古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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05Mの会開催準備

5月12日に10月1~2日開催を予定している「05Mの会」の準備打ち合わせで、初日に予定している「平城遷都1300年祭」会場の平城宮址を「なら・観光ボランティアガイドの会・朱雀」の藤原さんに案内をお願いして事前調査した。今日は平日でもあって大極殿もスムースに見学できた。

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エントランス広場、お祭り会場の雰囲気が感じられる

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朱雀門が近い,遠景は若草山

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名高い遣唐使船、ここの「平城京歴史観」に入るには、先ず整理券をゲットしてさらに入場料が必要。

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会場を一周する「ハートフル・トラム」健康な大人は乗りずらそう。「せんとくん」は特別らしい。

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1300年祭のメイン、大極殿、南正面から

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大極殿:左は南(朱雀門方向)から、右は南西から

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大屋根の飾り、左から西の鴟尾、中央飾、東の鴟尾。鴟尾の上部には鳥害防止用の部材が取付られている。瓦の色は当時に合わせて黒色。

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左:大極殿の南には朱雀門、右:西には生駒山

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メインは「高御座」、中は玉座、右は天頂の鳳凰

見学後、会場内で初日の1300年祭と翌日の見学および懇親会の準備打ち合わせを行った後解散となった。「05Mの会」の皆さんご期待ください。
by yumeoijyuku | 2010-05-13 00:17 | お勉強

橿考研「友史会」6月例会に参加

今日はJR帯解駅から「平城京左京の寺院跡と遺跡」を巡る。御案内は付属博物館の大西貴夫先生。
梅雨の合間であったが照らず降らずの日和のなか、良く歩いた。
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先ずは駅頭で大西先生による行程の説明。
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早速出発してJR桜井線の線路を越えて北西に向かい県道木津横田線に出て北上し、越田池跡(現、五徳池)を目指す。
帯解寺の屋根をかすめる
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この池の北、ゴルフ練習場の南あたり(写真右)が九条大路と東四坊大路の交点で、平城京の南東角に当たる。残念ながら今日は池の南から「あそこら辺」と眺めただけ。
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池から西へ出て、北へ進み九条条間道にあたる道を西へとり「東九条町」バス停あたりで北へ入ると、穂積寺跡で土壇が残っている。
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ここをさらに西へ行き左に見えるマツダの手前を北へ行く。信号の手前左に郵便局があってその先の左が簡単な公園になっている説明板は無いが平城京の「東市」跡で、位置的には西にある辰市小学校からここまでが東西辺の西半分で同じだけ東にも広がっていた。南北にはここの南の信号のある道が八条大路でここから北へ八条条間道までが東市の区域となる。東半分の中央には幅約10mの東堀河が南北に通っていて水運に利用されていたが今は無い。
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この東市の北東の角に接するように姫寺跡が設定されている。東九条天満宮に土壇状の個所があり、地名も姫寺となっていて寺院跡とされた。
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姫寺跡の東の東三坊大路を北へ行くと大安寺の西塔跡に出る。大安寺は桜井市の吉備池にあったとされる百済大寺→高市大寺→大官大寺→平城京大安寺と移り当時国家筆頭の大寺院であった。今も南都七大寺に数えられている。

西塔の基壇は一辺21m、塔の初層は一辺12mで東塔と供に記録通り七重塔が並んでいたとされている。基壇の礎石は心礎以外は抜き取られている。心礎も矢穴が残っているので割って持ち出そうとしたができなかったものと思われる。
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大安寺では河野貫長から寺の経緯や光仁天皇にまつわる癌封じの笹酒のいわれを聞かせてもらった。
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桂木団地にある「野神古墳」、
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大安寺北方(旧境内)の「杉山古墳」
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奈良市埋蔵文化財調査センターでは特別に開館して見学させてもらった。そして、この後県立図書情報館の敷地にある遺跡、平城宮に回って解散となるが、ここで失礼して帰路に就いた。

<写真はクリックすると拡大表示します>
by yumeoijyuku | 2009-06-22 00:02 | 現地説明会、講演会

奈良の古墳めぐり・・その2-13

近鉄文化サロン 現地学習 09.06.18
奈良市最北端柳生の里の古墳へ

 5月はインフルエンザ騒動で中止となったので順延して6月18日に柳生の古墳を巡ることになった。奈良市の北東、柳生方面へ奈良県最北端の古墳訪問と武芸の里柳生観光を兼ねて出かけた。バスの都合で近鉄奈良駅に30分早く集合して9時40分発のバスで大柳生に向かう。都心を離れて山道に入り、30分ほどで円成寺の入口に当たる「忍辱山」のバス停を通り、そのまま山道を走ると開けた集落に出る。ここが大柳生町で、すぐに「大柳生口」のバス停となる。

