古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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明日香村小山田遺蹟5・6次現地説明会見学報告 

 2015.1.18日、明日香村の小山田遺跡第5・6次調査の現地説明会に行ってきた。その様子の報告。

1、近鉄「岡寺駅」からほぼ東へ走る県道多武峰見瀬線を石舞台の方へ行く。駅からすぐの国道を北へ行くと右手に「五条野丸山古墳」があるが、今日は寄り道せずに東へ向かう。15分そこそこで甘樫丘への道路標識があるのでそこを左に入る。すぐに左を見ると県立明日香擁護学校で今日の見学現場である。
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2、翌日の新聞では見学者は8千人とあったが、昼前に行った時には10分も待たずに説明が聞けた。
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左:説明風景。中:調査区の航空写真。右:付近の地図、甘樫丘の南西部端にあたる。

3、説明会資料では:古墳のものと考えられる堀割は東西に直線状に約48m検出された。右が北で貼石、底面には敷石、南面の板石積みは、古墳の墳丘下段北辺にあたる、とされた。なお、北の貼石・堀割の敷石の抜けたところは、近年の建物建設時のものとされた。
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上:説明会資料より転載。

4、現地見学、見学通路が作られていて、間近で見学できた。
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左:建設時の予想図。中:東から撮影。右:西から撮影、向こうの山は談山神社のある多武峰。

5、貼石の様子
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左:手前が北、向こうに板石積み。中:結晶片岩。右:室生安山岩。

6、ここのすぐ西には終末期の古墳「菖蒲池古墳」がある。石室は一部破壊されていて、内部が見える。石室には家形石棺が前後に2棺あって、双方とも蓋の形状が家の棟を型どったような特殊な形をしていて有名である。石室が破壊されているので前棺がよく観察できる、蓋の手前は破損している。
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左:石室の中の前棺。中:説明版。右:西の遠景ー奈良・大阪の境の山々、左・金剛山、右・葛城山

 朱雀より一言:かなり広範囲に渡って整地、堀割造成されている。橿考研はじめ新聞で解説されている先生方は古墳ではないかとされている、また、和田萃先生や石野館長は居宅や構造物も指摘されている。朱雀は皇族の墓や宮であれば記録が残っていそうなものなので蘇我氏のものではないかと想像しています。甘樫丘には蘇我氏のものとされる「東麓遺跡」が知られており、この遺跡も蘇我蝦夷・入鹿が邸宅を準備していたものが、乙巳変で亡ぼされ、蘇我氏の痕跡まで消されたのではないかと思っています。

”写真はクリックすると拡大します”
by yumeoijyuku | 2015-01-24 10:48 | 現地説明会、講演会

甘樫丘東麓遺跡現地見学会見学報告 2012.3.4

 昼前から小雨の降る中、熱心なファンが見学した。この甘樫丘東麓の駐車場に隣接する比較的平坦な区画の調査が続けられている。前回2010年3月に見学会があった調査ではこの平坦地に接する北東の斜面も調査されたが、今回の調査は前回調査の南東に当たりる区画を調査している。

 以下は「甘樫丘東麓遺跡-飛鳥藤原第171次調査現地見学会資料2012.3.4、奈良文化財研究所」および同研究所清野氏の現地説明による。

 今回の調査では飛鳥時代の中でも7世紀中頃の蘇我氏と関係の有りそうな時期の地層は削り取られていて遺構もその下部だけが残っている状態で、性格もまだ解明されていない。7世紀中頃には西南部が一気に埋め立てられている。

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調査地全景。左:南西より、右手が発掘現場。左手に掘削土置き場、その右手向こうのテントで出土品展示。右:西の斜面上部より。

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出土した土器。

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左:東麓の谷全体の調査地、今回は谷の東端になる。右:調査地を東から見た写真、向こうに見えるのは畝傍山。

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今回の調査区画。太い赤線は傾斜地を削りとって平坦面を創っている上端の線。図の上方が上段。図の右上部分は近世の耕作跡。調査地のすぐ東に飛鳥川とそれに沿った道路が通る。

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左:北から見た南西角、手前に硬化面があった、硬化面は人工的な火によって土の表面が釘も通らないほど硬化している。中:左写真の右手、南西角。右:中の北側、西より。

