古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


by yumeoijyuku

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

カテゴリ

全体
現地説明会、講演会
古墳散策
古墳めぐり案内
散歩
その他
お勉強
古墳
現地説明会、講演会

以前の記事

2015年 03月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 06月
2014年 04月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2007年 12月
2006年 12月
2006年 10月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 09月

フォロー中のブログ

KOTOコレ2017

タグ

(85)
(60)
(40)
(33)
(30)
(26)
(20)
(20)
(17)
(17)
(14)
(12)
(12)
(10)
(9)
(9)
(9)
(9)
(9)
(6)

その他のジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

タグ:大阪府 ( 20 ) タグの人気記事

堺市長山古墳現地説明会見学報告 

堺市長山古墳現地説明会 2013.08.03

 2013.7.31毎日新聞によると、大阪府堺市文化財課は「文献によって存在が知られているが実態が明らかでなかった「長山古墳」を発掘し、31日に現地説明会を行うと発表した。4世紀後半と推定され近くにある乳岡(ちのおか)古墳と共に百舌鳥古墳群では最古級とされる。
暑い中であったが見学に行った。

午後からの説明ということで、仁徳陵古墳近くを散策した。
e0080110_2143938.jpg

JR百舌鳥駅すぐ南西にある長塚古墳を見学した。大正9年に史跡指定されたときは「長山古墳」といわれていたという。

最近できた「古墳カレー」を試食した。中辛を注文、美味しかった。奥さん一人で切り回していたが、愛想よく話相手になっていただいた。仲間と一緒に古墳の勉強会をされているとのことで、先生方の名前が出てくる。客席が狭いので奥の居間を急遽整理して客用に使っているとのこと。
e0080110_2143557.jpg

左:店名は「花茶碗」。この突き当りはJR阪和線ですぐ左手が長塚古墳、道路を隔てて「百舌鳥駅」なので駅から歩5分弱。中:カレーの皿と古墳の形に盛り付ける型。右:古墳カレー千円トッピングのフライは好みで注文できる。

乳岡(ちのおか)古墳
e0080110_21444739.jpg

履中陵古墳の前方部を通る広い道路を西へトコトコ歩いてゆき南陵町の先へ行くと左手に鉄塔があってその向こうに古墳がある。左・右:乳岡古墳。

さらに先(西)へ行き国道26号の高架の一つ手前の道を右(北)へ約600m行く。堺山口病院の所を右に入るとすぐ「高砂町」のバス停を過ぎてすぐ左に入って突き当りが長山古墳の発掘現場となる。南海阪堺線の「東湊駅」を東へ行くと高架を過ぎてゆくと「高砂町」バス停がある。
e0080110_21452399.jpg

左:「高砂町」バス停、この角を左に行く。右:発掘現場。

e0080110_21461833.jpg

左:堺市職員の解説。中:前方部南側面の葺石基部、左側墳丘見学者のいるところは周濠。右:画面中央部が前方部周濠。

後円部東側の発掘状況。下図の上の部分。左手が後円部墳丘部分。右手が周濠部分。
e0080110_21478100.jpg


調査地と古墳復元模式図
e0080110_23584544.jpg

 墳丘主軸は約40度東に傾く前方後円形古墳で墳丘長110m、後円部径56m、周濠を含めた全長156mと推測された。墳丘長は百舌鳥古墳群中9番目の大きさとなる。

出土品。
e0080110_21484660.jpg

左:蓋形埴輪(肋木=傘の外周・上にそりあがっている)。中左:蓋形埴輪。中右:鰭付埴輪。右:車輪石。

調査区全景、北北東方面
e0080110_21492192.jpg


<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2013-08-04 23:55 | 現地説明会、講演会