 大柳生の集落の北から西へかけての山の広い範囲に多数の古墳が散在する。ほとんどが 10m前後の円墳で横穴式石室を持ち開口しているものもある。この中で民家の庭先に1基ある「岡田氏宅前古墳」を見学した後、山間部に開口する古墳に向かう。

 この地区には尾根伝いに北西の須川町に抜ける競馬道と言われる古道がある。この始点あたりに開口した古墳があるので見逃せない。大柳生の信号のある交差点を北に須川から加茂へ向かう県道を行くと、間もなく左手に田んぼが奥まで続いている所があってその次に左斜めに山へ入って行くコンクリート舗装の狭い道がある。これを入ってすぐの右手にこんもりした古墳が目に付く。競馬道1号墳で「オクノガワの塚穴」とも言われている。羨道が少し長いが中に入れる。
上:競馬道1号、玄室より羨道部を見る。下:見学を終えて
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 次は天井山古墳群に向かう。大柳生から柳生へ向かう広い道路ができているのでこれを歩いてゆくと10分程で大柳生小学校前のバス停がある。左手の小学校に向かって入ると右に畦道のような細い道がある。このすぐ先の忠魂碑が天井山1号墳で、この前の小道を進むと、曲がって民家の庭先を通って行き青い瓦屋根の家の下に出るので、ここの階段を上って庭先を左へ迂回する形で山へ入る。この家の裏を回るようにしてゆくとすぐに小さい古墳がある。ちょうど3~4軒ある端の家の裏に当たり、民家の方(西南)に向かって横穴式石室が開口している。子供なら楽に入れる程に開口しており、覗くと奥まで見える。天井山2号墳で、戦時中(昭和十年代)防空壕に使用していたといい、当時は小皿の破片等が沢山あって子供の頃おもちゃにしていたと以前聞いたことがある。この頃はまだ須恵器の破片が残っていたようである。

 開口部が見つからず探していると、すぐ前の家の方から「他人の家の裏山で騒々しいが、一応声をかけるのが礼儀ではないか」とたしなめられた。遅まきながら了解を得て、古墳の開口部も教えていただいた。近くの「奈良市立青少年野外活動センター」の駐車スペースを借りて昼食の後、バスで最終目的地の柳生に向う。
 
 「柳生」のバス停から少し戻り、笠置へ向かう県道を北へ行き柳生小を越えたあたりで西に行き、川を渡って行くと右手に製材所が有って「東海自然歩道」の案内標識があるのでそこの小道を右に上って行くと、茶畑のはずれに「塚穴古墳」があって説明板がある。これによると柳生石舟斎宗厳はこの古墳の刳抜式家型石棺を取り出して手水鉢として使っていたらしい。そのため石舟斎と号したと伝えられている。後期古墳の横穴式石室が開口しており石材も露出している。この塚穴古墳は奈良市すなわち奈良県最北端の古墳と言う事になる。
左:内部から、右:塚穴古墳は茶畑のはずれにある
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 これで今日の古墳めぐりは終了となるが、バスの便が少ないのでこの後は柳生の里を見物して、時間調整した上で帰りのバスに乗るとよい。今日は途中で夕立に会い雨宿りをしながらの「柳生の里」散策となったが、開園中の「花しょうぶ園」、家老屋敷、柳生陣屋跡など思い思いに訪ねた後バスで帰途に就いた。近鉄奈良駅まで約1時間。
by yumeoijyuku | 2009-06-19 20:58 | 古墳めぐり案内