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左:右写真の東となり、被熱面は黄色い土の上部が熱で赤くなっている、熱は千度以下と思われる。方形遺構2は一片80㎝くらいのもので石をまばらに敷いている。右:上の写真と同じ南西角、建物1(紫のテープ)の柱跡があった。炭たまりには壁や土器の他に焼けたものがあって何が焼けたのか調査中。

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左:上の写真左の南西手前。右:左の写真の北側、手前の区画に赤く変色した被熱面、硬化面1、方形遺構2、向こうの区画に硬化面2が見える。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2012-03-05 01:40 | 現地説明会、講演会

飛鳥京苑池現地説明会 2011.2.6

飛鳥京跡苑池第5次調査現地説明会  2011.2.6

橿原考古学研究所による飛鳥京跡苑池の現地調査説明会が有ったので行ってきた。
1999年6月に噴水機能のある石造物が出土したということで話題になった池である。
苑池の「保存整備事業」の基本構想を計画するために行われたたものである。
今までよく判っていなかった北池の範囲確認が主目的であって今回確認できた。南北46m~54m、東西33m~36mで南北に長い。なお南池は東西約60m、南北約55mと分かっている。この北池の東側には砂利敷の広場が有った。
また、北池の深さは3mあって底には腐食土が1m以上堆積していた。池は7世紀中頃に作られ出土した土器から鎌倉時代までに埋まったとされた。
今後も調査を続け、苑池全体の形状や内部施設の構造を調べる調査を予定している。保存整備事業に寄って当時の上流階級の優雅な池遊びがしのばれるものとなることを期待したい。

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説明会会場の伝・板葺宮跡

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解説の橿原考古学研究所卜部さんと解説風景

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調査場所図

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左:東から、奥右手は甘樫丘。右:南から、前方中央に飛鳥寺。

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左:左手の石列が北池の北岸、右手(中央部)が東岸、この奥に砂利敷が広がっている。右:手前の石敷が池の底、深さは3mあった。

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左:南池の南端部、人の集まっているあたりに説明板が設置されている、西から撮影。中:1999.6現地説明会時点、この後右手奥に説明板が設置された。右:同説明会時点、噴水の石造物が見える。

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左:南池南端にある説明板。中:噴水の石造物が有ったところ。右:その石造物、当時撮影。

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出土土器

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2011-02-07 23:28 | 現地説明会、講演会

越塚御門古墳現地説明会報告  2010.12.12

 12月10日以来新聞・テレビで報道されている明日香村「越塚御門古墳」の現地説明会に行った。9月11日にあった牽牛子塚古墳の範囲確定のため調査したところ、南東部に石槨を発見しこれが『日本書紀』に記録されている内容と一致することから大騒ぎになった。9月の時点では牽牛子塚古墳が八角墳であることが確定し斉明天皇の墓であることが有力となっていた(ブログ2010.9.11参照)。今回は『日本書紀』の記述で「大田皇女」が埋葬された状況に酷似しているため斉明天皇と同時に埋葬された間人皇女が牽牛子塚古墳に眠る説も補強された。
 以下明日香村教育委員会の資料「越塚御門古墳」から要約する。
古墳が明日香村大字越小字塚御門に所在することから「越塚御門(こしつかごもん)古墳」と命名された。したがって越塚・御門では無く越・塚御門古墳ということになる。
橿原市と高取町の境界で明日香村にも近い「貝吹山」周辺で採れる石英閃緑岩を使用した刳貫式横口式石槨の上部が大破された形で発掘された。奥壁付近が残存しており天井部はドーム状をしていた。同じ明日香村にある鬼ノ俎・雪隠と同様の形とされた。墳丘は版築で築かれているが地表面には痕跡が残っておらず形・規模は不明。石槨内から漆膜片が出土しており、漆塗木棺が埋葬されていたと考えられている。築造年代については7世紀後半ごろとされた。
 以上が明日香村の資料であるが報道では上記のように被葬者が確定されたと騒がれている。
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左:見学者の列、新聞では11日に約3,100人と発表されている。昨日は途中で列が途切れることがあったが、今日は日曜日なのでさらに多いといわれている、今日の行列は1時間30分待ち。右上の丸印が牽牛子塚古墳。右:牽牛子塚古墳の遠望