堺市ニサンザイ古墳現地説明会 2012,12,1。2/2 

堺市ニサンザイ古墳現地説明会 見学報告2/2

北側くびれ部には見学用ステージが組まれていた、前方部側に造出しがある。
e0080110_20315898.jpg

左:見学用ステージ。中:須恵器甕とハニワ列を検出。右:同左拡大。

建設時のものと思われる墳丘裾部が検出され、後円部径が従来数値より大きいことが分かった。
e0080110_20322276.jpg

造出し東斜面。左:墳丘裾。中・右:転がり落ちた埴輪片。

e0080110_20325748.jpg

②の部分左:1段目テラス。中:奥に葺石。右:手前に埴輪列。

e0080110_20332992.jpg

③の部分。左:見学通路から。中:外堤から仮設通路が見える。右:同左。

e0080110_20334887.jpg

④の部分。左:見学通路から。右:手前に埴輪列、仮設通路の奥に葺石。

e0080110_2034733.jpg

左:東南部外堤への見学通路、向こうは共同墓地。中:説明板。右:受付近くで15分おきに説明の後見学。

e0080110_20344458.jpg

後円部南東外堤からの墳丘全景。

 時々強いにわか雨があって天候は不順であったが、周濠を渡って墳丘まじかに見学用通路とステージが用意されていて充実した見学ができ、世界遺産指定に向けた意気込みが感じられた。堺市がこれだけできるのだから宮内庁も墳丘のほんの一部にでも見学用通路を設けて一般に公開しても通路の下部をしっかり養生すれば墳丘に影響ないとおもわれる。誰のものかわからない古墳に少し入るぐらいなら罰は当たらないと思う、実際の継体天皇陵とされる高槻市の今城塚古墳はさんざん掘り返されているが、祟りがあったとは聞いたことがない。


<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2012-12-03 21:17 | 現地説明会、講演会

堺市ニサンザイ古墳現地説明会 2012,12,1。1/2 

堺市ニサンザイ古墳現地説明会 見学報告1/2

 ニサンザイ古墳は宮内庁が「東百舌鳥陵墓参考地として墳丘を管理しており、堺市が周濠を管理している。今回宮内庁の護岸整備工事の事前調査計画に合わせて堺市も同時に状況確認のため調査を行った。
 以下、堺市・文化財課「ニサンザイ古墳発掘調査 現地見学会資料H24.12.1・2」を参考にして報告する。

1、古墳の規模は前方部を西に向けた前方後円墳。大正時代末年に測量された地形図より全長290m、後円部径156m、後円部高24.6m前方部幅224m、高さ25.9mと全国で8番目の大きさとされている。
2、濠の底で本来の墳丘裾を確認した、後円部の外形が5m大きくなって、前方部も同様とすると、従来の墳丘長より10m以上大きくなり300mを超えると見られる。墳丘の周囲には幅50mの濠が巡る。
3、周濠に落ち込んでいた須恵器、土師器、円筒埴輪、形象埴輪から5世紀後半のものとされた。

e0080110_17505266.jpg

左:解説用パネル。右:古墳平面図。

e0080110_17512541.jpg

左:前方後円墳の図例(中津姫陵)。中:③の埴輪(手前)と須恵器(奥)。右:②の埴輪列。

e0080110_17521862.jpg

左:③の葺石。中:④の埴輪列と葺石。右:④の墳丘裾。

e0080110_1754152.jpg

墳丘全景、左・後円部右・前方部(外堤北西部から)。

e0080110_17542844.jpg

左:前方後円墳の仮通路から墳丘部へ渡る。中:参加者への注意書。右:仮通路を渡る。


<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2012-12-03 20:25 | 現地説明会、講演会

大阪城展望  2012.4.27~28

毎年の人間ドック受診で、大阪城近くのホテルに泊まった。部屋の窓からの風景。

ドックの受診では胃の検査がカメラになったので楽になった。以前はレントゲン撮影の時ゲップを辛抱したり、身体をグルグル回したり、揚句にバリウムが残らないように下剤を飲んだりで、苦労していました。

e0080110_22303777.jpg

大阪城ホールで”KARA”の公演があった。開演は18時30分から。入場者はチケットがあってもグッズを買うために並んでいる、14時30分からグッズを販売しているが17時40分でも長蛇の列が続く。

e0080110_22315859.jpg

翌朝の大阪城

e0080110_22315365.jpg

パノラマ1:ホテルの窓から、中央上部に大阪城。その左はNHK大阪。手前は大阪城ホール。川は「第二寝屋川」で「大川」に合流して中之島を経て大阪湾にそそぐ。

e0080110_22325624.jpg

パノラマ2:同上、右のビルは大阪ビジネスパークの西端に建つ京阪のクリスタルタワー。遠景は左から
大手前・天満方面~中之島~大阪駅南西の西梅田。
by yumeoijyuku | 2012-04-28 23:04 | その他

阿武山古墳見学会   2012.4.14

e0080110_22333624.jpg

左:集合場所、大阪薬科大学前バス停。中:すぐ西に阿武山の地震観測所、このすぐ裏に阿武山古墳がある。右:参加受付、左は宮崎文化財課長、中・内田さん、右・今西さん、お二人に案内、解説していただいた。
宮崎さんは今城塚古墳の発掘調査を担当されていて、現地説明会ではお馴染みの顔でした。

