古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-7

朝日カルチャーセンター・現地講座案内
古代のロマン・古墳をめぐる その3-7  2012.10.18
箸墓古墳に続いて築かれた桜井市南部の大形古墳

<10月18日の「古代のロマン・古墳をめぐる」は全行程が雨のため写真はありません。前回の09.07.16「奈良の古墳めぐり」その2-14の前半とほぼ同コースなので参照してください。>

 今日は桜井市南部の前期大型前方後円墳から横穴式石室が開口した後期の古墳を巡る。
JR・近鉄桜井駅をJR側に降りて正面の広い通りを南へ行きすぐの商店街を左へ行く。しばらく行って小さい粟原川を渡ってから右手に見える前方後円墳茶臼山古墳へもう一度川を超える。古墳の後円部を東に回り込んでからくびれ部から墳頂を目指す。
 茶臼山古墳は戦後間もない1949年から調査が始まっている。出土品としては王権のシンボルと言われる碧玉製の「玉杖(ぎょくじょう)」が有名、また三角縁神獣鏡他20面以上に相当する銅鏡の破片が多数出土している。古墳の時期は大型古墳のなかでは箸墓の次に位置するもので4世紀前半から中葉の時期が推定されていて、今日訪問するメスリ山古墳よりやや古いとされている。天理市内の行燈山古墳、渋谷向山古墳と続く大型古墳の前の段階のものとされている。後円部墳頂下に長大な竪穴式石室が検出されている。石室の壁は扁平な小石板をほぼ垂直に小口積みしている。床面には長さ5.2mの栂の巨木をくり抜いた木棺の底部が遺存していた。
 
 2009.10.23毎日新聞によると、奈良県立橿原考古学研究所が後円部を発掘調査した結果が伝えられている。石室は板状の石を垂直に積み上げて、その上に大形の石を12枚並べて乗せて天井にしていた。石室の大きさは全長6.75m、幅1.27m、高さ1.71m、木棺の底部分が残っていた。内面全体や天井石の外側にも水銀朱が塗られていた。発掘した銅鏡片を整理した結果以前出土したものも合わせて三角縁神獣鏡26枚分ほか銅鏡が計81枚分確認できたとしている。(2009.10.29桜井茶臼山古墳の調査 現地見学会報告[ 2009-11-01 23:01 ]参照)

 次は同じころ造られた大型前方後円墳メスリ山古墳に向かう。国道165号を西へ戻り、「御幸田町」バス停のある信号を左(南)へ行く。途中寺川沿いに行くことになる。寺川は多武峰を通り桜井市から橿原市、田原本町を経て川西町で大和川に合流する。県道を南へ行きT字交差点を右(西)に行って右手に貯水池がある所の手前を右に入る正面の山がメスリ山古墳である。三段築成で人頭大の葺石が敷き詰められている。八坂神社の所を抜けて墳丘に上がる。
 墳頂の平らな部分の中心には一段下がった区画があり石室の屋根石の上部が露出している、屋根石は8枚、石室の大きさは全長約8.2m、幅1.3m、高さ1.6mで、割石を小口積みしており、木棺は残存していなかったが粘土床が造られていた。またすぐ東に平行して小型の副室竪穴式石室があった、竪穴式主石室の周囲には直径50cm~1mにおよぶ大型の円筒埴輪が方形に二重に巡っていたことが知られている。この円筒埴輪の大きな2本は高さ2.4m、径1.3mの巨大なもので、これを復元したものは県立橿原考古学研究所付属博物館で見られる。石室のすぐそばの別の小道を墳丘を取り巻くように北側に降りる。古墳の北側は前方部から後円部にかけて公園となっており整備されている。

北へ抜けて、広い県道を渡って大和桜井園に突当たった所を左へ行くとすぐ右に谷首古墳が開口している。玄室の高さは4mありすごく高い感じがする、長さ約6m、幅2.7m、羨道長7.8m、高さ1.7m墳丘は東西約35m、南北約38m、高さ約8mの方墳。入り口の天井石は片側が落ち込んで斜めになっていて少し入りづらい。凝灰岩の破片と若干の須恵器片が残っていた程度で副葬品等一切不明であるが、石室の構造から桜井市の天王山古墳、明日香村の石舞台古墳等よりやや古く6世紀末から7世紀初頭のもので横穴式石室の最終段階に近いが付近の文殊院西古墳、艸墓古墳に先行するものとされている。

 大和桜井園の前を東へ行き突き当りを左へ行くと県立奈良情報商高のグランドの北西に出る。ここの左手に「艸墓古墳」がある。民家の裏の塀沿いに身体を斜めにして通るような細い路地を入った先すぐに横穴式石室が開口している。方形の墳丘規模は東西22m、南北28mの横長で墳頂部は平坦な高さ約7mの載頭方錐形。この古墳には家型石棺が残っている、人の背丈ほどの高さの石棺に比べて羨道の天井が低く石室築造前に置かれたものと思われている。ここの石棺は昨年11月に訪問した兵庫県高砂市産の凝灰岩を使用していると言うことである。付近の古墳の築造時期は谷首古墳が古く6世紀末から7世紀初頭、次いで来月行く予定の文殊院東古墳、艸墓古墳と文殊院西古墳が7世紀第3四半期頃で横穴式石室式の最終段階となる。ということで今日は古墳時代前期の大型前方後円墳から後期の横穴式石室の最終段階まで巡ったことになる。
by yumeoijyuku | 2012-10-19 20:46 | 古墳めぐり案内