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左、中央:越塚御門古墳発掘箇所。右:展望、老人ホーム「あすかの里」から高松塚のある歴史公園方向

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左:石槨、左手に天井部の残部。右:左の石槨から墓道が続く。墓道と石槨は南北に配置されている。

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石槨と墳丘の版築。奥壁から壁に沿ってコの字状に細い排水溝が有る。

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越の集落にある指標
by yumeoijyuku | 2010-12-12 23:37 | 現地説明会、講演会

明日香村牽牛子塚古墳見学報告  2010.09.11

 今日11日は明日香村教育委員会の牽牛子塚古墳の現地見学会に行った。明日香村が以前から調査していたもので周囲に八角形の石敷が発掘されて天皇陵の可能性が高いということで9月9日の在阪各新聞の朝刊トップ記事として掲載された。

 明日香村教育委員会の資料によると、
①舌状に伸びた丘陵上に築かれた対辺約22mの八角形墳である。
②墳丘裾部には二上山の凝灰岩切石やバラスを敷きつめ、墳丘部も凝灰岩で表面を装飾していた。
③埋葬用の石槨を構成する凝灰岩の周囲には石英安山岩の切石を積み上げていた。その間には漆喰が充填されていた。
④築造年代は石槨構造などから7世紀後半と考えられる。

以上牽牛子塚古墳を解明する上で多くのデータが得られて、今後飛鳥地域の終末期古墳を考える上で重要な資料となるとしている。

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朝10時から開始と聞いていたので30分前に行ったが、現地では見学者が多いので9時から始めたとのことであった。

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斜面にはタラップが用意され、人数を区切って上り、見学した。

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墳丘:版築で築かれた対辺約22m、高さ4.5mの八角墳と言うが円墳としか見えない。

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説明版

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飛鳥村が一望できる、手前は老人ホーム「あすかの里」

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南に面する石槨入口、今日は開口部まで下りられなかった。左:開口部、右:石槨の周囲には石英安山岩で囲まれている。

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石槨入口、左右に部屋があって各々に棺台が設えられている。2006.3.11撮影。

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左:墳丘北西部背面、右:石槨を覆う石英安山岩の切石、奥に見えるのは石槨の外側。切石と石槨の間には漆喰が厚く詰められていた。牡蠣の貝殻を使ったものと思われ、和歌山方面から大量に持ち込まれてものと思われている。

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左:バラスと凝灰岩石敷き、右:石敷き、奥へ延びている部分が八角形の北西辺にあたる。手前は西辺。

当日配布の解説書は部数が限られているとのことで、必要な人は郵便で「明日香村役場」へ送料140円切手を同封して請求してほしいとのことであった。

今日の見学には古墳めぐりのメンバーの方も数人来られていた。こちらの勉強が追いつなくなりそうに思われてきた。

なお、前回「大和の古墳をめぐる」で訪問した模様はこのブログの2009.10.15を参照されたい。
by yumeoijyuku | 2010-09-13 01:01 | 現地説明会、講演会

甘樫丘東麓遺跡現地見学会の報告

奈良文化財研究所の現地見学会 2010.03.20

蘇我蝦夷・入鹿の邸宅があった甘樫丘で以前から調査していたシリーズの調査現地の見学会があった。2008年度の調査区の南東に隣接した箇所が調査された。

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調査地の位置:この看板のある場所のすぐ後ろの広い谷間部分が調査されている。右の赤い部分が今回の調査地

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調査地平面図、左が北、突き出ている区画が斜面でその先端部に柱列がある

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前回157次(2008年度)調査地。この右手が今回の調査地。

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今回の調査区全体:中央部斜面上部に柱列が見つかった

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建物と柱列

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後世に耕作された畝が検出されている

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石敷左:南東から。中:西から。右:左の石敷きの奥に「焼土遺構」とあるが時期は確定されていない

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左:斜面上部の囲いの柱列。右:柱列の模式図。ここの後ろの平坦地に建物がある可能性が出てきた。