以下、当日配布された今城塚古代歴史館作成の資料「阿武山とハニワ街道を歩く」を参考に記述した。

e0080110_22345211.jpg

左:桜の花びらを踏みしめて古墳へ。中:ここから古墳域。右:周溝の表示、向こうが墓域。

 阿武山古墳は阿武山(標高281m)の山頂から南へ延びる尾根の先端部標高213mにある。直径80m~88mの円形に巡る周溝が確認されていて墓域とされたが、墳丘は盛土は認められず地山のままと思われている。中央部は方形に区画され墓室とされている。
 昭和9年に発掘されたときにとられたX線写真から被葬者は40~60歳の壮年男子、身長164.6㎝で当時としては高い。脊椎の圧迫骨折、肋骨に治癒骨折の痕跡があることが新たに判明し、これが死亡原因につながったものと考えられている。
 古墳は7世紀中頃~後半にかけて築造されたと考えられている。

e0080110_22362250.jpg

左:古墳の説明板。右:すぐ隣にある京都大学地震観測所(無人)、昭和9年の工事で埋葬施設が発見されて調査された。当時京都大学の濱田耕作教授の命で末永雅夫氏が調査に当たり、X線写真まで撮って調査されたが、高貴な人の可能性が出てきたため、憲兵の命令で中止し、埋め戻されている。
 埋め戻したとはいえ、保存処置は何も施されておらず、仮に今掘り返しても当時のの状態で残っているとも思われず、当時の資料を基にした研究だけが頼りになるものと思われる。

 茨木市に住んでいた小学生の時から「阿武山の地震計」として眺めていたが、まじかで見るのは初めてでした。

e0080110_2237145.jpg

「墓室」として方形に囲われた区画。

e0080110_2238967.jpg

左:塚原古墳群E1号墳、E2号墳。中:墳丘。右:マンホール。

阿武山古墳の南・東斜面の高槻市、茨木市には6世紀中頃~7世紀中頃までの間に築かれた群集墳で、総数140基が分布していたが現在約40基が保存されている。

e0080110_22391243.jpg

塚原第一公園にあるM1号墳、通常は施錠されている。左:公園標識。中:石室内部。右:同左。
明治期にウイリアム・ゴーランドが調査した時の写真が残っている。、当人が石室内で映っている唯一のもので、石積から当古墳と分かっている。

e0080110_22395252.jpg

左。ゴルフ練習場内に古墳が残っている。右:説明板。

e0080110_22402486.jpg

新池遺跡・埴輪工場。左:埴輪窯の説明、窯跡は計18基あった。中:建屋内に保存されている。右:窯の床が何段にも積層されていて、何回も床を創って再使用されていた事がわかる。

5世紀中頃から6世紀中頃までの間太田茶臼山古墳や今城塚古墳などの古墳に埴輪を供給した。

e0080110_22413061.jpg

左:工房跡、復元。中:建物は傷むので、手前の工房は建て替えされている、当時も同じと思われる。右:阿武山古墳出土の冠帽と玉枕。今城塚古代歴史館では開館一周年の特別展「阿武山古墳と牽牛子塚」が開催されていた。被葬者の髭と髪が残っており「DNA鑑定できないものか」と質問したが、具体化はしていないとのことであった。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2012-04-16 01:31 | 古墳

古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-44の2/2  

朝日カルチャーセンター 現地講座 H24.1.19

八尾市の古墳②の2/2

 来迎寺の入口へ戻って南へ行き、細い服部川を渡ったところで左手(南)へ入る。服部川42号墳の他古墳が点在しているが詳しいことはよく分かっていない。
e0080110_22511576.jpg

左:服部川42号墳。右:服部川78号墳。

 周囲の古墳群を探りながら南へ行き服部川78号墳のところを右(西)へ神光寺の墓地の方へ行く。墓地の角を右(北)へ入ると右手奥に二室塚古墳(服部川25号墳)がある。現地にある八尾市教育委員会の説明板では、6世紀後半に造られた石室で、右片袖式の玄室を二つ連結したもので、全国的にも類例が無いという。(なお、郡川(信貴山ケーブルの南)にある交互二室塚古墳の石室は奥の玄室は右片袖、これに左片袖式の前室が連結されている)。また、この古墳は明治時代中期に造幣技師として英国ガウランドが我が国に招かれたとき写真撮影を行い「双室ドルメン」として、いち早く海外に紹介したという貴重な歴史を持っている。


e0080110_22295661.jpg

二室塚古墳①。左:説明板でお勉強:。右:前室から奥室を見る。

e0080110_22311818.jpg

二室塚古墳②。左:左側壁、手前は奥室。右:右側壁、奥室右袖玄門部から、前室(向こう)も右袖で同形の石室が続いている。

e0080110_22315873.jpg

二室塚古墳③。説明板。

e0080110_2233990.jpg

服部川7号墳①。左:羨門部。右:玄門部、玄室から、調査のマークが入っている。


e0080110_1421342.jpg

服部川7号墳②.左:奥壁と右側壁。中:奥壁と左側壁。右:マンホール。

 帰りは西へコンクリートの坂道を下り、道なりに西へ行くと近鉄信貴線に突き当たるので、その手前で右、左と曲がり服部川駅に出る。
by yumeoijyuku | 2012-01-22 00:03 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-44の1/2  