桜井市脇本遺跡説明会報告 

脇本遺跡第18次現地説明会報告 2012.9.29 

桜井市は奈良盆地南東部に位置し、脇本遺跡は南に大和川の源流初瀬川、北に大神神社のご神体三輪山に挟まれた位置にある。桜井市内から名張、伊勢方面への要衝で、平成16年以降は国道165号線拡幅に伴う調査が行われている。『日本書紀』にいう雄略天皇の「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」の推定地となっており、古墳時代中期~飛鳥時代の大形掘立柱建物などの遺跡が確認されている。

近鉄大阪線「大和朝倉駅」を北へ、国道165号線を東へ行くとバス停「脇本」の手前北側が今回の調査地である。
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調査地。左:中央部丸印。右:調査地、中央部やや右の交差点がバス停「脇本」

調査地の北側で池状に掘られた遺構が検出された。南北60m以上、東西約30m、深さ約1.2m、出土土器から5世紀後半に築造され、6世紀後半に廃絶していることが分かった。ただし、底に水の作用による堆積物が無く池とは考えられないと言い、用途は不明とされて「池状遺構」とされた。『日本書紀』には雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」(5世紀後半)、欽明天皇の「磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)」と行宮である「泊瀬柴籬宮(はつせしばがきのみや)」(6世紀後半)の記事がある。過去の調査ではそれぞれの時期に合う掘立柱建物が近くで発掘されていて、これらの宮に関係する可能性が考えられるという。・・奈良県立橿原考古学研究所「桜井市脇本遺跡第18次調査現地説明会資料2012年9月29日」より抜粋。

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調査地全景。向こうが南。信号のある通りが国道165号。手前・人が立っているあたりが池状遺跡。その向う左右に広がる石積みがその南端。

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新聞報道。

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池状遺構南端の石積。左:上下方向に目地石を置いて整然と積み上げられていた。中、右:西より、左が池状遺跡の底部。

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出土土器1。弥生時代後期末~古墳時代初め。池状遺構の南、上段の遺構から出土

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出土土器2。左:池状遺構下層から出土、古墳時代中期・5世紀後半。中、右:池状遺構上層から出土、古墳時代後期・6世紀後半。

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出土土器3.左:出土土器2の右と同じもの。中:時期は左に同じ。右:展示風景

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説明は1時間ごとに行われた。左:説明風景。右:説明は奈良県立橿原考古学研究所岡田技師。池状遺構の南・上段にある遺構についての説明は無かった。

この後付近の神社を訪ねた。
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発掘現場北東にある春日神社。左:本殿。中:注連縄。右:説明板。

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発掘現場から北へ行き西へ行ったところにある玉列(たまつら)神社。左:本殿。中:説明板。右:神社を背にして南方向、右手奥に霞む山は音羽山。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2012-09-29 23:27 | 現地説明会、講演会

御所市秋津遺跡現地説明会報告 2010.11.28

御所市秋津遺跡現地説明会 2010.11.28 

京奈和道自動車道(京都~奈良~和歌山)建設に伴う遺跡調査が橿原考古学研究所によって継続して行われている。今回はインターチェンジ予定箇所の調査で、かなり広い範囲にわたって発掘された。2009年度の調査で今まで知られていなかった方形に区画された施設が検出され、古墳時代前期(4世紀前半)に活動の中心期があり、近くにあってこの地方の豪族葛城氏のものとされる宮山古墳より古くそれ以前の初期の段階の遺跡とされていた。
「秋津」は日本全体が「秋津洲」とも言われている。御所市の中心部にあった「秋津村」は1954年に御所町と合併している。橿原考古学研究所の斉藤部長は古墳時代前期の大規模遺跡なので地域の名前でなく大きな名前を付けたと説明されていた。
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付近では高速道路の工事が進んでいる。右は南の巨勢山を貫くトンネル工事現場

以下橿原考古学研究所の「御所市秋津遺跡現地説明会資料2010.11.28」による。
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説明中


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発掘区域(結合写真、手前の通路は直線の通路)東から.正面は葛城山、左手は金剛山。右端は展望台兼説明箇所からの見学者)

今回の調査は2009年度調査の南側隣接区での調査で、方形に巡る「方形区画施設」の全容解明を狙って調査されたものである。
方形区画施設は前年の3基に加えさらに3基が確認され計6基となった。方形区画施設3.2.6はこの順に建設されたことがわかった、いずれも古墳時代前期(4世紀前半ころ)のものでほぼ同じ区域内にしかも南辺をほぼ同じ位置に固定して(その南には方形区画施設4がある)20~30年毎に作りかえられている。
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方形区画施設の南端、3,2,6区画とも同じ位置になっている。

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左:方形区画施設(平面図をもとに作図)、中:同左の区画、右図の拡大、右:発掘区域(中央から右は2009年度の箇所)
その中には掘立柱建物や梁行7mもあるような大型建物と思われる跡が検出されている。
これらの方形区画は径5cmほどの細い丸太を打ち込んだ溝状の施設に囲まれており、所々で丸太の列を太い柱で挟み込んだ柴垣の様な設備で囲まれていた。
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左右とも溝状施設、〇印が丸太杭の跡