奈良の古墳めぐり・・その2-12

近鉄文化サロン 現地学習 09.04.16
葬送の地に太安萬侶が眠る、田原へ

奈良市東の山間部で葬送の地として注目されるのが田原地区。代表的なものは光仁天皇陵、春日宮天皇陵、横田古墳群と古墳ではないが太安萬侶墓が有名。平城京の葬送地は「養老喪葬令」に基づいて、京北方の奈良山丘陵、東方の田原地域および都祁盆地、生駒谷の3箇所があげられている。
田原へ行くにはJRまたは近鉄奈良からバスに乗るがバスの便が少ないので行き帰りの時刻確認が必要となる。山間部を行き須山を過ぎると田原地区で茶畑が目に付く。「田原御陵前」を通り越してしばらく走り「日笠」で下車する。
バスの来た方すぐに火の見櫓と郵便ポストがあって、道標があるところを右(西)に入る。10分もかからない内に光仁天皇田原東陵に出る。墳丘は東西38m、南北30mの不整形な円墳で高さ8m。周囲には空堀と外堤があるが幕末の改修のとき作ったらしい、天皇陵には周濠が必須のようである。19世紀始め頃には西に向かって開口する石室があったとの伝承があるが、幕末にはすでに不明となっている。
『続日本紀』によると第49代光仁天皇は第48代称徳天皇が跡継ぎを決めていなかったので、天皇が亡くなった後で諸臣が合議して、天智天皇の孫の白壁王が2ヶ月後に62才で即位した、11年間在位している。それまで天武天皇系が続いたが天智天皇系が栄えるきっかけになった。平安京遷都した第50代桓武天皇の父に当たる。持統天皇以来火葬が続いていたが光仁天皇は土葬で以後天皇は土葬が主流になる。
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光仁天皇陵を西へどんどん行くと古事記編纂で有名というより墓誌によって分かった「太安萬侶の墓」の下に出る。1979年1月茶畑で作業中の人が火葬墓を発見して大騒動になった。墓誌銘には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」とある、723年のことである。奈良時代の上級官人の墓がこのように残って出土したのは極めて異例。
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墓からの景色は日本文化の原点ともいうべき長閑な田園が広がっていて景色を堪能できる。
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 次は横田町へ向かう。先ほど渡った天井橋の手前のところまで戻って、川沿いに南(右手)へ向かう。左、左へ行き横田の交差点に出る。そのまま横切って行くと右手にこんもりした山が見える。しばらく進んでから右手に入って行くとこの山の南に出る。「春日社」、「天満宮」と併記されている鳥居がある。この神社の山には天満神社古墳群があってその一つが分かり易い。鳥居の前に布団工場があったがここの裏(南)に古墳がある。一番東のものが通路で削られていてよく分かる。また、鳥居に向かってすぐ右にも古墳があるが形態がはっきりしない。
 最後は春日宮天皇陵へ向かう。天満宮の鳥居の所を先ほど来た方と反対の方(西)へ行くとバス道に出るのでそのまま西へ行く。バス道を1kmほど行くと「田原御陵前」バス停があって右手(北)が春日宮天皇陵の入口になっている。この陵は天智天皇の子で施基皇子の御陵であるが、子の白壁王が光仁天皇となったので天皇と呼ばれるようになった。在位した天皇ではない。
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<<写真はクリックすると拡大します>

「奈良の古墳めぐり」受講ご希望の方は「近鉄文化サロン 橿原」Tel:(0744)25-5421、ホームページ:   www.d-kintetsu.co.jp/bunka-salon/  または各地の近鉄百貨店にご照会ください。
by yumeoijyuku | 2009-04-17 17:33 | 古墳めぐり案内

奈良の古墳めぐり・・その2-11

近鉄文化サロン 現地学習 09.03.19

奈良公園から奈良町へ

  今日は若草山山頂の鶯塚訪問を予定していたが、山開きが翌日の20日だったので割愛した。そのため奈良公園に時間を割いた。
近鉄奈良駅から東向商店街を南へ途中から東(左)へ興福寺に入る。北円堂、南大門跡の基壇を経て奈良公園に向かう。
法隆寺境内:五重塔と東金堂
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第一期整備事業:中金堂の復元工事中、右手は講堂
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登大路を東へ進み奈良公園に入り東大寺大仏殿の西を通って正倉院に向かう。正倉院とは寺院、官衙の倉庫がある一角を指すが、東大寺の「正倉」を普通「「正倉院」と一般に呼んでいる。
 続いて大仏殿の東方にある「東塔」跡に向かった。建設当時は高さ100mほどの塔が西塔と供にそびえていたと言われている。東塔は平安時代末期に平家によって大仏殿と供に焼き打ちされ、鎌倉時代に入ってすぐ再建されたが室町時代の1362年に落雷で焼失しその後は再建されなかった。塔跡では七重塔の屋根に葺かれた古代瓦に思いを馳せた。 
若草山の麓をかすめ春日大社の参道から飛火野に向かう。平成の世になった頃開催された「奈良・シルクロード博」の飛火野会場となったところだ。ここの東の森との境目には後期の古墳14基からなる「御料園古墳群」がある。
 飛火野の西のバス道を南へ行き吉備塚古墳に向かう。奈良教育大学の構内に古墳がある。学生と遣唐使として2度通算17年間中国へ渡り帰国後は天平文化の一翼をになった吉備眞吉備の墓であると伝えられている。かつて雨で地表に露出していた銅鏡が採集されている。大学で発掘調査を実施していて、2004年2月には墳頂部から出土した鉄鏃・挂甲・鉄剣・画文帯環状乳神獣鏡など現地説明会があった。

