2012,2,18 

2月18日に行われた巻向遺跡調査現地説明会の報告。以前の調査区画で発掘された3世紀前半の建物群の南に隣接する区画を調査している。

以下、桜井市教育委員会の「巻向遺跡第173次調査現地説明会資料」を参考に記述する。
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ラッピング列車で巻向駅へ。左:春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣乾したり 天の天香具山 持統天皇。右:現地受付

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出土土器1

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出土土器2

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ラッピング列車が通る。銀も金も 玉も何せむに 勝れる宝子に及かめやも

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南東部の土壙とそれによって壊されている溝、庄内3式期(3世紀中頃)~布留0式期(3世紀後半)の土器が出土しているのでその頃に埋没したとされる。向こうに巻向駅。左、中:北西より。右:北より。

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左、中:布留3式土器が出土した土壙SK1005。右:前回出土した建物跡の柱跡から南を見る。左がJR桜井線。

 北側で以前発掘された建物群から今回の調査地の間に遺構が特定できていないことから、建物周辺に一定の空間が確保されていたのではないかとも考えられるという。資料は。「今後は居館域の構造や個々の遺構の性格を明らかにして行きたい」としている。

以前の調査内容については、このブログの「2009.11.15」、「2010.9.19」参照
by yumeoijyuku | 2012-02-24 00:22 | 現地説明会、講演会

橿原市磐余池現地見学会 見学報告

橿原市磐余池現地見学会 2011.12.17 

 古代磐余の範囲をみると東は桜井市の茶臼山古墳、メスリ山古墳、阿倍文殊院から、西・南は香具山の北あたり、北は近鉄大阪線の南を通る横大路までの範囲が推定されている。『日本書紀』に履中天皇2年(401年)のときに「磐余池をつくる」とあって、翌年にはこの池に「舟を浮かべて」遊宴したとある。一方用明天皇は在位足掛け3年で崩御し用明2年(587年)に宮のすぐ近くの「磐余池上陵」(桜井市池之内にある稚桜神社付近に候補地がある)に葬られ、のち推古元年(593年)に「河内磯長陵」に改葬されている。・・「日本の古代遺跡」5 奈良中部、㈱保育社、1983より抜粋。

 以下主に橿原市教育委員会・2011・12.17現地見学会資料「大藤原京左京五条八坊の調査」による。
 堤は池の北端に「ヘ」の字状に湾曲した高まり(長さ約220m、幅約20m~45m、南側の水面からの高さ約1.5m~2.5m)があって今回はその「高まり」上を発掘したもの。この高まりが南西から北東に延びる数条の谷筋をふさぐ形状であることから「磐余池」の堤に推定されている。
 今回の調査のまとめ。
①「高まり」が人工的に築かれた堤であることが確認された。
②池の上で見つかった大壁建物は渡来系集団と池の築造との関係を示すものとして注目される。
③堤の上で見つかった6世紀後半~7世紀前半の建物は池と同時期に存在していたことから、池に関連する施設であった可能性が高い。
④堤の上から見る池は景観的にも優れており、遊宴用としての役割が推定される。また盆地南部に水を供給し易い高所に立地してお入り、灌漑用の池として理にかなっている。

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左:説明会会場、前方の山の麓からこの近くまで磐余池があった。中:会場のすぐ南西の田んぼ、この左手向こうへカーブを描いて延びる畔が池の端で、右手から奥が池であったとされている。この写真の手前の畔が右の写真の家の手前の畔に続いている。その西は歌碑のあるところにつながる。

前掲左写真の道路沿いに向こう(南へ)100m行った先の左手で桜井市が平成12年度に調査したとき、池の堆積土が発掘されて6世紀後半~7世紀初頭のものとされた。この時期には池が機能していたとされている。

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堤造成土。左:調査地南端、ここのすぐ右手が前掲写真の「中」になる。中:左の北側(造成土1)。右:中の部分を逆に南から見る。

 造成土1は砂質土や粘土(厚さ1.4m)を積み重ねている、6世紀後半以前のもの。

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東部で発掘された掘立柱建物1を白杭で示している。右:現地すぐ西の道路で向こうは南、この道路の拡幅工事に関連して遺跡調査が行われた。

掘立柱建物1の建物は南北7間以上、東西2間の南北建物は6世紀後半ころのもの。


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左:大津皇子の歌碑「ももつたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」万葉集 巻ー416、この前方が磐余池跡とされている。向こうの小山あたりが池の南辺になる。中:御厨子観音寺入口、このすぐ左手に歌碑がある。右:桜井市の吉備池にある大津皇子の歌碑(於、2000,3,11吉備池廃寺発掘現地説明会)。

