古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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古墳めぐり案内ーブログ掲載日:目次

 これは朝日カルチャーセンター現地講座の様子を、講師が私的にブログで公開したもののうち2008年11月から2012年9月の間に実施した1クルー分のリストです。

 この間に案内した内容については
①目的の「テーマ・実施日」を下記1~45上段から探し出して。
②下段の「ブログ見出しと掲載日」から得られた年月によって、このブログ「朱雀の夢ものがたり」の左欄に表示されている年月をクリックして該当年月を参照し、該当記事を選んでご覧ください。

 「古墳めぐり案内」は現在も継続して実施しています。講座の案内はウエブで「朝日カルチャーセンター梅田」を検索して「現地」-「歴史探訪」-「古代のロマン・古墳をめぐる」を参照してください。
                2013年7月5日  古代夢追塾 主宰
上段:テーマ・実施日
下段:ブログ見出しと掲載日      

1、奈良市北部の佐紀古墳群①,08.11.20
  奈良の古墳めぐり・・その2-7 2008-11-20 古墳めぐり案内
2、奈良市北部の佐紀古墳群②,08.12.18
  奈良の古墳めぐり・・その2-8 2008-12-18 古墳めぐり案内
3、大安寺(癌封じ祭り)から奈良市西部の古墳,09.01.23
  奈良の古墳めぐり・・その2-9 2009-01-24 古墳めぐり案内
4、奈良市南部の古墳,09.02.19
  奈良の古墳めぐり・・その2-10 2009-02-21 古墳めぐり案内
5、近鉄奈良駅周辺の古墳,09.03.19
  奈良の古墳めぐり・・その2-11 2009-03-22 古墳めぐり案内
6、葬送の地に太安万侶が眠る田原地区へ,09.04.16
  奈良の古墳めぐり・・その2-12 2009-04-17 古墳めぐり案内
7、奈良市最北端柳生の里の古墳へ09.06.18
  奈良の古墳めぐり・・その2-13 2009-06-19 古墳めぐり案内
8、箸墓古墳に続く大型古墳から後期古墳の石棺に触れる,09.07.16
  奈良の古墳めぐり・・その2-14 2009-07-21 古墳めぐり案内
9、桜井市東部の山間部に眠る古墳を訪ねる,09.08.20
  奈良の古墳めぐり・・その2-15 2009-08-21 古墳めぐり案内
10、橿原神宮から新沢千塚へ,09.09.17
  奈良の古墳めぐり・・その2-16 2009-09-18 古墳めぐり案内
11、飛鳥の古墳① 飛鳥西部真弓丘陵の古墳,09.10,15
  大和の古墳めぐり・・その2-17 2009-10-16 古墳めぐり案内
12、 飛鳥の古墳② 古都飛鳥に眠る終末期古墳の主達,09.11.19
  大和の古墳めぐり・・その2-18 2009-11-19 古墳めぐり案内
13、飛鳥の古墳③ 石舞台古墳から古代飛鳥の宮殿跡へ,09.12.17
  大和の古墳めぐり・・その2-19 2009-12-18 古墳めぐり案内
14、飛鳥の古墳④ 孝元天皇陵から飛鳥寺、亀形石遺跡へ,10.01.21
  大和の古墳めぐり・・その2-20 2010-01-22 古墳めぐり案内
15、葛城山麓の古墳①,10.02.18
  大和の古墳めぐり・・その2-21 2010-02-19 古墳めぐり案内
16、葛城山麓の古墳②,10.03
  大和の古墳めぐり・・その2-22 2010-03-19 古墳めぐり案内
17、御所市の古墳①,10.04.15
  大和の古墳をめぐる・・その2-23 2010-04-15 古墳めぐり案内
18、御所市の古墳②,10.05.20
  大和の古墳をめぐる・・その2-24 2010-05-20 古墳めぐり案内
五条市の古墳,10.06.17
  大和の古墳をめぐる・・その2-25 2010-06-18 古墳めぐり案内
19、馬見丘陵と周辺の古墳①,10.07.15
  大和の古墳をめぐる・・その2-26 2010-07-21 古墳めぐり案内
20、馬見丘陵と周辺の古墳②,10.08.
  大和の古墳をめぐる・・その2-27 2010-08-20 古墳めぐり案内
21、馬見丘陵と周辺の古墳③,10.09.
  大和の古墳をめぐる・・その2-28 2010-09-18 古墳めぐり案内
22、馬見丘陵と周辺の古墳④,10.10.21
  大和の古墳をめぐる・・その2-29 2010-10-24 古墳めぐり案内
23、斑鳩の古墳,10.11.18
  大和の古墳をめぐる・・その2-30 2010-11-22 古墳めぐり案内
24、大和郡山市の古墳,10.12.16
  大和の古墳をめぐる・・その2-31 2010-12-16 古墳めぐり案内
25、平群谷の古墳,11.01.20
  大和の古墳をめぐる・・その2-32 2011-01-23 古墳めぐり案内
26、大阪府・河内磯長谷の古墳,11.02.17
  大和の古墳をめぐる・・その2-33 2011-02-18古墳めぐり案内
27、大阪府・古市古墳群①,11,03.17
  大和の古墳をめぐる・・その2-34 2011-03-21古墳めぐり案内
28、大阪府・古市古墳群②,11.04.21
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-35 2011-04-21 古墳めぐり案内
29、堺市の古墳群,11,05,19
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-36 2011-05-19 古墳めぐり案内
30、摂津の古墳①茨木市・高槻市,11.06
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-37 2011-06-17 古墳めぐり案内
31、長岡京と付近の古墳,11.07
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-38 2011-07-22 古墳めぐり案内
32、摂津の古墳②宝塚市,11.08
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-39 2011-08-21 古墳めぐり案内
33、摂津の古墳③神戸市,11.09
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-40 2011-09-17 古墳めぐり案内
34、摂津の古墳④尼崎市・伊丹市,11.10.20
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-41 2011-10-20 古墳めぐり案内
35、竜山石採石場見学,11.11.17
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-42 2011-11-18古墳めぐり案内
36、八尾市の古墳①,11.12.15
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-43 2011-12-24 古墳めぐり案内
37、八尾市の古墳②,12.01.19
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-44の1/2 2012-01-21 古墳めぐり案内
                       2/2 2012-01-22 古墳めぐり案内
38、京都市嵯峨の古墳,12.02.16
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-45の1/2 2012-02-16 古墳めぐり案内
                        2/2 2012-02-16 古墳めぐり案内
39、京都府木津川市の古墳,12.03.15
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-46  2012-03-15 古墳めぐり案内
40、山の辺の道添いの古墳①,12.04.19
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-1 2012-04-19 古墳めぐり案内
41、山の辺の道添いの古墳②,12.05.17
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-2 (1/2) 2012-05-17 古墳めぐり案内
                     (2/2) 2012-05-30古墳めぐり案内
42、天理教本部と周辺の古墳から石上神宮へ,12.06.21
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-3   2012-06-22 古墳めぐり案内
43、開口した前方後円墳から金象嵌の大刀を出した古墳へ,12.07.19
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-4 2012-07-20 古墳めぐり案内
44、山の辺の道添いの古墳③,12.08.30
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-5 2012-09-01 古墳めぐり案内
45、山の辺の道添いの古墳④,12.09.20
  古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-6 2012-09-21 古墳めぐり案内