奈良教育大学構内の吉備塚
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さらに2008年10月には大学構内で、同じ金原正明准教授の担当で新薬師寺金堂跡とみられる大型建物跡が検出されて新聞をにぎわせた。東大寺大仏殿(東西約59m)をしのぐ巨大建造物と分かった。
 バス道を北へ少し戻って広い交差点の手前の道を左(西)へ入ると右手に「頭塔(ずとう)」がある。正方形の基壇の上に七段の方形の土壇を積み上げている。奇数壇の壁の所々を窪ませて石仏が配置されている。平成12年整備が完了し北半分は復元整備され、見学デッキ・解説板などが設けられた。南半分は現状保存されている。
左:復元部、中:説明板でお勉強、右:入口の説明板
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 頭塔の前の道を西へ行き県道を渡って行くと奈良町になる。ここの目玉はなんと言っても奈良時代の名刹で、南都七大寺の一つ「元興寺極楽坊」である。元興寺は蘇我馬子が飛鳥に建立した法興寺(飛鳥寺)に始まる。その後平城遷都に伴い現在地に移築され名も元興寺となって今に残る。旧境内は今の十倍以上の広さが有ったと言う。法興寺で使われていた瓦は今も本堂や禅室の屋根に使われていて、屋根の色が違うのでよく分かる。奈良町には奈良町資料館、庚申堂、日本でいちばん古い砂糖専門店「砂糖傳増尾商店」など興味をそそる施設が多い。

砂糖傳商店、右:中で水飴を頂いた
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今日の最後は開化天皇陵へ向かう。三条通りを西へ行く、広い「やすらぎの道」を横断して行くと「ホテルフジタ」の西隣に入口がある。第9代開化天皇は日本書紀では崇神天皇の父に当たるが、神武天皇以降の実体の無い天皇の最後に位置付けられている。4世紀後半から5世紀前半の古墳で、全長105m、後円部径55m、となっているが幕末に大きく改変されていて当初の姿はよく分かっていない。帰りは、三条通りをそのまま西へ行くとJR奈良駅。引き返してやすらぎの道を北へ行くとすぐに近鉄奈良駅となる。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2009-03-22 14:48 | 古墳めぐり案内

帯解黄金塚古墳調査報告会 

奈良市教育委員会 H9.02.28

黄金塚古墳は天理市の北端にある県立奈良東病院のすぐ北の細い道を西へ行ったところ,奈良市の南端にある。

 一辺約27mの2段築成の方墳で宮内庁所管の陵墓参考地となっている。榛原石といわれるレンガ状の割石を積み上げた磚槨式石室を持つ終末期の古墳で、俗に「日本書紀」を完成させ、時の元正天皇に納めた舎人親王の墓といわれている。 玄室長3.0m、幅3.3mと横長で、高さ2.6m。羨道長9.6m、巾1.6m。

 以前、この前の道を拡幅する計画があって奈良市が宮内庁に用地の提供を求めたためH16年9月に拝所の部分を調査した。人頭大の敷石が検出された、このため御陵の一部であるとして用地提供は拒否されたいきさつがある。

 以下説明会資料による。 H16年に石室入り口の前を調査して石敷が検出されていたが、墳丘全周に亘って石敷きがあることが分かった。外堤があることは分かっていたが、今回墳丘北で石敷きの外に外堤とみられる地山の高まりも確認された。また、南西角では飛鳥時代(7世紀中頃)の須恵器杯蓋、土師器甕の一部が出土した。

 まとめると、古墳築造時期が7世紀中頃と分かった(これによって舎人親王の墓説は成立しなくなった:朱雀注)。古墳の構造は墳丘を囲んで四周に2段の石敷きがめぐり、墳丘の規模が約30mであることが分かった。この石敷きは明日香の寺院跡や宮殿遺跡にも似た特徴的な構造である。黄金塚古墳は他に類例のない内部構造と外装施設をもつ飛鳥時代の大規模古墳であることが明らかになった。