12月16日の毎日新聞は記事の中で。堤上の大型建物跡について、奈良大学教授上野誠先生は「宮の付属施設と考えていいのではないか。池を他t物から眺め、宴席も行われただろう。当時の人々にとっては思い出のいっぱい詰まった場所だった」と想像する。と報じている。

 桜井市は堤からほぼ北へ600mほどにある「吉備池」あたりを磐余池として歌碑を置いたが(大伯皇女の歌碑もある)、磐余池はここ橿原市にあったように思われる。吉備池は官営の吉備寺が有ったことが確定しているので歴史的遺跡であることは間違いない。
by yumeoijyuku | 2011-12-20 23:38 | 現地説明会、講演会

茅原大墓古墳調査現地説明会報告

桜井市教育委員会・茅原大墓古墳第4次調査現地説明会報告 2011.2.26

以下、説明会資料による。「史跡整備に向けた、古墳継体の確認調査」として2008年から行われていて、その第4次調査が2010.11月から行われた。

2009年の調査で古墳の全体像がほぼ分かって、時期も4世紀末ころのものとしている。このころの主要な古墳は奈良市の佐紀、大阪府の古市に築造される時期で、茅原大墓の主はこの地が主流ではなくなったころの盟主であったと思われ、これ以後は大型古墳が築造されていない。今回墳丘構造・周濠の形態調査を実施した。

後円部東側、くびれ部東、前方部北側において墳丘橋の斜面に葺かれた葺石が確認され、墳丘の輪郭が復元できた。後円部径約72m、墳丘全長は約86mに復元される。
前方部東側斜面の葺石と、一段目の平坦部が確認されて、前方部は2段に築成されていることが分かった。ここでは前方部上面に埴輪棺が確認されている。

今回出土した象形埴輪で盾持人埴輪、鳥形埴輪などが出土している。盾持人埴輪はくびれ部東側付近に上部から流れ落ちた状況で出土した。頭部から盾面の上半部にかけての高さ67cm分が残っていた、盾には線刻による模様があった。盾持人埴輪はこれまで50か所以上出土している。4世紀末から5世紀前半頃のもので、最も古い事例とされた。顔面表現を採用した点でそれまでの埴輪と一線を画するもので、古墳時代中期中ごろ以降に盛行する埴輪祭祀が生まれる大きな契機となったと考えられている。
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解説

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前回、第三次調査時点、左:航空写真、中:後円部二段目の円筒埴輪残部、右:墳頂部の円筒埴輪残部

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前方部のくびれ部に近いところに埴輪棺が有った、近親者のものと思われる。

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くびれ部東側を検出、埴輪の用途は不明。

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後円部東、左、中:後円部裾の葺石を検出。右:後円部への通路、墳丘は後世に改造されており、通路も階段状に作られている。

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盾持人埴輪

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桜井市芝の埋蔵文化財センターの武人埴輪(時期的には後世のもの)

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出土土器の展示、橋本さんも応援

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後円部墳頂から1、左:北西に箸墓古墳、右:発掘現場

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後円部墳頂から2、左:南西に耳成山、その左向こうかすかに畝傍山、右:逆方向から墳丘を見る
by yumeoijyuku | 2011-02-27 00:47 | 現地説明会、講演会

飛鳥京苑池現地説明会 2011.2.6

飛鳥京跡苑池第5次調査現地説明会  2011.2.6

橿原考古学研究所による飛鳥京跡苑池の現地調査説明会が有ったので行ってきた。
1999年6月に噴水機能のある石造物が出土したということで話題になった池である。
苑池の「保存整備事業」の基本構想を計画するために行われたたものである。
今までよく判っていなかった北池の範囲確認が主目的であって今回確認できた。南北46m~54m、東西33m~36mで南北に長い。なお南池は東西約60m、南北約55mと分かっている。この北池の東側には砂利敷の広場が有った。
また、北池の深さは3mあって底には腐食土が1m以上堆積していた。池は7世紀中頃に作られ出土した土器から鎌倉時代までに埋まったとされた。
今後も調査を続け、苑池全体の形状や内部施設の構造を調べる調査を予定している。保存整備事業に寄って当時の上流階級の優雅な池遊びがしのばれるものとなることを期待したい。

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説明会会場の伝・板葺宮跡

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解説の橿原考古学研究所卜部さんと解説風景

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調査場所図

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左:東から、奥右手は甘樫丘。右:南から、前方中央に飛鳥寺。