朝日カルチャーセンター 現地講座 H24.1.19

八尾市の古墳②の1/2

今回は八尾市の高安山西山麓に点在する高安古墳群をめぐる。八尾市の高安地区中部(千塚、山畑、大窪、服部川、郡川あたり)には約200基の古墳群が現存しているという。古墳時代後期の6世紀から7世紀にかけて造られ、その多くが、横穴式石室を持った直径10~20メートルほどの小さな円墳で、高安山の中腹、標高50~300メートルあたりに多く分布している。心合寺山古墳が造られた古墳時代中期には大豪族が巨大な古墳を築造していたが、古墳時代後期には権力が分散し、財力のある小豪族がこのあたりに勢力を伸ばし、小規模な円墳を造った。しかし、被葬者が誰であるかはわかっていない。

 高安古墳群は4つの支群に分けられる八尾農免道路(ガソリンなどの揮発油税の収入の一部を使って造られた農業用道路の通称)に沿って北から①大窪・山畑(おおくぼ・やまたけ)支群、②服部川支群、③郡川支群、④黒谷支群がある

 近鉄「服部川駅」が出発点となるので、まず近くの「俊徳丸鏡塚古墳」から見てゆこう。駅から北へすぐの公園の角を右(東)へ道なりに行き池を越えて2つ目を左へ入るとすぐに古墳がある。古墳は大窪・山畑古墳27号に整理されている。6世紀ごろの横穴式石室古墳。
 謡曲、浄瑠璃で演じられる俊德丸はこのあたりにいたとされる信吉長者の子で、蔭山長者の娘と恋に落ちたが、俊徳丸は継母から憎まれ、失明させられ、癩病にも侵されてしまい放浪の身となる。後に蔭山長者の娘と再会し、観音様のおかげで俊徳丸の病気は治り、二人は夫婦となって蔭山長者の家を相続して幸福な人生を送ったとされる。俊徳丸の実家の長者は落ちぶれてしまう。という物語である。

e0080110_072143.jpg

俊徳丸古墳(大窪・山畑27号墳)①左:全景。中:開口部、人が立っているところ。右:説明板。

e0080110_08274.jpg

俊徳丸古墳②左:開口部。中:奥壁、五輪塔下部、石碑が祀られている。右:玄室より玄門部。

 ドルメン古墳(大窪・山畑36号f墳)へは一旦北に出て東の山沿いの「農免道路」に出ると、山側に大窪・山畑39号墳がある。そこから北へしばらく行くと右手に「シュロの木」があって目印となる。そこから右手を見ると大きな石組が門のように残っているドルメン古墳の残骸が見える。墳丘、石室はなくなっているが、明治時代初期にエドワード・モースが日本の古墳を調査・スケッチして、「日本におけるドルメン(ドルメン=支石墓、新石器時代以降の巨大な石を用いた墳墓)」として紹介している。 そのことからこの古墳が「ドルメン」として有名になったと思われる。
 エドワード・S・モース(1838年~1925年、アメリカ合衆国)は、東京大学の初代動物学教授を務めるかたわら大森貝塚(東京都)の歴史的な発見者として知られる有名な明治時代の博物学者で、日本近代考古学の創始者とも言われている。
e0080110_085254.jpg

石組は今にも崩れそうで頼りない。

ドルメン古墳(大窪・山畑36号)。左:農免道路から、写真中央部上・右。中:石室側から。右:羨道側から、上部の石の左手は一点で支持されていて、下の支持している石にはヒビが入っている。

 農免道路を南に戻り、どんどん南へ行くと、左手の山に来迎寺があって古墳が開口している。坂を昇って本堂の反対側(南)の墓地に入ると突き当りが石組のトンネルになっている。これが大窪・山畑7号墳でトンネルは南に開く横穴式石室の羨道で「抜塚」と呼ばれている。八尾市教育委員会の解説板によると羨道長8m、高さ2.2m。羨道の北には玄室があって長さ5~6m、幅3m前後と推定され本来の石室長は13m~14m前後と推定されている。高安古墳群中でも最大級石室があったとされ、明日香村の石舞台古墳と同じ7世紀前半ころの築造とされている。
 
e0080110_093021.jpg

来迎寺の古墳①左:農免道路から、中央部やや右に抜塚(大窪・山畑7号墳)。中:解説板でお勉強。右:解説板。

e0080110_010825.jpg

来迎寺の古墳②説明板

e0080110_0105291.jpg

来迎寺の古墳③抜塚(大窪・山畑古墳7号墳)、玄室側から

e0080110_0112225.jpg

来迎寺の古墳④抜塚、羨門側から

 7号墳の北、本堂寄りには8号墳がある。石室全長6.8m、玄室長4.4m、幅1.7m、高さ2.2m。小さめの石材を使用しており、玄室が縦長の長方形をしていることから高安古墳群では造墓開始間もないころの6世紀中ごろの古墳とされている。来迎寺本堂の西は展望が開けていて、大阪のビル群が見通せる。

e0080110_012541.jpg

来迎寺の古墳⑤大窪・山畑古墳8号墳左:墳丘。中:石室から。右:奥壁。

八尾市の古墳②の2/2へ続く。
by yumeoijyuku | 2012-01-21 23:30 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-43