墳丘:南東より
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南西部調査地:墳丘裾南西端を検出、敷石の抜き取られた跡があった
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出土遺物、上:土師器 把手付甕の把手部、下:須恵器杯蓋
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北西部調査地:北より墳丘に向かって、石敷は奥が上段、手前が下段
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H16年の宮内庁調査時の写真
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H18年の宮内庁写真、左:羨道西壁、玄室側から入口方向。右:玄室奥壁
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by yumeoijyuku | 2009-03-02 15:59 | 現地説明会、講演会

奈良の古墳めぐり・・その2-10

近鉄文化サロン 現地学習 09.02.19

奈良市南部古市、帯解の古墳へ
 
 奈良公園のある春日地区からその南の山裾に沿った帯解地区、地理的には護国神社の北を流れる岩井川から天理市との境界付近の菩提仙川に至る丘陵が西に迫り出した一帯にかけても、佐紀の地域と共に古代和珥氏の勢力範囲であったと考えられている。先ず古市、帯解地区から始めよう。
 
近鉄奈良駅からバスで護国神社へ行く。バスが南へ奈良教育大学を過ぎて住宅地になると間もなく「護国神社」で、10分ほどで着く。護国神社古墳は本殿に向かって左側の奥にある、説明板があったが、古くて読み難いからか撤去されて社殿の軒下に放置されていた。古墳時代後期の横穴式石室を持つ不整形な円墳とあった。古墳時代後期(6世紀)の馬具、須恵器、壺、鉄鏃などが出土している。 
この神社の前の南側の池は新池または島池と呼ばれていて中心部の島も古墳の可能性が有る。神社造営の時かなり削られており、南西に主軸を持つ立派な前方後円墳とも考えられている。

 神社のすぐ南には古市方形墳が有る。前期または中期(4世紀末~5世紀初)と思われる一辺27mの方墳で、住宅地の中で頑張っている。史跡として奈良市文化財に指定されている。墳頂部で円筒埴輪が円形に配置されていたことから円墳であった可能性もある。中央に東西に並んだ粘土槨があった事が分かっていて、7.9m四方の東槨には長さ6.2mの割竹形木棺が有ったようで、他に内向花紋鏡等5面の銅鏡、玉類他が検出されている。

 先ほどのバス道をどんどん南へ行くと、「八島」のバス停の先の角に戦没者記念碑があって、崇道天王社と書かれた常夜灯が2基置かれている。ここを左(東)へ入るとすぐに池があって道を隔てて崇道天皇八嶋陵が有る、この陵は古墳ではないらしい。崇道天皇は即位した天皇ではなく第49代光仁天皇の第3皇子で平安京遷都を実施した桓武天皇の同母弟の早良親王のことで、謀反計画の巻き沿いで淡路島へ島流しの途中京都府の乙訓寺で自ら断食して命を断つ。後に祟りがあったとして霊を慰めるために天皇の名称を贈り遺骨を大和に改装したと言い、その場所がここと言うことで明治18年に整備された。

 崇道天皇陵のすぐ前の道路敷内に柵があって中の水溜りに大きな石がある。八嶋陵前石室古墳で、自然石の大型天井石が4個南北7mに亘って露出している。

 もとのバス道に戻って南へ行くとすぐに右手(西)の田の中、といっても住宅が迫っているが「帯解狐塚古墳」が見える。後期(6世紀後半)の古墳で横穴式石室が開口しており後部も崩れている。1959年の調査で須恵器、土師器、鉄鏃、馬具類と鉄釘が出土し、木棺が使用されていたことが分かった。
左:田圃の中を行く、以前は本当に田圃の真中にあった。左:開口部、奥壁側から
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 バス道に戻ると「円照寺」バス停があって円照寺の入り口がある。進入禁止であるがどんどん入って行くと、かなり歩いたところで山門に至る。一般の人は入れない。この右手の山へ昇る小道を入って突き抜けると池に出る。龍王池でここの道を左(東)へ行くと五ツ塚古墳に着く。後期の群集墳で東西にきれいに5つ小円墳が並んでいる。真ん中の3基は各々4m強四方、高さ2.5m~2.8mの横穴式石室が南に向かって開口していたが今は土砂で埋まってしまっている。
向こうから1号~3号、続いて4号、5号墳がある
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 次の古墳へは少し距離があるので県道の「下山」からバスに乗る、その前に下山の交差点の南東に小高い岡があってお稲荷さんがある。これがベンショ塚古墳で、前方部は破壊されているが中期後半の周濠を持つ全長約70m、後円部径25m、高さ5mの前方後円墳である。