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左:左手の石列が北池の北岸、右手(中央部)が東岸、この奥に砂利敷が広がっている。右:手前の石敷が池の底、深さは3mあった。

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左:南池の南端部、人の集まっているあたりに説明板が設置されている、西から撮影。中:1999.6現地説明会時点、この後右手奥に説明板が設置された。右:同説明会時点、噴水の石造物が見える。

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左:南池南端にある説明板。中:噴水の石造物が有ったところ。右:その石造物、当時撮影。

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出土土器

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2011-02-07 23:28 | 現地説明会、講演会

長岡京跡調査現地説明会報告  2010.12.19

19日には京都府向日市の長岡宮跡発掘調査の現地説明会に行った。これまで奈良県下の遺跡の発掘には何回も足を運んだが京都、大阪にはあまり行っていない。「奈良の古墳めぐり」案内を今後大阪、京都、兵庫にも拡大しょうと計画している。そのためにネタを仕入れて置く必要があって出向いた。気が付くと長岡宮跡は我が家から直線で約7.2kM,、平城宮で17.6kM、浪速宮は26.5kMと古代の宮の内で一番近いところにあるがあまり関心がなかった。

長岡宮の大極殿、朝堂院は今までの調査によって確定されていて、跡地は徐々に買収されて遺跡公園の様相ができてきている。

以下「長岡宮跡第481次調査 現地説明会資料」H22.12.19,向日市埋蔵文化財センター、によって概略を紹介する。
大極殿とそれを挟んで東に延暦12(789)年から内裏となった「第二次内裏」が有ったことが確認されている。しかし、長岡遷都の延暦3(784)年から使われていた「第一次内裏」がどこに有ったのかが確定していない。
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長岡宮の大極殿と第二次内裏の位置関係。第一次内裏は大極殿の西にあったと記録されている。


向陽小学校内に回廊で囲まれた施設があると推定されていた。今回の調査は校舎建設に先立って、確認のために行ったものである。
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現地は向日神社参道途中の南、向陽小学校の中になる。

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現説風景、右手に小学校の校舎がある。

今回の調査では雨落溝と掘立柱跡が検出され回廊の北西角とされた。北西角から南へ伸びる「西面回廊」と東へ延びる「北面回廊」は、以前の調査とあわせると方形に囲む回廊が復元される。その時の調査では西面回廊の門が検出されており、この間の長さを2倍すると南北回廊の間隔は145.2mとなって第二次内裏の159.1mに匹敵する規模であることが分かった。

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出土遺構配置図、上が北。

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北雨落ち東端から西へ左、中、右。

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回廊の北西角(南西より北東を見る):手前左ー西面雨落ち溝の石、手前黄色テープは西面回廊柱列の西端列、左青テープー北面回廊北端、右手奥ー(梯子寄り)東面雨落ち溝、その左ー南面雨落ち溝(この東面、南面は回廊の西北端のインコーナーに当たる)。雨落ち溝の底面から柱の底までは人の背丈ほどあって異常に深く掘って埋めてあった。

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同上(北より南を見る、この左手方向に大極殿が有る):手前ー北面回廊(青テープ3本)、右手ー西面回廊(黄色テープ3本)、左奥(梯子が置かれている角)―西・北回廊のインコーナーに当たる。

この回廊は3本の柱列(テープで表示)で構成される「複廊」で、後期難波の宮から移築されたとされる大極殿、朝堂院と同じように移築された内裏相当施設であった可能性が高い。
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複廊の参考図

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出土した瓦片:いずれも難波宮で使われていたもの。

説明会資料では「今回発見した複廊によって画される施設は、第一次内裏に関係する区画である可能性が高いと思われる。しかし、現段階ではその性格を確定する十分な情報は有りません」と結んでいる。

近くの阪急京都線「西向日」駅に行くまでに長岡宮大極殿跡があるので寄った。
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右の写真の石碑に「天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑 平成二十二年三月二十七日 向日市」とある。
by yumeoijyuku | 2010-12-20 22:10 | 現地説明会、講演会