報告資料「まとめ」の概略は「これまでの調査に引き続き、谷は7世紀から大規模な造成を繰り返しながら土地利用を行っている。丘陵の中腹に区画施設があることがわかり、今までの谷間だけでなく、丘陵の上にも遺跡が広がる可能性が広がってきた。」というものである、これは蘇我氏の邸宅が見つかる可能性に言及していると理解したい。
by yumeoijyuku | 2010-03-21 23:50 | 現地説明会、講演会

飛鳥寺西方遺跡現地見学会報告

飛鳥寺西方遺跡調査現地見学  2010.3.20

今日は明日香村教委の飛鳥寺関係と奈文研の甘樫丘東麓遺跡現地見学会があった。先ず明日香村の見学会の報告をする。

飛鳥寺の西門付近では今までに石組溝110m、敷石遺構70m、土管暗渠が南北160mに亘って有ることが調査で分かっていた。今回の調査地点は入鹿の首塚南へ約70mの地点で、それらが西方地域のより南側にも広がっていることがわかった。
飛鳥寺西方地域は中大兄皇子中臣鎌足が出会った場所と言われている。

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左:石組溝(奥)と土管暗渠(西より)。右:土管暗渠

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石敷遺構とバラス敷(奥)、遠景は甘樫丘(白いテントの左に見える車の列の辺りが奈文研の調査地の甘樫丘東麓遺跡。北東より

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同上南西より、左奥に飛鳥寺

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現地遠景、甘樫丘見学会場の前より

明日香村教委の西光さん、相原さんにお会いできた。相原さんは奈良大学の元学長水野先生の秘蔵っ子。
by yumeoijyuku | 2010-03-20 23:02 | 現地説明会、講演会

飛鳥京跡発掘調査報告会の報告

飛鳥京跡第164次調査by橿原考古学研究所、2010.2.14

 今日は朝から別の用事を済ませて近鉄橿原神宮前駅に着いたのが14時でバスは40分後しかなかったので飛鳥まで歩くことにした。歩いているうちに汗をかきだしたので途中でジャンパーを脱いで14時40分頃の到着となった。
 現地では1時間ごとの説明ということでこれも待ち時間が有ったので先に現場を見て回った。現場は飛鳥寺の南方150mの1区とその西方の2区であった。今回の調査は飛鳥京跡の北限はじめ飛鳥京跡外郭北部の様相を調べるもので、世界遺産登録に向けた「世界遺産登録推進事業」の一環と位置付けされている。
調査地:「飛鳥寺」と書かれた北に飛鳥寺が有って、その150m南付近になる
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調査掘り方、右:1区、左:2区
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先ず1区では堀り方の南端で飛鳥京跡最大となる幅3mの石組溝が検出された。これは以前の調査で東西に走る溝の延長線上にあって、西の飛鳥川への排水溝であろうとされている。この溝の北の壁は壊されていて大量の土師器、須恵器が捨てられていた。これらの土器から7世紀末に溝が埋められたと分かった。
左:1区掘り方、(北より)南端に東西石組溝。右:石組溝
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出土した須恵器
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2区の掘り方では以前の調査で分かっていた飛鳥寺南の石敷広場の一部が検出された。そしてその南には一段下がってテラス、さらにその南には幅90cmの石組溝が東西に走り、そこへ南から南北石組溝が取りついていた。
左:北に石敷広場手前にテラス、東西石敷溝、南北石敷溝、向うの山は甘樫丘北端。右:東西石敷溝(東から)
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すぐ北に飛鳥寺
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華々しい成果ではないが飛鳥京での調査は164次となっている。当初は1期~3期にわたる飛鳥の宮殿遺跡の発掘が主であったが、その中心主要部はほぼ明らかになってきており最近では周囲の様子を探ることに力を入れられるようになってきている。
帰りに飛鳥寺からバスに乗るとnagiwiさんが乗っていた、以前にも飛鳥の現説でばったり会っていて世間は狭い。
by yumeoijyuku | 2010-02-15 22:44 | 現地説明会、講演会