 「下山」からバスに乗ると10分くらいで「高樋中町」に着く。高樋町弁天塚古墳の開口部は比較的大きく開いていて中に入りやすい。後期の円墳であるが削り取られていて大きさは不明、横穴式石室は4.1m×2.5m、羨道長4.2m。敷地は丘の上にあるレストラン「粟、清澄の里」の所有地なので心して見学したい。
左:奥壁、右:奥壁より羨道部を見る、下:墳丘進入路
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 さっきのバス道を戻って柳茶屋へ出る、ここを左(西)へ行き精華学院前をそのまま広いバス道を西へ行くと、すぐに左手に栗塚古墳がある。後円部の一部が削り取られているが回りを歩いてみると、前方部はかなり低いが前方後円墳であることが分かる。このあたりでは珍しく全長約100m、径50m、高さ5mとかなり大きな規模を持つが詳細は不明。栗塚古墳の西南に割塚古墳が見える、周りが削られていて方墳に見えるが径約30m、高さ3mの円墳と言うことである。いずれも中期の古墳。

 先ほどの精華学院に戻って左手(北西)に入る。左手に池を見て暫く行くと住宅地があるのでその中の道を左へ行く。道はすぐ細くなって竹やぶの中を行くと黄金塚古墳に出る。榛原石といわれるレンガ状の割石を積み上げた磚槨式石室を持つ古墳で陵墓参考地になっていた中に入れない。終末期の古墳で一辺26mの方墳、玄室長3.0m、幅3.3mと横長で、高さ2.6m。羨道長9.6m、巾1.6m。『日本書紀』の編纂にかかわった舎人親王の墓といわれている。以前この前の道を拡幅する計画があって、宮内庁が皇室の先祖の墓として管理する陵墓を一部提供するかどうかの判断材料とするため、拝所の前の部分を調査したところ人頭大の敷石が検出された。このため御陵の一部であるとして用地提供は拒否された経緯がある。今回訪問したところ周囲の空堀が発掘調査されていた。近いうちに説明会があるという、期待したい。
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 帰りは「山村」のバス停で解散し各々近鉄・JR奈良駅まで帰った。
by yumeoijyuku | 2009-02-21 20:38 | 古墳めぐり案内

奈良の古墳めぐり・・その2-9

近鉄文化サロン 現地学習 H21.1.23
  大安寺の杉山古墳から垂仁天皇陵へ 

 今日は第3木曜日の日程を23日に変更して大安寺の光仁会(癌封じ笹酒祭り)に合わせて古墳をめぐった。桜井市の吉備池の南東隅から「百済大寺」と推定される寺院金堂の基壇が見つかって、その後百済大寺跡であることが確定された。百済大寺はその後移築と共に名前も高市大寺→大官大寺→大安寺と変わって現在に至る。
『続日本紀』には光仁天皇が73歳で崩御された後、その子の桓武天皇が翌年光仁天皇所縁の大安寺で天皇の一周忌を行ったとあって、これを引き継いで「光仁会」がおこなわれている。この1月23日と6月に「癌封じ笹酒祭り」がおこなわれる。
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 朝一番の寄り道から本題の古墳めぐりに戻ろう。先ず大安寺北方の旧境内にある何面した前方後円墳杉山古墳に向かう。墳丘は一部崩れたところがあるがほぼ原形が残っている。この古墳の前方部には窯跡がある、平窯で6基確認されている。いずれの窯にも製品が残っていなかったが8世紀後半以降のもので大安寺に使用された瓦を作ったものと思われる。全長120mの前方後円墳で前方部幅、後円部径共に約80m。周濠の名残の湿地が残る。円筒埴輪片、葺石が確認されている。この古墳公園の入口扉は月、水、金は閉じられていて入れないが今日は鍵を開けてもらった。
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 大安寺バス停へ戻る途中の北側に「墓山古墳」がある。全長約80mの前方後円墳で周濠も有ったらしいが今は墓地になっていて古墳自体形状をとどめていない。
大安寺のバス停から南に行くと桂木団地の入口となるがここを左(東)に入りすぐのところに野神古墳がある。5世紀後半から6世紀にかけての頃の古墳で、墳丘が相当破壊されているが前方後円墳の可能性もある、竪穴式石室には阿蘇ピンク石を使用した刳抜式家型石棺が残っている。