越塚御門古墳現地説明会報告  2010.12.12

 12月10日以来新聞・テレビで報道されている明日香村「越塚御門古墳」の現地説明会に行った。9月11日にあった牽牛子塚古墳の範囲確定のため調査したところ、南東部に石槨を発見しこれが『日本書紀』に記録されている内容と一致することから大騒ぎになった。9月の時点では牽牛子塚古墳が八角墳であることが確定し斉明天皇の墓であることが有力となっていた(ブログ2010.9.11参照)。今回は『日本書紀』の記述で「大田皇女」が埋葬された状況に酷似しているため斉明天皇と同時に埋葬された間人皇女が牽牛子塚古墳に眠る説も補強された。
 以下明日香村教育委員会の資料「越塚御門古墳」から要約する。
古墳が明日香村大字越小字塚御門に所在することから「越塚御門(こしつかごもん)古墳」と命名された。したがって越塚・御門では無く越・塚御門古墳ということになる。
橿原市と高取町の境界で明日香村にも近い「貝吹山」周辺で採れる石英閃緑岩を使用した刳貫式横口式石槨の上部が大破された形で発掘された。奥壁付近が残存しており天井部はドーム状をしていた。同じ明日香村にある鬼ノ俎・雪隠と同様の形とされた。墳丘は版築で築かれているが地表面には痕跡が残っておらず形・規模は不明。石槨内から漆膜片が出土しており、漆塗木棺が埋葬されていたと考えられている。築造年代については7世紀後半ごろとされた。
 以上が明日香村の資料であるが報道では上記のように被葬者が確定されたと騒がれている。
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左:見学者の列、新聞では11日に約3,100人と発表されている。昨日は途中で列が途切れることがあったが、今日は日曜日なのでさらに多いといわれている、今日の行列は1時間30分待ち。右上の丸印が牽牛子塚古墳。右:牽牛子塚古墳の遠望

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左、中央:越塚御門古墳発掘箇所。右:展望、老人ホーム「あすかの里」から高松塚のある歴史公園方向

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左:石槨、左手に天井部の残部。右:左の石槨から墓道が続く。墓道と石槨は南北に配置されている。

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石槨と墳丘の版築。奥壁から壁に沿ってコの字状に細い排水溝が有る。

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越の集落にある指標
by yumeoijyuku | 2010-12-12 23:37 | 現地説明会、講演会

御所市秋津遺跡現地説明会報告 2010.11.28

御所市秋津遺跡現地説明会 2010.11.28 

京奈和道自動車道(京都~奈良~和歌山)建設に伴う遺跡調査が橿原考古学研究所によって継続して行われている。今回はインターチェンジ予定箇所の調査で、かなり広い範囲にわたって発掘された。2009年度の調査で今まで知られていなかった方形に区画された施設が検出され、古墳時代前期(4世紀前半)に活動の中心期があり、近くにあってこの地方の豪族葛城氏のものとされる宮山古墳より古くそれ以前の初期の段階の遺跡とされていた。
「秋津」は日本全体が「秋津洲」とも言われている。御所市の中心部にあった「秋津村」は1954年に御所町と合併している。橿原考古学研究所の斉藤部長は古墳時代前期の大規模遺跡なので地域の名前でなく大きな名前を付けたと説明されていた。
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付近では高速道路の工事が進んでいる。右は南の巨勢山を貫くトンネル工事現場

以下橿原考古学研究所の「御所市秋津遺跡現地説明会資料2010.11.28」による。
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説明中


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発掘区域(結合写真、手前の通路は直線の通路)東から.正面は葛城山、左手は金剛山。右端は展望台兼説明箇所からの見学者)

今回の調査は2009年度調査の南側隣接区での調査で、方形に巡る「方形区画施設」の全容解明を狙って調査されたものである。
方形区画施設は前年の3基に加えさらに3基が確認され計6基となった。方形区画施設3.2.6はこの順に建設されたことがわかった、いずれも古墳時代前期(4世紀前半ころ)のものでほぼ同じ区域内にしかも南辺をほぼ同じ位置に固定して(その南には方形区画施設4がある)20~30年毎に作りかえられている。
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方形区画施設の南端、3,2,6区画とも同じ位置になっている。

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左:方形区画施設(平面図をもとに作図)、中:同左の区画、右図の拡大、右:発掘区域(中央から右は2009年度の箇所)
その中には掘立柱建物や梁行7mもあるような大型建物と思われる跡が検出されている。
これらの方形区画は径5cmほどの細い丸太を打ち込んだ溝状の施設に囲まれており、所々で丸太の列を太い柱で挟み込んだ柴垣の様な設備で囲まれていた。
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左右とも溝状施設、〇印が丸太杭の跡