朝日カルチャーセンター 現地講座 H23.12.15

八尾市の古墳①

 八尾市の東部、高安山のふもと一帯に高安古墳群が広がっているが今日はその北側に広がる楽音寺(がくおんじ)・大竹古墳群をめぐる。

 近鉄信貴線服部川駅から北へ30分ほどで心合寺山(しおんじやま)古墳につく。八尾市教育委員会発行の「国指定史蹟心合寺山古墳2005」によると古墳は南に開く前方後円墳で全長160m、後円部径約92m、高さ約13m、前方部幅約90m、高さ約12mで古墳時代中期(5世紀前半)築造とされている。同じような規模をもつ中期の古墳には藤井寺市の仲津姫陵の南西にある古室山古墳(周濠無し)、前期では京都府の椿井大塚山古墳があって全国で60番ほどの大きさになる。

この古墳は1993年本格的な発掘調査を開始している。
 1997年8月:墳丘長さ160m以上で大王陵に次ぐ規模の墓と分かった。23個の円筒埴輪列が出土。
 1998年9月:前方部で底面が縦7m、横6mの台形状の方形壇を検出した、方形壇が前方部で確認されたのは全国初。遺構に接して約30mにわたる円筒埴輪列がほぼ完全な形で出土。

 2005年5月:八尾市は「心合寺山古墳」の整備事業を完成し、古墳時代中期(5世紀初頭)の前方後円墳の外観を復元した。「しおんじやま古墳学習館」も新たに新設した。
 まず学習館で勉強してから古墳を見学する。
e0080110_22222025.jpg

中央に心合寺山古墳、遠景は生駒山地(主峰の生駒山や信貴山を経て大和川に至る山系)高安山付近。

e0080110_20542359.jpg

左:*心合寺山古墳資料館の館長さんに案内していただいた。中:*後円部下段の埴輪列。右:*前方部の埴輪列、後円部より、前方先端に方形壇。

e0080110_22514092.jpg

心合寺山古墳。左手ー後円部、右手ー前方部。

 1999年8月:「三つ木棺 並ぶ埋葬施設跡」を発掘。後円部の頂上で木棺の周囲を粘土で固めた粘土槨が3か所見つかった。南北11m、東西8mの範囲に南北方向に50㎝の間隔で整然と並んでいた。

e0080110_21582282.jpg

*後円部墳頂。発掘された3つの粘土槨の位置が明示されている、それぞれに木棺が埋葬されていた。

e0080110_22325234.jpg

前方部で検出された底面7m×6mの台形状の方形壇。方形壇が前方部で確認されたのは全国初。

e0080110_22402630.jpg

左:後円部墳丘。右:周濠、南東部から後円部を見る。

 高安山山麓の古墳めぐりには「しおんじやま&高安古墳群散策マップ」がわかり易いので「古墳学習館」で手に入れて散策してほしい。
 心合寺山古墳の北東、大阪経済法科大学構内に高句麗の第19代「好太王碑」のレプリカがあるので見ていこう。414年に息子の長寿王が好太王(=公開土王:在位391~412年)の功績を称えて建立したものである。約1800字からなる碑文は純粋漢文で記されており、4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史だけではなく倭が登場することから古代日朝関係史を知る上での貴重な史料となっている。
e0080110_22343656.jpg

高句麗好太王碑レプリカ

 愛宕塚古墳は心合寺山古墳の東南東に位置して、神立(こうだち)の墓地の西になる。愛宕塚古墳について「八尾市文化財情報」によると「古墳時代後期(6世紀後半)に造られた円墳で、墳丘の大きさは直径約22.5m、高さは約9m。埋葬施設は、石材を積み上げた両袖式(左袖が極端に短いので片袖式とも見える)の横穴式石室で全長15.7m、玄室長7m、玄室幅3.1m、羨道長8.7m、羨道幅2.1m。石室内部の広さは畳約11畳分もの大きさがあり、奈良県の明日香村にある石舞台古墳石室(全長19.15m、玄室長7.7m、幅3.5m、羨道長11.6m、幅2.2m)に匹敵する。大阪府下では最大級の横穴式石室で、有力な人物のお墓であったと考えられる。昭和41(1966)・42年の発掘調査では、凝灰岩(二上山の白色凝灰岩)と竜山石製の2種類の石材の組合式の家形石棺の破片や、ねじり環頭大刀、龍の模様が施された飾り金具をもつ大刀、鉄地金銅張りの馬具、ガラス玉の首飾り、須恵器など古墳の規模にふさわしい出土品が見つかっている。」