 次はいよいよ垂仁天皇陵へ向かう。一旦JR奈良駅まで戻り「学園前駅」行きに乗って近鉄「尼辻駅前」で降りる。近鉄「尼ヶ辻」駅を西に越えてから南へ「歴史の道」を行くと垂仁天皇菅原伏見東陵(宝来山古墳)となる。全長227m、前方長118m、後円部径123m。美しい姿は近鉄電車からも良く見えていて朝夕電車から眺めている人も多い。
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垂仁天皇は天理市に御陵がある崇神天皇の子で、景行天皇の父に当たる。また皇后の日葉酢媛は佐紀陵山古墳に比定されている。日葉酢媛が亡くなり葬るに際して殉死の習慣を止めるために野見宿禰の発案で初めて埴輪を用いたとされる、ただし日本の古墳からは殉死が行われた形跡は認められていない。

次は今日の最終目的地「富雄丸山古墳」に向かう。近鉄「尼辻」の先ほど渡った踏切の道を西に向かう、道なりに西南の方向にどんどん2kmほど行くと「第二阪奈道路」に突き当たるのでその手前の側道を左(西)へ行く、さらに1.5kmほど行って富雄川を渡ったあたりで左手を見るとアンテナ塔があってその向こうに小山がある。これが富雄丸山古墳で、西側は奈良市の西部生涯スポーツセンターの球戯場、テニスコートになっている。田の畔を行くとバス道にでるので右手に行って林の間にある墳丘への階段を上ると一周できる。古墳上へは登れない。周りを擁壁と金網に囲まれて保存されているが径86mとかなり大型の円墳である。

 京都国立博物館に「富雄村丸山古墳出土」とされる銅鏡4面、有鉤銅釧1、合子2、鍬形石2などが収蔵されているが、近くに同じように呼ばれる古墳が有ってどちらのものか判別できていなかった。1972年に宅地開発に先立って調査が行われて遺物の中に鍬形石片が見つかった、これは鍬先部の破片で京都国立博物館所蔵の鍬形石の欠けた部分に合わせるとピタリ一致した、これによって他の遺物の出土地が確定した。一片3cmほどの小さな断片が大きな成果を挙げることとなった。

 本日の古墳めぐりはここで終了となる。すぐ下にバス停があるので帰りはバスで近鉄富雄駅へ帰るとよい。

「若草台中央」バス停、後は富雄丸山古墳
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by yumeoijyuku | 2009-01-24 23:17 | 古墳めぐり案内

奈良の古墳めぐり・・その2-8

奈良市北部の佐紀古墳群② 08.12.18

近鉄「平城駅」から佐紀古墳群西群へ

今日は前月に引き続いて佐紀古墳群の西部を中心とした古墳をめぐった。佐紀古墳群は古墳時代前期~中期の古墳群で、200m以上の全長をもつ7基の大型前方後円墳とこれらの陪塚、6基の中小型の前方後円墳からなる県下有数の古墳群を形成している。
近鉄平城駅の北側神功皇后陵からスタート。神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で仲哀天皇は景行天皇の子の日本武尊の第2子とされている。この古墳では今年2008年2月22日に考古学者らが墳丘に登って踏査している。宮内庁がやっと重い腰を上げて、墳丘の1段目までの立ち入りを認めたもので。考古学界にとっては画期的なことである。墳丘の東側で円筒埴輪の列が見つかったりして、観察だけでも貴重な所見が得られたとされている。加えて、11月29日には大阪府堺市が調査中の御廟山古墳の見学会を行っている。(このブログ次のページ「陵墓参考地の発掘調査現地説明会」参照)。

古八塾長の解説
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次に駅の反対側に行き成務天皇陵の後円部にでる。後円部の外側には松の木が生えて草むらになっているが陪塚がある。このあたりには成務天皇、垂仁天皇皇后日葉酢媛陵、孝謙(称徳)天皇陵と3つの大型古墳とその陪塚が集まっている。成務天皇は天理市の南に御陵が有る景行天皇の子で、男児が無く神功皇后の夫・仲哀天皇を皇太子とした。ここの南が孝謙天皇陵になる。第48代孝謙天皇は父の聖武天皇が造営した東大寺の大仏開眼の主催者となった女性天皇で、譲位して上皇となったが、譲位した淳仁天皇を謀反のかどで廃帝(淡路廃帝)として、重祚し称徳天皇となった。古墳は4世紀後半~5世紀前半のものとされ時代が合わない。