以下は出土遺物。土器は布留式1,2が中心で4世紀前半ころのもの。

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遺構群の性格は祭場、首長の居宅とも考えられるが、「機能的に限られた使い方をされるような特殊な空間であったことは間違いない」。その規模は南北約100m、東西120m以上となる。
古墳時代中期になって突如葛城氏が台頭し巨大前方後円墳である宮山古墳を造るが、その前段階を、秋津遺跡は雄弁に物語っている。
by yumeoijyuku | 2010-11-29 16:18 | 現地説明会、講演会

橿考研友史会例会参加報告 10.11.21

巨勢谷の古墳

 今日は橿原考古学研究所友史会の11月例会で高取町、御所市の「巨勢谷の古墳」を案内してもらった。
近鉄吉野線「市尾駅」付近の市尾墓山古墳に集合。橿原考古学研究所の岡林先生の案内で高取町市尾から御所市古瀬まで、曽我川沿いの巨勢谷を歩く。この付近の古墳は葛城氏衰退後の奈良盆地南部に勢力を持った古代豪族巨勢氏の首長の墓と見られている。

市尾墓山古墳は前方部を北西に向けた全長約70mの前方後円墳。二段築成で周濠、外堤を持つ。後円部の中央に玄室長5.87m、全長9.5mの横穴式石室が有って、家形石棺が残っていた。奥壁の奥に羨道状の通路が設けられており、奥壁のところで閉塞されていた。6世紀初頭~前半の築造とされている。
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・市尾墓山古墳後円部、東南から

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・説明板1

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・説明板2

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・今日案内していただいた橿原考古学研究所の岡林先生

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・市尾墓山古墳後円部、東から。墓山の紅葉は斜めに立っている?

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・同上全景右手の後円部上段に開口部が見える、南西から

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・同上開口部、今日は扉が開かれていた。

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・石室奥壁、奥壁右部分が奥の通路に通じる閉塞石の壁になっている。

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・刳抜式家型石棺、二上山白色凝灰岩製。蓋の盗掘孔は保護のため補修されている。内部全面に鮮やかな赤色顔料が塗られていたという。

この後高取町歴史研修センターで市尾墓山古墳出土品他を見学した。
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・周濠から出土した鳥形木製品

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・同上石見型木製品

次に墓山古墳の西南約250mの小山にある天満神社境内「市尾宮塚古墳」に向かう。全長約44mの前方後円墳で前方部を東北に向ける。
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・市尾宮塚古墳説明板と刳抜式家型石棺、二上山白色凝灰岩製。

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・同上、後円部北北西に開口する。

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・御所市の権現堂古墳へ向かう。参加人員約160人。
途中、新宮山古墳、巨勢寺跡の近くを通るが素通りした。

権現堂古墳は天ノ安川神社境内にある径約30mほどの円墳であったとされるが原型をとどめず前後が崩れた横穴式石室と中に刳抜式家型石棺一基が残っていた、縄掛け突起は初期の特徴である楕円形で太く頂部平坦面が狭い。他にもう一基あったらしく縄掛け突起の一部が残っていた。古墳は6世紀初頭~前半のもの
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・権現堂古墳石室後部、羨道部はこの反対側南東にある。石室奥壁側の刳抜式家型石棺、二上山白色凝灰岩製、羨道側の内部に石枕が造られていることで有名。石室は崩壊防止のため鉄骨で補強されている。

この後一行は御所市古瀬の水泥南古墳、水泥塚穴古墳へ向かった。朱雀は所用のため離脱して「下市口駅」から返った。水泥の古墳については「奈良の古墳めぐり・・その24」(2007.11.18UP)参照。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2010-11-24 21:19 | 古墳

大和の古墳をめぐる・・その2-25

五條市の古墳 2010.6.17

塚山古墳から五條猫塚古墳へ
 五條市は奈良県で最南端の都市、南は和歌山県橋本市、そして吉野川も紀ノ川と名前を変える。古代の飛鳥、奈良からは、5月に訪れた市尾から巨勢路を経て重阪(へいさか)峠を越えて和歌山に通ずる交通の要衝で、国道24号では御所市の「風の森峠」を越えて五條市に入る。古墳も多数築かれていた。
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JR北宇智駅に集合、五条駅の一つ北の駅。関西に唯一残っていたスイッチバックが3年前の訪問の直後に改修された。右写真の奥右手に旧線とホームが見える。乗ってきた2両連結のワンマン電車は紀ノ川沿いを約一時間半かけて「和歌山市」に到着する。

 JR北宇智駅から西へとり新しく部分開通した京奈和道沿いに北に向かう。五條北ICを越えたあたりを左(西)に入ると間もなく前方右手に小高い塚山古墳が目に付く。西から伸びる丘陵に南北をはさまれた水田の中にある。この付近では他に古墳は無い。一辺24m、高さ5mの方墳。石棺は緑泥片岩の板石を組み合わせたもので、棺内には壮年男性の人骨がほぼ完全に残っていたと言う。棺内南に長方形の板石の枕を置いて横たわっていた。内面は蓋石まで赤色顔料が塗られていた。石棺の北側には副室が有って、甲冑一個分、ヤリガンナ、斧、ノミ、鎌などの農工具、他に22個の土錘、鉄製釣針3本が出土した。甲冑は一式がほぼ完全に残っていて貴重な資料となった。5世紀中頃の築造と推定されている。緑泥片岩は緑色片岩とも言われる緑色の結晶片岩で吉野川沿いに産出し入手し易いところから、付近の古墳の石棺に良く使われている。明日香村のカヅマヤマ古墳に使われていたものも同類。
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塚山古墳