大和の古墳めぐり・・その2-20

朝日カルチャーセンター 現地学習 10.01.21

孝元天皇陵から甘樫丘へ

今日は近鉄「橿原神宮前」を基点に東へ、甘樫丘~水落遺跡~飛鳥寺~亀形石~山田寺をめぐる予定であったが天気予報が外れてコース変更を余儀なくされた。

橿原神宮前東口を出て東へ、「丈六」の交差点からは阿倍山田道で、この道は山田寺から桜井へ向い北上する上ツ道となる。15分ほどで右手に石川池(剣池)の土手が見えるのでそこを右に入り、階段を上ると水面の向こうに第8代孝元天皇陵と治定された山が見える。孝元天皇は実在すら疑われている天皇で、御陵もあいまいなまま治定されている。ここには古墳時代中期と推定される3基の小円墳があって、元禄年間に垣根で囲まれ整備されたと言う。いずれにしても天皇陵の主流である前方後円墳でもない古墳に、関係の無い実在の不確かな天皇の名前がつけられている。

ここの住宅地の中を通って東に行き、和田池を過ぎると豊浦の集落になる。592年、女帝推古天皇が豊浦宮で即位して飛鳥時代の幕開けとなる。この頃は蘇我馬子が全盛の時代で自分が即位させた崇峻天皇が、思うようにならないと分かって592年に殺してしまい、推古天皇を即位させる。

豊浦寺からすぐ東南が甘樫丘となる。甘樫丘山上の展望台からは北西に畝傍山、二上山さらに北に耳成山、香具山そして東から南にかけて飛鳥一帯の展望が開ける。この景色を眼下に弁当を広げると楽しさも一入である・・・ハズが一時止んだかに見えた雨が勢いを持ちあげて降ってきた、このため甘樫丘登頂はあきらめて麓の休憩所で早い昼食となった。昼食後は別の雨宿りの一行が来るので休憩する暇もなく場所を開けて出発した。

飛鳥川を渡ると明日香村飛鳥に入る。水落遺跡のそばに飛鳥村の資料館があるので入って見学した。水落遺跡については日本書紀に斉明6年(660)、中大兄皇子がはじめて漏剋(水時計)をつくり、人民に時を知らせるようにしたとなっている。この水時計を据えた時計台の遺跡が、飛鳥寺の西方のこの地であると言う。一方、この遺跡は時計ではなく近くの石神遺跡に有った噴水への給水施設であるとの説もある。礎石の堅固な構築は水の重量に耐えられるように設計されたものと言う。1994年にはここの南東で導水路と見られる石組み溝が発掘されている、溝の幅、深さとも約50センチ。

この遺跡の北東一帯は斉明天皇が造営したと伝えられる石神遺跡とされている。1993年には7世紀中頃の四面に庇の付いた大規模な掘っ立て柱建物跡が見つかり、飛鳥時代の迎賓館と言われる石神遺跡の中心となる建物と見られた。2007年には先ほど通ってきた山田道の延長上で7世紀中頃の道路跡が発掘されている。2009年2月には迎賓館の門らしい建物跡も発掘されている。そして奈文研では石神遺跡の範囲を東西130m、南北約180mとほぼ確定した。

次は南に向い飛鳥寺に行く。途中「入鹿の首塚」がある。乙巳の変で刎ねられた入鹿の首が飛んできた所と言われていて、鎌倉時代末に供養のため五輪塔が建てられている。飛鳥寺は仏教公伝(538、552年が有力)後最初の寺院である。礎石を用い、屋根には瓦を葺くという全く新しい建造物が出現した。当時の建物は平安時代末期の塔の消失以来全て消失している。当時のものは飛鳥大仏と呼ばれる釈迦如来坐像の頭部と右手の一部が残っただけで、飛鳥大仏のその他の部分は当時の様式どおりに復元されたものである。造営は586年に蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたときに「勝つことができれば寺を建てると」請願したことに始まると言う。落慶法要は21年後の推古天皇14年(606年)に行われている。