1996年3月の毎日新聞には愛宕塚古墳を物部氏の墓とする記事がある。「愛宕山古墳は飛鳥の石舞台古墳に匹敵する巨大な石室をもつ。安井良三さん(八尾市立歴史民俗資料館長)は『朝鮮半島の百済に渡り、新羅を攻めた物部氏の一族』と結論した。信貴・生駒山地の西側が物部氏の拠点であること、朝鮮系の舶来の馬具一式を持つことに着目したもので、朝鮮派遣の軍事氏族・物部氏なら、舶来品を入手しやすいと考えられる。」
物部氏は河内国の氏族で元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長し、雄略朝には最高執政官を輩出するようになっていた。物部守屋の時587年、用明天皇崩御後の次期天皇選定に際して蘇我馬子らの連合軍に破れて、守屋は河内国渋川郡(現・東大阪市衣摺)の本拠地で戦死している。次期天皇には蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、以降物部氏は没落する。そして蘇我氏は権勢をふるい、592年10月崇峻天皇を暗殺してしまう。

e0080110_22351438.jpg

愛宕塚古墳①。左:開口部。右:解説碑。

e0080110_22354586.jpg

愛宕塚古墳②。左:石室奥壁。右:床、石が敷きつめられている。

e0080110_22363553.jpg

愛宕塚古墳③。玄室から。左:玄門部見上げ石。右:羨道。

e0080110_2237823.jpg

愛宕塚古墳④。羨門部から、羨道部左右。

e0080110_2237342.jpg

愛宕塚古墳⑤。左:西方大阪市方面遠景。右:同左、中央右手に梅田のハービスOOSAKA。


<写真はクリックすると拡大します>、お断り:朱雀のカメラが入院中のため、掲載の写真は*印以外のものは事前調査時点のものを使用しました。
by yumeoijyuku | 2011-12-24 23:03 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-37 

朝日カルチャーセンター現地講座 

摂津の古墳① 2011.6.16
茨木市・高槻市の古墳

「阪急「茨木市」駅からバスで「花園東和園行」に乗車、「太田」で下車。バス停から東へ行くと継体陵古墳の手前に太田神社が有って奥に陪塚が有るので寄ってから御陵に向かった。継体天皇陵(太田茶臼山古墳。墳丘全長226m、後円部径138m、高19.2m、前方部幅147m、前方部長117m、高19.8m、幅約28~33mの盾形濠がめぐる。くびれ部両測に造出しがある)は中世以降所在不明となっていたものを元禄年間にこの古墳が継体天皇藍野陵に比定されている。
この古墳は3月に訪問した允恭天皇陵や4月に訪問した古市の墓山古墳とよく似ているので共に中期古墳とされており、最近では後で訪問する今城塚古墳が真の継体天皇陵とされていて、学会でも異論が無い。元奈良大学学長水野正好氏によると「大田茶臼山古墳の主は応神天皇の皇子稚野毛二俣王が最もふさわしい。王の娘二人は允恭天皇の皇后と妃になっており、朝廷でも枢要の位置を占めたものと思われ、継体天皇は家の全盛期を象徴する家祖の墳墓の地に陵墓を営だ。」とされる。
太田茶臼山古墳は、昭和47年に御陵外の後円部側で発掘された円筒埴輪列の時期が5世紀代のもの、また昭和61年に外堤から埴輪の破片が発掘されていて、その時期が5世紀~同末のもので有ることが分かり、継体天皇が亡くなった530年と50~80年の開きが有る。
e0080110_1684333.jpg

現継体天皇陵、左:拝所、中:南西角から後円部西を見る、右:同左、前方部

e0080110_16124659.jpg

陪塚、左:と号陪塚、右:に号陪塚

継体天皇陵の陪塚を巡った後、名神高速を北に渡り側道を東へ進むと左に小さい池が有って番山古墳がある。説明板によると直径56m、高さ7mの円墳とされていたが、濠跡などから、南西部に短い前方部を持つ帆立貝式の前方後円墳とされた。墳丘にあった埴輪などから5世紀中頃の古墳とされている。
e0080110_16143921.jpg