 京奈和道を北宇智駅から来た道まで戻って、ここを右(西)に行き「つじの山古墳」に行く。墳丘の辺をほぼ東西、南北におく二段築成、一辺約52mの方墳で高さ8.8mを測る。周濠の痕跡が幅10~15mの水田として残っている。墳丘には葺石、埴輪があり、周濠両岸の葺石は人頭大の自然石でていねいに葺かれていた。特異なものとしてコウヤマキの鉾形をした異形木製品が周濠底部から出土している、長さ131センチ、幅26~33cm。2007年1月に高取町墓山古墳発掘報告であった石見形木製品と同系統のものではなかろうか。築造年代は五世紀後半と考えられている。
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つじの山古墳

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つじの山古墳付近から南東方向―京奈和道の高架の向こうにテクノパーク・なら工業団地が見える。五條市のウエブサイトによると、奈良県が国の指定を受けて開発したもので、H8年に区画整理事業が完了した。機械金属8社、木材関連7社他計32区画に企業が進出していて操業中である。
 つじの山古墳を南にとり、京奈和道をくぐってから右へ京奈和道沿いに行くと程なく左手に水田に囲まれた五條猫塚古墳がある。1957年に開墾によって石室外から多量の遺物が出土し翌年調査されている。一辺27m、高さ5m強の方墳で水田の形状から周濠があったとされている。円筒埴輪列が墳丘裾近くと墳丘平坦部、竪穴式石室の周囲と三重にめぐり、墳頂部には家、キヌガサなどの象形埴輪、石室外の副葬品の上にも4本の円筒埴輪が目印のように立てられていた。墳丘斜面には葺石が整然と貼りつめられていた。竪穴式石室は緑泥片岩を小口積したもので、長さ5.2m、幅73~89cm、高さ93cm以上の規模を持つ。盗掘を受けていたが石室内外にはかなりの副葬品が残っていた。冑、短甲、刀子、大小鉄鏃多数、斧、ノミ、ヤリガンナ、帯金具他多種の遺物があった。中でも3領の冑のうち蒙古鉢形兜1領は「四方白鉄地(しほうしろてつじ)金銅装鋲留(こんどうそうびょうどめ)蒙古鉢形(もうこばちがた)眉庇付冑(まびさしつきかぶと)」と呼ばれた、現物は東京博物館にある。蒙古鉢形冑は、古墳時代の日本では類例が非常に少なく、その形式は中国大陸や韓半島の遺物に共通している。古墳の時期は副葬品から五世紀中頃築造と考えられている。
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猫塚古墳

近内古墳群の盟主鑵子塚古墳から次代を開いた今井1号墳へ
次はいよいよ近内古墳群の盟主的存在の「近内鑵子塚古墳」に向かう。径85m、高さ12.5m県下最大級の規模を持つ大円墳で、墳丘は二段築成で全面に20~30cmの川原石の葺石があった。円筒埴輪片が墳丘裾部と一段目の平坦部に残っており埴輪が巡っていたようである。一段目の平坦部には墓が一周している。埴輪の型式から五世紀前半代の築造と推定されている。
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説明板でお勉強

 来た道をそのまま東へ山の中の道を進むと左が開け人家が散見される、ここを左へ降りて行くと、池の右手に見える林が「丸山古墳」である。尾根の先端に築かれた二段の円墳で、一段目は径37m、高さ2m、その上に径26m、高さ4.5mの二段目が乗る。墳頂は激しい盗掘跡があって埋葬施設や遺物は何も伝わっていない。葺石は二段目斜面や一段目全面に遺存する。築造は五世紀後半とされている。
 丸山古墳の東150mに西山古墳がある。間にJR線が走っているので回り道をすることになる。広い道路を東へ行き国道24号を左(北)へ行き、左の五條生コンの駐車場に入るとその奥に西山古墳がある。墳丘の辺が方位と一致する二段築成で一辺54m、高さ6.5mの方墳で周濠は北と西で幅8m、南と東で幅11m。つじの山と同じ設計基準で作られている。墳丘には葺石と円筒埴輪が見られた。つじの山古墳よりやや古い五世紀中頃から後半と見られている。
 近内古墳群は五世紀前半にまず丘陵最高所に円墳としては県下最大級の鑵子塚が築造される。五世紀前半から中頃にかけて中規模の方墳、猫塚と塚山古墳が現れる。続いて五世紀中頃から後半には丘陵東端に西山、丸山古墳やつじの山古墳が築造される。五世紀末から六世紀初めには古墳は群から離れて奈良カントリークラブ内にある青墓古墳に移る。この頃から古墳は五條市全域に拡散してゆく。その先兵として近内の集団に介入したのが次に訪れる今井古墳の主とされている。
 国道24号を南に1kmほど行くと左にパチンコ店がある「上今井」のバス停を過ぎたあたりで右(北西)への道に入る。JR線を越えてすぐ左手に「今井1号墳」がある。全長約31m、後円部径約19m、高さ3.5m、前方部の幅19.5m、高さ2.5mの南西に向く可愛らしい前方後円墳である。葺石と円筒埴輪列が有った。埋葬施設は後円部にあって緑泥片岩を小口積にした竪穴式石室2基で共に墳丘主軸と平行し当初から2基を意図したらしく2基の石室の中間を墳丘主軸が通る。東の石室は内法で長さ2.9m、幅0.8mで床には割竹形木棺が置かれ中央から鉄刀2本、東端から鏡1面が出土した。瑪瑙製勾玉等玉類500点以上が出土した。西側の石室も同じような大きさでいくぶん新しかったが盗掘のため破壊されていた。前方部には副葬品庫と思われる土坑があった。短甲他兵士一人分の武具が出土した。簡易な竪穴式石室の構造や遺物から五世紀中頃から後半のものとされた。東北に円墳があって今井2号墳とされている。実態はよく分からないが「延命寺の址」の碑がある。現在、延命寺は先ほどの上今井バス停付近にある。
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今日の解散地点JR[五条駅」官公庁は「五條」を使っているが、JRは「五条駅」。解散予定の3時30分の電車を外すと一時間待ちとなる。
by yumeoijyuku | 2010-06-18 21:56 | 古墳めぐり案内