 日葉酢媛陵は1915年に盗掘にあい翌年調査の上、銅鏡、石製腕飾り他の出土品を竪穴式石室内へ埋め戻されたと言う。石室直上から高さ1.5m、横幅2mもある翳(えい=鳥の羽で覆った車の屋根)型埴輪はじめ盾型埴輪、家型埴輪が出土している。竪穴式石室は縄掛け突起のある巨大な天井石5枚で覆われていたという。
このあと瓢箪山古墳、塩塚古墳を訪ねたあと、南へ引き返して平城天皇陵に向かう。この古墳は平城宮築造のとき前方部を削平されていて円墳になってしまっている。こから南一帯が特別史跡平城宮跡となる。ちょうどこの陵の真南に第二次大極殿の基壇が復元されている。
昼食後は平城宮遺構展示館でボランティアの方の説明で平城宮の概要を勉強した後、

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 復元された酒造司の井戸、東院庭園、朱雀門に寄って解散となった、最寄駅は近鉄「新大宮駅」。

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ここの平城宮跡の施設への入場はすべて無料、その上ボランティアの方に解説をお願いできる。
by yumeoijyuku | 2008-12-18 22:04 | 古墳めぐり案内

奈良の古墳めぐり・・その2-7

近鉄文化サロン現地学習 H20.11.20

奈良市北部の佐紀古墳群1

近鉄「西大寺駅」から佐紀古墳群東群へ

 今日は佐紀古墳群の東部の大型古墳をたずねるが、その前に西大寺駅すぐ北の奈良ファミリー内にある西隆寺跡を訪ねた。奈良ファミリーは近鉄百貨店とジャスコが入った西大寺駅前の大商業施設である。西隆寺は称徳天皇が僧寺の西大寺と対に建立した尼寺で、当時の国営十大寺の一つであったが廃絶した。百貨店の中に遺跡があるのも珍しい。

左:店内にある説明板を見る、右:フロアに柱の跡が明示されている。
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次は順路にある平城宮跡資料館を訪ねる。近鉄西大寺北口から東へ行くと平城宮跡の北の通りを行くことになる。秋篠川を過ぎてそのまま東へ行くと、右手に奈良文化財研究所平城宮跡資料館への道がある。平城宮について系統だてて展示・説明されているのでよく分かる。

ボランティアの方に説明を受けた
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平城宮跡を東へ、正面に若草山。左は大極殿復原工事中。
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平城宮について勉強した後は小奈辺古墳の西の道を周濠沿いに北へ向かう。後円部の曲がる辺りに左へ抜ける道がある、これを行くと磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)の拝所に出られる。

拝所前で昼食。
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磐之媛命は第16代仁徳天皇の皇后で天皇が八田皇女を妃にしたいといったので反対したが、大宮に召されたので、怒って山城に住んで死ぬまで天皇に会わなかった。天皇は磐之媛皇后に遠慮していたが皇后の死後八田皇女を皇后とした。仁徳天皇は民家に炊飯の煙が立たないのを見て3年間租税を免じた話は有名。磐之媛命陵から引き返して小奈辺古墳の後円部を左(東)に取って、自衛隊を挟んで東にある宇和奈辺古墳の南を通って広い国道24号を東へ渡ってから南へ不退寺の裏山を通って東の聖武天皇陵へ向かう。
聖武天皇の時期は律令国家が完成して、政権は絶頂期に達した。仏教が高まり天平文化が絢爛と花開いた時代で。全国に国分寺と国分尼寺を創設し、東大寺を建て大仏を造った。
聖武天皇、光明皇后陵入口
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帰りは奈良女子大前を通って近鉄奈良駅に向かう。奈良県には国立大学が2つある、奈良女子大学と奈良教育大学である。奈良女は「お茶の水」と並ぶ唯2つの国立女子大学(国立大学法人)である。

近鉄「奈良駅」で解散後一人でお茶をしていると、奈良大近くにお住まいの学友Nさんに出会いました。先月の古墳めぐり案内の時は天理駅で学友の「なぎ」さんに出会いました。先日橿考研「友史会」の見学会で会った横浜の女性は友達に奈良大通信生を知っているとのことでした。奈良大の学友がいっぱい・・・。 

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2008-11-20 21:38 | 古墳めぐり案内