番山古墳、東北より

e0080110_1615531.jpg

番山古墳から北の阿武山を見る、地震観測所付近に阿武山古墳がある.*

ここから山手に行き東へ入ると「ハニワ工場公園」がある、日本最大級の新池埴輪製作遺跡が公園化されて残っている。阪急不動産が住宅地として買収した土地が一大埴輪工場跡と分かったので、高槻市が買い戻して公園として整備された。
 『史跡新池埴輪製作遺跡は、5世紀中頃から6世紀中頃までの約100年間操業していた日本最古最大級の埴輪生産遺跡で、3棟の大形埴輪工房と18基の埴輪窯、工人集落などが丘陵上に発掘調査で確認され、大王陵級の古墳の埴輪生産システムを具体的に知ることができる貴重な遺跡である。
 ここで作られた大量の埴輪は太田茶臼山古墳(5世紀中頃、茨木市・現継体陵)や史跡今城塚古墳(6世紀前半、郡家新町)といった巨大古墳をはじめとして、三島の有力者の墓に立て並べられた。窯跡から出土した埴輪片が編年され年代確定に役立っている。
e0080110_16173792.jpg

埴輪工場跡公園、左:右上に作業所、左マンション群の手前にかまぼこ型の18号窯の展示場、右:、18号窯、窯の底は何層にもなっていて更新しながら使われている。

e0080110_23302287.jpg

左:窯跡、右から1号、2号、3号*、中:3号窯跡上部に成型作業場*、右:作業場*

 史跡闘鶏山古墳へは一旦名神高速の側道へ出て左(北東)へ行き闘鶏野神社の裏手の山にある。調査中ということで墳丘には近づけないが概要を紹介しておこう。古墳は平野に突き出た丘陵先端部にある、全長88.0m、後円部径60m前後、2段築成の前方後円墳。墳丘には幅1~1.5mのテラスを含み全面が葺石に覆われていて特徴となっている。後円部墳頂は標高87mである。平成14年の確認調査によって後円部から南北に併行する未盗掘の竪穴式石室2基が発見され、大きな話題になった。第1主体石室内部のファイバースコープ調査では三角縁神獣鏡や石製の腕飾り、木棺の一部などが確認され、4世紀前半の三島の王墓と考えられている。
ここから名神高速道路沿いの南の側道を東へどんどん行くと芥川の手前にある高槻二中の西を南へ行くと群家車塚古墳(墳丘全長86m、後円部径44m、同高さ6m、前方部幅35m、同高さ4mの西に開く前方後円墳。)に出る。その西にある前塚古墳を経て今城塚古墳に行こう。名神高速道路の北側に広がる丘陵には古墳時代前期の弁天山古墳群が展開していることから、郡家車塚古墳の被葬者は弁天山古墳群に埋葬された集団の後継者的存在だったのではないかと考えられている。
e0080110_22425154.jpg

左:郡家車塚古墳、右:前塚古墳(後円部が残っている)

高槻市は4月1日に開館した今城塚古代歴史館と古墳を合わせて「いましろ大王の杜」として売り出している。先ず古代歴史館で勉強してから、古墳を見学しよう。
今城塚古墳(墳丘全長190m、後円部径100m、同高さ9m、前方部幅140m、同高さ12m、二重の濠をめぐらせた古墳の全長340m、ほぼ西に開く前方後円墳。造り出しはくびれ部の両側に有る。墳丘は中世の砦とされていたためかなり改変されているとされていたが、調査の結果大地震による崩れも確認されている。
皇統については神話を別にして『日本書紀』などから、崇神天皇に始まる崇神王朝、応神王朝、今につながる継体王朝が説かれている。『日本書紀』によると継体天皇は507年、58歳になって河内樟葉宮で即位し、手白香皇女を皇后とした、継体天皇は526年になってようやく大和国磐余玉穂宮に遷り、531年80才(『古事記』では527年40才)で逝去する。安閑・宣化天皇に続いて手白香皇后との子が欽明天皇となって、蘇我稲目の娘堅塩媛、小姉君を妃とし、蘇我氏の後盾によって継体王朝を確固たるものにする。
e0080110_162025100.jpg

今城塚古墳の「しろあと歴史館」の埴輪復元品、右:古墳上の復元模型

e0080110_16231390.jpg

左:以前に開催された石棺作成作業会*、右:出来上がった予想される複製石棺が展示されている。

e0080110_16261122.jpg

左:複製された阿武山古墳の大職冠と玉枕、古墳石室図

今城塚古墳(1958年国史跡)についてはH8(1996)年度以降、高槻市教育委員会埋蔵文化財調査センターが本格的な考古学的調査を行っていてその結果を今城塚古代歴史館に集約している。
今日は終日雨天であったが、メンバーには熱心に受講していただいた。帰りはJR「摂津富田駅」まで歩く。阪急「富田駅」はJRからすぐそこにある。

以前に撮影した写真を併用しています(*印)。
「今城塚古墳、いましろ大王の杜 古代歴史館 開館」については2011.4.1.のブログを参照してください。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2011-06-17 16:31 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-36