大和の古墳をめぐる・・その2-24

御所市の古墳②  2010.05.20

 巨勢路の古墳から掖上鑵子塚古墳へ
 今日の集合地点、近鉄「市尾駅」付近から南へ4月に歩いた「薬水駅」の南付近までが巨勢谷でその南では近鉄が東に振って吉野へ向い、JRは西に振って紀河ノ川沿いを南下して和歌山市に向かう。
「市尾駅」を出るとすぐ北西に市尾墓山古墳が見える。公園として復元整備されている。全長66m、後円部径39m、高さ10m。前方部幅49m。周濠がめぐり外には外堤がつくのでかなり大きく見える。後円部の横穴式石室は玄室長5.9mで右肩袖の短い羨道がつく。奥壁にも羨道があって石棺の蓋をこちらから搬入したと理解されている。大和でも最大級の凝灰岩製刳り抜き式家形石棺がある、ここの横穴式石室は古式のもので大和において地域首長が採用した例としては最も古いものの一つで、築造者の先取性がうかがえる。石羨道に扉があって石室には入れないが窓から覗いて見学できるようになっている。 
古墳公園の入り口から南へ駅の方に戻り、県道を西へ行くと間もなく右手に念仏寺があって天満神社への参道となるのでここを上る。社殿の右手に宮塚古墳がある。全長44mの前方後円墳。北に回り込むと横穴式石室が開口している。玄室奥には凝灰岩の家形石棺が復原されて置かれている。蓋の長辺には各2個の縄掛け突起があって、四角ばった形は墓山古墳のものより新しい型式といわれている。石室は入れないが、照明されていて見学し易くなっている。市尾墓山古墳より少し後のもので6世紀前半か中頃のものとされている。

 元の県道を西へ行きすぐに右手に入る、曽我川、JRを越えて県道を右へ行く。老人ホームのところを左にハイキングにうってつけの道を行くと20分ほどで掖上鑵子塚古墳の前方部に出られる、突当たりの道路を右へ行くと後円部への侵入通路が有る、古墳は田圃の中に横たわっている。前方部を南西に向けた前方後円墳で、全長150m、後円部径102m、高さ17.5、前方部幅88m、高さ12m。幅30mの周濠が巡っているが前方部南側では近接して存在する径50mの円墳のため輪郭がゆがんでいる。築造時期は5世紀後半ころと見られる。南葛城では今日後で行く室の宮山古墳に次ぐ規模を誇り、この地域における有力首長墓といえる。

日本武尊白鳥陵から巨勢山北麓の古墳群へ

 次は日本武尊琴弾原白鳥陵に行こう。道路を西に向かい鴻池病院を過ぎたあたりから道なりに南へとって山を迂回する形で御陵に行く。日本武尊は天理市に御陵のある景行天皇の子で天皇の命によって、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討、その後東国の蝦夷を征討せよと命じられ平定を終えて帰る途中、伊吹山の神との戦いで、草那芸剣を持っていなかったため破れてしまう、傷を負いながらも、今の三重県亀山市の能褒野(のぼの)に辿り着いた時、ついに力尽きその地で死んでしまう。日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、この琴弾原を経て、今の羽曳野市古市に降り立ち、その後白鳥となって何処ともなく天高く飛び去ったと『古事記』にある。したがっていずれの墓にも亡骸は無いことになる。

朝の出だしから降っていた小雨が昼前には止んでいた。しかしここまではカメラをしまったままだったので、写真は有りません。

 御陵から南西にあたる国道309号の変則交差点のすぐ西の道を南へ入る。すぐに右へ折れて西に進む。間もなく右手に見える丘が「條ウル神古墳」である。2002年3月に発掘調査の現地説明会があった。6世紀後半の築成とみられ、石室の大きさは現状では長7.1m、幅2.4m、高さ3.8mを測り同時代の橿原市の五条野丸山古墳、石舞台古墳に匹敵し、家形石棺は蓋の長辺に縄掛け突起が3個づつ付いた特異なもので、同様の石棺としては2003年に報告された天理市のハミ塚古墳が知られる。
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絛ウル神古墳、右:説明板、中:墳丘、右:墳丘遠景