                                 古代夢追塾
by yumeoijyuku | 2013-07-05 17:14 | 古墳めぐり案内

朝日カルチャーセンター・現地講座案内 その3-8 

古代のロマン・古墳をめぐる その3-8  2012.11.15
桜井市南部の後期の開口した古墳をめぐる

 今日は10月に続いて桜井市南部のいずれも小形の前・中期古墳から横穴式石室が開口した後期後半の古墳を巡る。
JR・近鉄桜井駅をJR側に降りて、正面のきれいに整備された広い通りを南へ、国道165号線を渡ってどんどん南へ行く。先月訪問した艸墓古墳の所を右(西)へ行くと坂の向こうすぐに文殊院の北入口になる。
 ここを入ってすぐの駐車場の東の方に石室が開口している「文殊院東古墳」で、ここの入り口は石の重みで左右の石が割れていて危険なため中には入れない。中に井戸があって「閼伽井(あかい)の水」が湧いているということで、寺務所で売られている。閼伽とは「仏前に供えるもの」と言う意味で特に水またはその容器のことを言う。安倍文殊院は華厳宗に属している、現在ではあまり聞きなれない宗派だが奈良東大寺が本山で、その別格本山となっている。
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文殊院東古墳。左:開口部。中:羨道より玄室を見る、手前に閼伽井の井戸。右:説明板。

駐車場の西手、本堂との間に文殊院西古墳が開口している。墳丘は円墳でかなり変形されている。石室の壁は綺麗に磨き上げられた花崗岩製で上部に行くに従って僅かにせり出していて石室の断面はゆるい台形になっている。天井石は1枚で、中央部を削って綺麗な曲線を出している。優美な石室を持つ後期の古墳として有名である。側壁には花崗岩の切石が綺麗に積み上げられているが2つ分の石に疑似の目地が線刻されている物が4か所ある。石室内には願かけ不動が祭られていて参拝者が絶えない。
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文殊院西古墳。左:開口部。中:玄室奥壁と右側壁。右:説明板。

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花壇には来年の干支の巳の絵馬が造られていた。

文殊院を西へ出て左(南)へ行くと右手に大化の改新前後に建立された安倍寺跡が「安倍寺史跡公園」となっている。金堂跡、塔跡が盛り土で示されている。中大兄皇子を助けて大化の改新の推進に力を尽くした阿倍倉梯麻呂が建立したと伝えられている。
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左:文殊院本堂。中:安倍寺跡の塔基壇。右:次に行った奈良農業大学校。(大学校とは、学校教育法による大学とは異なる教育訓練施設等が用いる名称で、「大学校」を規定する法令はない)。