朝日カルチャーセンター現地講座 
百舌鳥古墳群 2011.5.19

今回は古市古墳群と共に世界遺産登録を目指す百舌鳥古墳群をめぐる。先ず堺市役所21階にある展望ロビーから眺めて概要を理解する。古墳群を一望・・・と言っても仁徳陵が大きく他の古墳はあまり視界に入らない。
e0080110_22541588.jpg

地上80mの展望、中央に大仙古墳、南海高野線が突き当たるあたりに永山古墳

三国ケ丘高校の北にある反正天皇陵に行く。南に開く全長148m、後円部径76m、同高さ14m、前方部幅110m、同高さ15mの前方後円墳である。
e0080110_21135367.jpg

反正陵拝所(2011.4.5撮影)

陪塚は主墳の東に2カ所残っている。
e0080110_2255581.jpg

陪塚、左:鈴山古墳、中:同左説明板、右:天王古墳

先ず仁徳稜のすぐ北、南海高野線と中央環状線の間にある永山古墳によっていこう。
e0080110_22174349.jpg

永山古墳、中央環状線の南から。

仁徳稜(墳丘長486m、後円部径249m、同高さ35m、前方部幅305m、同高さ33m。くびれ部の両側に造出しを持つ、三重の濠がめぐりこれを含めると全長840mとなる。三段築成で前方部を南南西に開く日本一を誇る前方後円墳)を西から南へ巡回する。
途中外堤にある樋の谷古墳近くの歌碑のあるところで一息入れる。
e0080110_22565262.jpg

歌碑、故・犬養孝先生書

仁徳陵の南は「大仙公園」として市民が集う一大広場として整備されている、中に堺市立博物館、平和記念塔(中には入れない)がある。
前方部にある陪塚をめぐって拝所に出る。
e0080110_2258279.jpg

左:道路の左こ仁徳稜堤の林、右:右に竜佐山

e0080110_2304091.jpg

左:仁徳陵拝所、右:堺観光ボランテイア協会の水野さんが説明してくれた。

昼食後は堺市立博物館でお勉強後出発した。
e0080110_2259223.jpg

クフ王のピラミットは内濠の範囲に収まる

e0080110_20315912.jpg

博物館の中で子供たちが遊ぶ、左:出土した石棺の実物大模型に入る、右:中世屏風絵のジグソーパズル

e0080110_21513924.jpg

七観古墳跡から履中天皇陵(墳丘全長363.6m、後円部径303m、同高さ25m、前方部幅236.8m、同高さ23mの南南西に開く三段築成の前方後円墳)を見る(2011.4.5撮影)

イタスケ古墳は戦後の第一次住宅開発ブームで「土取り場と」されトラックが入れるように橋が架けられたが、
市民運動の結果工事が中止された経緯がある。ここで発掘された古代の兜はデザインされて遺跡保存運動のシンボルとして使用されている。現物は堺市立博物館に展示されている。
e0080110_2313442.jpg

イタスケ古墳(全長約186m、後円部径約96m、同高さ約18.3m、前方部幅約119m、同高さ約17.8m)で土砂運搬用に架けられていた橋の残骸(2011.4.5撮影)

e0080110_2322520.jpg

イタスケ古墳の狸、左:古墳の見学、右:狸が人を見学に出てきた。十数年前頃から周濠で囲まれた墳丘に狸一家が住み着いているという。

e0080110_2334677.jpg

御廟山古墳前方部、南西から(全長約200m、後円部径約110m、同高さ約18.3m、前方部幅約119m、同高さ約17.8m)

e0080110_2012372.jpg

現地説明会の写真、左:くびれ部南の造出しの埴輪列、右:左写真の右端にある埴輪列拡大
現説については当ブログの2008.11.29「陵墓参考地の発掘調査現地説明会」参照。

時間の都合で、途中ふとん太鼓で有名な「百舌鳥八幡」を横目に百舌鳥川沿いを上って、中百舌鳥への途中にある上の山古墳に寄った。

e0080110_2113643.jpg

定の山古墳、左:東前方部から後円部を見る、右:説明板

今日は強行軍で予定の午後3時をオーバーして南海高野線・地下鉄中央線「中百舌鳥」駅で解散した。

<写真はクリックすると拡大します。

◎朝日カルチャーセンター「現地講座「古代のロマン・古墳をめぐる」受講を検討する方は以下によって検索してください。

インターネットで「朝日カルチャーセンター梅田」を検索→「講座を探す」をクリック→「講座のジャンルから探す」で「現地」ー「歴史探訪」をクリック→「古代のロマン・古墳をめぐる」をクリック・・・してください。
by yumeoijyuku | 2011-05-19 23:09 | 古墳めぐり案内