ここから西へ少し進むと左手に古墳群の説明板がある。ここを左に入る。条池に沿って條庚申塚古墳、条池北古墳、条池南古墳が南北に北から並んでいる。市教委が昭和61年に立てた説明板によると、条池北古墳は石室が破壊されていたが、右片袖式の横穴式石室があって西の池側に開口している。条池南古墳も西に開口しており、左方袖式石室で短い羨道があったと考えられている。築造時期は北古墳が6世紀後半、南古墳が6世紀中~後半と推定された。今日は条池北・南古墳の墳丘には草が茂っており近づけなかった。
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庚申塚石室、左:開口部、右:玄室奥壁、天井石が割れている

宮山古墳のある八幡神社に向かう。八幡神社を通って後円部に上る。古くから神社を祀っていて、宮山古墳の名前もここから来ている。西南西に面する前方後円墳で全長246m、後円部径140m、高さ25m、前方部幅168m、高さ22m。雄大な姿が良く目立ち古くから知られている古墳である。
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前方に宮山古墳

昭和25年(1950年)に盗掘が有って発掘調査が行われている。後円部の竪穴式石室が調査された。他に古墳の主軸に平行して北側にも埋葬施設があったらしい。石室は全長5.5m、緑色結晶片岩の割石をほぼ垂直に積み上げていた。凝灰岩の切石で造られた天井石は6枚あったらしいが、西端の一枚は無かった。石室中央には竜山石を使い底石と4枚の側石で出来た組合わせ式長持形の石棺がありその全面に朱を塗っていた。蓋石の上面には格子亀甲紋と呼ばれる矩形の装飾的な彫りくぼみがあって、円筒状の縄掛け突起が4面に2個ずつ計8個ついていた。この古墳は長持型石棺と共に石室上に樹立された埴輪群に特徴がある。埴輪は橿考研附属博物館で展示されている。古墳時代中期(5世紀前半)の古墳と判定されていて、天理市の行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)に続く時代の古墳で、今日訪ねた掖上鑵子塚古墳、奈良市のウワナベ古墳、コナベ古墳と同時期のもので、奈良市では大型古墳の築造が終わるが、奈良県では大和郡山市新木山古墳、大和高田市築山古墳、河合大塚古墳と続く大型古墳に先駆けるもので、古代の葛城を代表する古墳といえる。後円部山頂の石室が開口していて石棺を見ることが出来る。竪穴式石室の中を覗けるのはここだけといわれている。
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墳頂でお勉強

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石室開口部、左:開口部を見る。右:石室には一人やっと入れるスペースが有って組立式石棺式石棺の蓋、室内が観察できる。

国道309号を西へ500mほど行く、国道24号との交点にあって葛城川にかかる宮戸橋の交差点のところのバス停「宮戸橋」から近鉄御所に行き帰途につく。
バスは1時間に一本程度で、時間があったので駅まで歩いた。

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途中に孝昭天皇の御陵がある。古墳ではない。

<<写真はクリックで拡大します>>
by yumeoijyuku | 2010-05-20 23:31 | 古墳めぐり案内

植山古墳見学会 2010.5.1

5月1,2日と橿原市による現地見学会が行われた。定員以上の申し込みがあって参加者は抽選で決められた。我々は11時15分近鉄「橿原神宮前」集合のグループで、市のマイクロバスで現地に向かった。
配布された橿原市教育委員会「史蹟植山古墳」によると200年と2001年に発掘調査が実施されており、その成果をもとに2002年には国史蹟に指定されている。現在史蹟公園整備中。
植山古墳は地山を削り出して整形された約40m×30mの方墳で高さは約3~6m。南に面しており東・西・北には上幅約10m、底幅1.6~3mの堀が巡っていて、底には結晶片岩と花崗岩を用いた石敷きが施されていた。

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整備中の公園を通って墳丘へ

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古墳全体をシートでカバーして保護している。北側の壕、右手が南になる。

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右手に石室への見学路が見える

南に開口する2基の横穴式石室があって東石室は両袖式で、全長約13m、玄室長約6.5m、幅約3~3.2m、玄室残存高さは約3.1mあった。玄室には熊本県の阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇ピンク石)で造られた刳抜式家型石棺が遺存していた。蓋の長さ2.52m、幅1.53~1.58m、棺身を含めた高さ約1.7m。

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東石室:古墳全体を覆う屋根の支持材のためみにくい。

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2001年の現地説明会で撮影したもの

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西石室

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2001年撮影

西石室は全長約13m、玄室長約5.2m、幅約2.5m、玄室残存高さは約4.5mあった。玄門部には兵庫県高砂市産の凝灰岩(竜山石)製の閾石(しきみいし)が残っていて石製扉が有った、他の古墳では例がない。石棺は遺存していなかった。
橿原市の資料では東石室は古墳築造と同時の6世紀後半に、西石室はその後7世紀前半に築かれたもので当時の人々にとって特別な古墳だったとしている。
『日本書紀』には628年に亡くなった推古天皇は死後には竹田皇子の墓に葬ってくれるように遺言し、そのようにされたとあるので先ず植山古墳に埋葬され、その後大阪府太子町の現推古天皇陵に改葬されたという説も取りざたされているが、未確認なので市の資料は被葬者については言及していない。

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今日案内していただいた橿原市教育委員会の西坂さん、ありがとうございました。