飛鳥寺の東のバス道を南に向かい亀形石に向かう。亀形石は万葉ミュージアムへの進入路となる村道建設に先立った調査で発掘された。2000年2月、石段のある飛鳥時代の石敷きのある広場が見つかったと明日香村教育委員会から発表された。亀形石見学は有料なのでパスして酒船石に向かった。
酒船石・・・雨天のため今日のコースで唯一の写真となった。
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また近くの飛鳥池は江戸時代に造られた溜池で、1991年に池底から現れた7世紀後半から8世紀初めにかけての貴金属ガラスなどの工房群である。ここに奈良県が「万葉ミュージアム」の建設を計画し1997年から発掘調査が行われた。飛鳥時代最大の生産規模を誇る工芸品のコンビナートと位置づけられた。これらの発掘調査から貴重な遺跡と分かって、万葉ミュージアムの建設地変更の運動が行われたが、現在そこには県立万葉文化館が建っている。

万葉文化館に至って昼からは小振りだあった雨が激しくなってきた。時間が有れば山田寺まで足を延ばす予定であったが、今回の古墳めぐりはここで打ち切ることにした。「古墳めぐり」の歴史で初めての事態となった。

この後有志でここから奈文研の飛鳥資料館までの間にある八釣古墳群に行くことになった。実は朱雀も知らなかったが会員の方に教えてもらったもので、次回からはコースに入れることにした。
八釣マキト古墳1号墳(移築復元)
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説明版
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帰途、近鉄京都駅での「せんと君」、見慣れたのか違和感が無くなってきた。
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by yumeoijyuku | 2010-01-22 21:53 | 古墳めぐり案内