以下は出土遺物。土器は布留式1,2が中心で4世紀前半ころのもの。

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遺構群の性格は祭場、首長の居宅とも考えられるが、「機能的に限られた使い方をされるような特殊な空間であったことは間違いない」。その規模は南北約100m、東西120m以上となる。
古墳時代中期になって突如葛城氏が台頭し巨大前方後円墳である宮山古墳を造るが、その前段階を、秋津遺跡は雄弁に物語っている。
by yumeoijyuku | 2010-11-29 16:18 | 現地説明会、講演会

宝塚市長尾山古墳発掘調査現地説明会 2010.10.16


2010.10.16兵庫県宝塚市の長尾山古墳発掘調査現地説明会があった。古墳めぐり案内範囲の拡大を計画しているので、阪神間にも足を伸ばした。

<以下現地説明資料による>この古墳は大阪大学考古学研究室が2007年から調査をしている。今回の調査では2008年からは宝塚市と共同で調査を行っている。今回の調査で、
①4世紀初頭にさかのぼる最古段階の巨大な粘土槨を検出した。長さ6.7m、幅2.7m、高さ1m以上。
②国内でも10指に入る大きさと言う。残存状態は極めて良好で希有の事例としている。担当の福永信伸教授は今後このような状態のよい(盗掘無し、陥没が見られるが粘土で全体が覆われている。)粘土槨は出てこないだろうと興奮気味に説明されていた。
③墳丘北側のクビレ部が検出され、以前検出されている南側と合わせて古墳の規模が、墳丘長約40m、後円部径25m、前方部長15m、2段築成の前方後円墳と確定した。
④粘土槨は立派なもので、小規模な古墳にいち早く最新の埋葬施設を取り入れており、被葬者は大和政権との間に密接な政治関係を結んだ猪名川流域の有力豪族と考えられた。
現地は阪急「宝塚線「山本駅」から山手に向かって直線で540m、道なりで約1km、車道以外に階段
約240段ほど上った住宅地の公園に隣接している。墳丘からは大阪市内、千里山方面が一望できる丘陵の最先端にある。

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山本駅南の歩道橋から、右手の山の先端付近に古墳がある。

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墳丘平面図


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北側クビレ部、埴輪は中段の平坦面の中央部に、間隔を置いて立っていた。

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粘土槨その下の礫敷きと墳頂部、表土はあまり残っていなかった

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大阪市方面の見晴らし(霞がかかっている)

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出土品
by yumeoijyuku | 2010-10-23 23:44 | 現地説明会、講演会

桜井市纏向遺跡現地説明会  2010.9.19

纏向遺跡第168次調査

桜井市教育委員会が継続的に発掘調査をしている「纏向遺跡」の現地説明会に行ってきた。昨年11月に説明会があった場所のすぐ南側で、3世紀中頃まででは国内最大の規模を持つ建物遺跡を含む纏向遺跡の範囲確認調査である。

配布された「説明資料」によると。
①遺構の時期は、柵が3世紀前半、その廃絶は3世紀中頃かそれ以前。

②昨年発掘された建物D(このブログの2009.11.15参照)の南側で建物の南端の柱列とその外側に以前の調査で検出した柱列(柵)の延長部分が検出された。柵で囲まれた範囲は居館域の内郭にあたるものと考えられる。柵はさらに東(JR線路の方向)へ延びているものと予想できる。

③調査区域内に大型土坑があって祭祀に使われたと思われる道具、土器の他2000点以上の桃核が出土した。一部の道具を除いて遺物が壊された状態で出土している。時期的には3世紀中頃で建物群の廃絶時期と接近しており、建物群の解体時に執り行われた「マツリ」の痕跡かも知れない。

④他に、古墳時代後期の包含層から銅鐸の破片(3.6×3.2cm、13.14g)が出土している。比較的大型の突線鈕銅鐸の破片とみられる。

⑤我が国における国家の形成過程を探る上で極めて重要な意義をもつ遺跡で、さらに調査を進めたいとしている。

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受付

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JR巻向駅すぐ北の「辻踏切」ここと駅との間のすぐ西が調査区

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調査区全景、巻向駅ホームより、線路側は東、青いシートは前回調査区

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柱列左手奥の黄色い柱跡は大型建物の南端柱列、中央部の白い柱列は西から続く柵跡、西から

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大型建物南端の柱列、東から

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柵の柱列,東から


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大型土坑、南から

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発掘担当の橋本主任

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左:出土した銅鐸片、右:出土場所、6世紀頃の地層から出土。

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桃の種、一部のものには果肉がついた(未熟)ものがあった

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出土した土器類

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巻向駅、南に箸墓
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旅万葉号
by yumeoijyuku | 2010-09-20 15:55 | 現地説明会、講演会