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西に五條野丸山古墳、西北に畝傍山

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西南西約600mの「八咫烏神社」の踏み石:扉石の一部とされている
by yumeoijyuku | 2010-05-02 17:20 | 現地説明会、講演会

大和の古墳をめぐる・・その2-23

御所市の古墳① 近鉄薬水駅~葛駅 2010.4.15

朝日カルチャーセンター平成22年度最初の古墳めぐりで、講座名も「大和の古墳をめぐる」となった。今回は御所市の南東部巨勢路の古墳をめぐる。
高取町の「市尾駅」から近鉄吉野線を南に下ると東西の山が迫ってきて「葛駅」の手前からは曽我川を挟んでJR和歌山線と並走する。このあたりは古代飛鳥から五條・和歌山、または吉野さらに伊勢に抜ける巨勢路の要衝で巨勢谷が実感できる。
今日の出発は近鉄吉野線「薬水駅」となる。線路沿いの県道を吉野口方面へしばらく歩き、左へ曽我川を渡る。三叉路を左(南)に行くと民家の裏手屋敷内に「水泥塚穴古墳(水泥北古墳)」がある。水泥塚穴古墳と南約80mにある「水泥蓮華文古墳(水泥南古墳)」は裏山が続いておりここの所有となっていて61年(昭和36年)に共に国の史跡に指定されている。

塚穴古墳は径20m、高さ約6mの円墳と思われている。両袖式の石室は南に開口する。巨大な花崗岩で造られているかなり立派な古墳で、6世紀後半の築造とされる。石室はほぼ完全な形で残っているので後期の横穴式石室をじっくり観察できる。巨勢路では今日巡る新宮山古墳と共に大型の石室である。
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古墳の持ち主ご夫婦に説明していただけた、改めてお礼申し上げます。

ここから南へすぐの道路際に蓮華文古墳がある。道沿いすぐに開口部がある。現状で径14m、高さ5mの円墳であるが、本来径20mあったとされている。南に開口する両袖式の花崗岩の自然石を使った石室で全長10.8m、玄室長4.6m、幅約2m、高さ2.5m、羨道長6.2mを測る。
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水泥南古墳外観

この古墳を有名にした六葉素弁の蓮華文を蓋の前後の短辺にある縄掛け突起に穿った家形石棺が羨道部に有るが被葬者と仏教との関係は分かっていない。奥側の蓮華紋の方が彫りが深くはっきりしている、羨道壁と石棺との隙間は狭いが無理すれば奥に行ける。この二つの古墳は以前『日本書紀』にある蘇我蝦夷、入鹿の双墓と考えられていたことがあったという。
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メンバーの方が挑戦した、この壁と石棺の間を入る。体格の良い人には無理、入口側から撮影。奥に行く人は年に10人もいないという。

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朱雀は去年の秋に調査で入った、その時の写真。左:奥壁から玄門部。右:奥側の蓮華紋

来た道を北にとり吉野口駅の東に出てさらに北上し天安川神社境内にある「権現堂古墳」行く。墳丘はひどく破損しているが径20m程度の円墳と推定されている。南南東に向く横穴式石室で羨道部は埋没している。玄室の北側奥壁が破損しておりそこから石室内部が見える、花崗岩の自然石を持ち送って構架した片袖式。奥壁よりに凝灰岩製の刳抜式家型石棺が置かれている。蓋の左右に各2個の円筒状の縄掛け突起が付く家形石棺としては古い形式のものである。石枕が造りつけられている珍しいものである。副葬品は無かったが、棺の形式は巨勢谷では最も古く、6世紀前半の築造とされる。

曽我川沿いに戻り川沿いに北上し近鉄吉野線を越す辺りで西に入ると古代巨勢氏の氏寺巨勢寺跡に行ける。現在は塔の心礎が残る基壇が有るだけとなっている。心礎は花崗岩の大石で中央部に径90cmの円柱穴がある。その中央には舎利孔があって排水溝が掘られた手のこんだものである。巨勢寺の造営者と水泥蓮華文古墳の被葬者とはかなり接近した関係か同一人物ではないかとの説がある。
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塔心礎

先ほどの川沿いの道を北にとり葛駅へ行く方と反対に北西に川を渡り更にJR和歌山線を渡って、国道309号線を西へ行き斜め左に一車線ほどの道を稲宿(いないど)の集落に入って安楽寺を目指す。安楽寺、更に新宮山古墳の案内標識に従って山に入ったところすぐに「新宮山古墳」がある。墳丘は尾根筋の高所に築かれていて径25mの円墳とされている。両袖式の横穴式石室が東南に向いて開口する。玄室は最初から2つの石棺を安置するように設計されていて、羨道側に凝灰岩製の刳抜式家型石棺、奥に板石が3枚遺存しており箱型の組合せ式石棺の蓋と両側石で、吉野川流域で産する緑色の結晶片岩製。家形石棺は六個の断面が方形の縄掛け突起が付いている。極めて精巧なもので突起や棺身の角は面取りされている、また内面は赤みが認められるので盗掘孔から覗いて古代の色を確認できる。
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左:説明書(説明板が錆びて読みずらいので紙にビニールカバーして表示してあった。中:石棺の盗掘孔、奥壁から。右:奥壁