大和の古墳めぐり・・その2-19

朝日カルチャーセンター 現地学習 09.12.17

石舞台古墳から飛鳥宮跡へ

飛鳥の3回目は石舞台古墳から飛鳥の中心地の南部分を歩いた。592年、女帝推古天皇が豊浦宮で即位して以来、計画的な首都である藤原京が出来るまでのほぼ一世紀の間、天皇の宮は飛鳥に集中して営まれる。近年飛鳥宮跡の発掘調査が進み、当時の宮の場所がほぼ確定されてきている。
近鉄吉野線「飛鳥駅」からバスで石舞台古墳まで行く。平日なので約15分で到着する予定。石舞台は蘇我馬子の墓とされている。飛鳥では早くから水田に露出している巨石が知られており、1912年には蘇我馬子の墓と推定されている。1933年(昭和8)から京大の浜田耕作が指揮して後に橿考研所長となる末永雅雄が発掘調査をしている。1954年からは埋もれていた堀を掘り出す工事が行われていて今の姿が現れている。古墳は一辺50mの方墳で濠の幅は約8.4m、斜面には花崗岩の貼石があって一部は復原されている。玄室の大きさは長さ7.5m、幅3.4m、高さは7.7mあって両袖式の巨大石室の代表格である。最大の石材は推定72tあるという。凝灰岩片が多数有ったことから石棺が有ったと推定されている。
石舞台古墳より南南東に都塚古墳がある、冬野川を越した対岸にあたる位置にあるが、今日はその前に、石舞台から東へ冬野川橋を渡らずに県道を川沿いに少し上って、冬野川に架かる橋の手前を案内標識に従い左手の山に登って打上古墳に向かう。どんどん上り人家が途絶えて間もなく古墳への標柱が有るところの林の外れを山に入る。すぐ右手に古墳が開口している。7世紀中頃の古墳とされている。
打ち上げ古墳、左:開口部、入口は這ってはいる。中:奥壁と右手が側壁。右:玄門部袖石と開口部
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都塚古墳は金鳥塚ともいわれ、金の鶏が埋められていて正月元旦に出てきて鳴くという金鳥説話がある。残念ながら石室入口には柵があって学術調査以外では中に入れないが、石棺まで見られるので行ってみよう。墳丘の改変が相当著しく、不整形になっており推定直径30m程度の円墳とも方墳とも考えられている。横穴式石室は長さ12.20mで南西に向かって開口している。玄室は長さ5.30m、幅は奥壁部で2.55m、羨道部寄りで2.95m、両袖式のもので、高さは玄室中央の最高所で3.55m、花崗岩の巨石を奥壁で石積みを行っている。羨道部は長さ6.90m、幅は約2m。石組みは二段積みで、いずれも天井石は持ち去られている。現高1.9m。
 玄室内には、見事な刳抜式の竜山石(凝灰岩)製家形石棺が安置されている。この前面には木棺が追葬されていたと推定されている。石棺の型式や玄室内出土土器などより、6世紀後半にその築造が考えられているが今ではもう少し新しい時代に設定されている。
都塚古墳、東から。手前の空き地には建設資材置き場になっていたが、かたずけられていた。
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都塚古墳からは明日香村役場のすぐ東にあるエビノコ槨に行こう、南北70m、東西95mあってその中にエビノコ殿と呼ばれる大きな建物が見つかっている。Ⅲ期の飛鳥浄御原宮の大極殿とされている。
ここからずっと北に行くと、飛鳥板葺宮の実物大模型が復元されている。この辺りから南西にかけて南北約197m、東西155mの区域が飛鳥京跡とされている。1960年以降の調査で、舒明天皇の630年以降藤原京に移るまで宮殿が次々に営まれた場所であると分かった。下層からⅠ期~Ⅲまで区分されている、
Ⅰ期:舒明天皇(629~641在位)の飛鳥岡本宮(630~)
Ⅱ期:皇極天皇(642~645在位)の飛鳥板葺宮(643~)
Ⅲ期:斉明天皇(655~661在位)の後飛鳥岡本宮(656~)。天武(672~686在位)・持統天皇(686~697在位)の飛鳥浄御原宮(672~694)
宮殿跡から飛鳥川右岸を少し上って川原寺跡に向かう。今中金堂の跡には弘福寺(ぐふくじ)がある。川原寺跡の南向かいには橘寺がある。聖徳太子生誕の地とも太子が建立したともいわれている。
次に橿原市に入って菖蒲池古墳に向かう。途中バス路を避けて一つ南の道を西へ行き、亀石を見て行くことにしょう。
亀石付近を行く
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亀石から西へ程なく交叉する車道を右に行き、すぐのバス路を左(西)へ行く。すぐに右に入る道があるのでここを行くとまもなく菖蒲池古墳になる、国の史跡に指定されている。形状ははっきりしないが、20m前後の方墳か円墳と考えられている。玄室は両袖式の横穴式石室であることが判明している。二基の家形石棺が石室主軸にあわせて縦一列に安置されている。家形石棺は屋根部分が極めて特徴的で、二基とも天井部分が棟飾り風に仕上げられている。時期は7世紀中頃前に位置づけられている。
もう一つ橿原市にある丸山古墳を訪問して今日の締めくくりとしたいが、途中「植山古墳」にも寄りたい。この古墳は2000年8月に発掘調査現地説明会が行われて、東西2基の石室が調査された。東石室には阿蘇ピンク石でできた家形石棺が残存していた。また西石室の玄門には竜山石製の閾石が置かれていた。東石室が6世紀末頃、西石室が7世紀前半頃のものとされている。現在公園整備中で近寄れないが、南東の春日神社からのぞいてみよう。推古天皇は死後には竹田皇子の墓に葬ってくれるよう遺言し、そのようにされたとあるので、先ず植山古墳に埋葬しその後大阪府太子町の現推古天皇陵に改装されたとされた。菖蒲池古墳のすぐ西の道を北へ住宅地の中を入り2ブロックほど先を西へ入って行き、広い道の先の丘に春日神社があるのでここの階段を上る。社殿の裏から古墳が覗ける。
植山古墳、青いテントの下。向こう左手に丸山古墳墳丘が見える。周囲は公園整備中。東の春日神社より。
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春日神社から西へ抜けて丸山古墳を見学しよう。古墳は全長320m、後円部径150m、高さ21m、前方部幅210mの規模で、前方部側の幅で測って300mの周濠が付く。横穴式石室で、宮内庁の実測では玄室長7.5m以上、幅4.5~5.5mあって、日本一の大きさを誇る。被葬者は欽明天皇が有力である。この古墳は墳頂部が陵墓参考地に指定され、宮内庁の管理となっている。ヒアダリ:丸山古墳後円部へ。右:後円部のみ陵墓参考地になっている。
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ここからは近鉄吉野線「岡寺駅」に近い。
by yumeoijyuku | 2009-12-18 21:44 | 古墳めぐり案内