巨勢路の4基の古墳は時代順に権現堂古墳(6世紀前半)→新宮山古墳(6世紀中)→水泥塚穴古墳(6世紀後半)→水泥蓮華文古墳(7世紀前半)となって年代的に続けて築造されている。凝灰岩製の家形石棺を持つ横穴式石室はその地域の有力豪族層の墓であることは広く大和やその他でも認められている。この4基の被葬者こそ巨勢路を支配した巨勢氏であるとされている。巨勢氏は蘇我氏と同族で6世紀になってからの存在が明確になっていて、7世紀には有力な氏族として活躍しており古墳の系譜と一致する。
今日は朝の出発時から雨が降ったり止んだりの天気だったが、シトシト雨で散策には支障なかった。
by yumeoijyuku | 2010-04-15 22:46 | 古墳めぐり案内

大和の古墳めぐり・・その2-22

葛城山麓の古墳②2010.03.18

葛城山麓(竹内街道南部)の古墳

葛城市は2004年10月に新庄町と當麻町が合併して、奈良県11番目の市となった。人口約3万6千人の林間田園都市である。中将姫伝説で名高い当麻寺、古代の国道「竹ノ内街道」が走る。『日本書紀』推古天皇21年(613年)に「難波より京に至までに大道を置く」とあって、これが飛鳥・当麻から竹内峠を越えて古市、河内を通り難波に至る竹内(たけのうち)街道(かいどう)のことといわれている。
近鉄南大阪線(吉野線)磐城駅すぐ南の国道166号(現竹内街道)の一つ南の旧竹内街道を西へ行く。県道を渡ったあたりで右手に入り国道の竹内街道を左(西)へ行く。程なく右手の「史跡の丘」に竹内古墳群がある。前方後円墳1基、方墳1基を含む34基 の古墳が確認されている。多くは直径10m、高さ2m程度の円墳で、古墳時代後期5世紀末から6世紀中頃にかけての築造と推定されている。34号茶山古墳は凝灰岩の板石を組み合わせた家形石棺が直接埋められていたというが現場はよく分からない。「史跡の丘」というわりには見取り図の看板があるだけで、個々の場所にある表示は字が読めなくて手入れが行き届いていない。しかし以前に訪問した時に比べると、樹木が伐採されて歩きやすくなっていた。
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旧竹内街道に戻ってから国道166号を迂回して(西)へ行くと国道の左手に上池が見えるのでその手前を左に入る。程なく南阪奈道をくぐると右手の山の中腹に「三ツ塚古墳群」がある。南阪奈道路の建設にともない調査が行われた。6世紀末から7世紀にかけて築造され、横穴式石室をともなう方墳や円墳のほか、小石室や木棺墓など、計34基の大小の埋葬施設が確認されている。
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三ツ塚古墳南部全景(東から)、右手が南阪奈道

もっとも古い11号墳は6世紀末の円墳で全長10.2mの石室に対し、墳丘周囲の石垣が径12mで見かけを小さく作っている。11号墳の西側にある土葬した人骨を改葬した墓からは日本最古の皮袋(ポシェット)が出土している。現地は南阪奈道路建設によって山を削り取られる大幅な破壊を受けたが、10号、11号、13号といった主要な石室は発掘されたままの状態で、7号は移築されているので見学できる。
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7号墳の前でお勉強
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てんとう虫が古墳の説明を聞きに来た

南阪奈道路の南で川を渡り、ふたたび道路をくぐって南阪奈道路を右に見て葛城ICの方へ南下して平林古墳に向かう。
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南阪奈道路は高いところを通るので途中の展望スポットでは奈良盆地南部を一望できる。写真中央に耳成山が見える。2km弱行くと左に別所池があって貯水塔がみえるので、そちらへ入るとそこに南西に向けた全長55mの前方後円墳平林古墳がある、後円部径25m、前方部幅35m。葺石が有ったようであるが埴輪はみとめられていない。後円部に石室があって南南東に開口している。横穴式石室の奥壁を壁面上部から持ち送る特徴と、石室構築の基準位置に特定の石材を用いているのが特徴。「平林式」として畿内大型横穴式石室分類の標識になっている。6世紀の典型的な後期古墳で、横穴式石室をもつものは前方後円墳が築かれなくなる直前の古墳である。
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石室は照明付で見学できるようになっている、しかし扉があって錠がかかっているので中には入れない。
ここからほど近い当麻イトーピア住宅地にある芝塚1号墳、6世紀前半のものと推定されている。後円部西側には消滅した2号墳の凝灰岩製組合せ式家形石棺が移築展示されている。
当麻イトーピア住宅地にあった5世紀中頃~6世紀中頃の兵家古墳群は、住宅地開発に先立って1972年から調査された後ほとんど削平されたが、丸子山と呼ばれていた8号墳は保存された。芝塚古墳から西へ住宅地を行くと屋上に天文台のように望遠鏡をすえた家があるところの突き当たりにデンと構えている。径37.5mの円墳で測量されただけで詳細は不明。
住宅地を北に抜けてすぐに右手に見える鍋塚古墳。鍋塚古墳のところで県道を東へ横断し、塚畑古墳、全長約70mの前方後円墳で上部は削平され広場になっている。後円部には英霊碑が建っている。旧当麻町内では最大規模の古墳で古墳時代中期のものとみられている。これら2基の古墳を巡った後朝来た旧竹之内街道を通って「磐城駅」に着いて解散となった。
by yumeoijyuku | 2010-03-19 22:17 | 古墳めぐり案内