 奈良農業大学校の中に池ノ内古墳群がある。8基のうち5基の古墳が観察できる。いずれも4世紀後半から5世紀始めの古墳時代前期から中期のもので1970年に調査されている。2号墳の粘土槨に割竹形木棺が、また3号墳には同様に箱形木棺が収められていたが他は木棺直葬の簡単な埋葬施設であった。5号墳からは長方形板皮綴短甲が出土した、皮綴短甲の一歩進んだ様式という。同じく5号墳から三角縁神獣鏡はじめ銅鏡が計5枚出土しており、磐余地域で中央政権に属した豪族の墳墓群と見られている。
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左:1,2号墳がつながって築かれている、左手に1号墳。中:説明板。右:3,4,5号墳がつながって築かれている、3号墳から2号墳を見る。

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農業大学校のすぐ北に神功皇后、履中天皇ゆかりの稚桜神社がある。左:鳥居。中:本殿。右:説明板。

2011年12月にここの西で万葉の「磐余池」の有力地で堤跡が検出されたと橿原市教育委員会が発表したところがある。6世紀ころのもので大阪府の狭山池より古いと言われてるて。
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左:昨年の発掘現場に立つ、後の田地が磐余池とされている。右:磐余池傍に橿原市が建てた歌碑、大津皇子が二上山に行くとき読んだとされる歌。

  ももつたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲かくりなむ
  (百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟)

ここから近鉄「大福駅」に行くまでの東に吉備池がある。ここにも大津皇子とその姉大来皇女の歌碑(がある。ここは桜井市が建てたもの。
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左:大津皇子の歌碑。右:大来皇女の歌碑、うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山を いろせとわが見む(宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見)。

 奈良国立(当時)文化財研究所(奈文研)飛鳥藤原宮跡発掘調査部は1997年2月に、この池の南東隅から飛鳥時代に天皇が造営したとされる「百済大寺(くだらのおおでら)」と推定される寺院金堂の基壇が見つかったと発表した。遺跡の名称としては「吉備池廃寺(きびいけはいじ)」と命名され、東西36m、南北27m以上の巨大な建物基壇で、出土した瓦が山田寺式軒丸瓦で640年頃造られたと推定された。飛鳥時代の寺としては群を抜く規模で日本書紀に記述のある舒明天皇(じょめいてんのう)11年(639年)に天皇が詔(みことのり)して造らせた大寺すなわち百済大寺であると奈文研では断定している。
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左:吉備池の南東部、金堂があったあたり、遠景中央は三輪山。中:説明板。右:右に金堂、左に塔があった。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2012-11-16 23:51 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-7

朝日カルチャーセンター・現地講座案内
古代のロマン・古墳をめぐる その3-7  2012.10.18
箸墓古墳に続いて築かれた桜井市南部の大形古墳

<10月18日の「古代のロマン・古墳をめぐる」は全行程が雨のため写真はありません。前回の09.07.16「奈良の古墳めぐり」その2-14の前半とほぼ同コースなので参照してください。>

 今日は桜井市南部の前期大型前方後円墳から横穴式石室が開口した後期の古墳を巡る。
JR・近鉄桜井駅をJR側に降りて正面の広い通りを南へ行きすぐの商店街を左へ行く。しばらく行って小さい粟原川を渡ってから右手に見える前方後円墳茶臼山古墳へもう一度川を超える。古墳の後円部を東に回り込んでからくびれ部から墳頂を目指す。
 茶臼山古墳は戦後間もない1949年から調査が始まっている。出土品としては王権のシンボルと言われる碧玉製の「玉杖(ぎょくじょう)」が有名、また三角縁神獣鏡他20面以上に相当する銅鏡の破片が多数出土している。古墳の時期は大型古墳のなかでは箸墓の次に位置するもので4世紀前半から中葉の時期が推定されていて、今日訪問するメスリ山古墳よりやや古いとされている。天理市内の行燈山古墳、渋谷向山古墳と続く大型古墳の前の段階のものとされている。後円部墳頂下に長大な竪穴式石室が検出されている。石室の壁は扁平な小石板をほぼ垂直に小口積みしている。床面には長さ5.2mの栂の巨木をくり抜いた木棺の底部が遺存していた。
 
 2009.10.23毎日新聞によると、奈良県立橿原考古学研究所が後円部を発掘調査した結果が伝えられている。石室は板状の石を垂直に積み上げて、その上に大形の石を12枚並べて乗せて天井にしていた。石室の大きさは全長6.75m、幅1.27m、高さ1.71m、木棺の底部分が残っていた。内面全体や天井石の外側にも水銀朱が塗られていた。発掘した銅鏡片を整理した結果以前出土したものも合わせて三角縁神獣鏡26枚分ほか銅鏡が計81枚分確認できたとしている。(2009.10.29桜井茶臼山古墳の調査 現地見学会報告[ 2009-11-01 23:01 ]参照)

 次は同じころ造られた大型前方後円墳メスリ山古墳に向かう。国道165号を西へ戻り、「御幸田町」バス停のある信号を左(南)へ行く。途中寺川沿いに行くことになる。寺川は多武峰を通り桜井市から橿原市、田原本町を経て川西町で大和川に合流する。県道を南へ行きT字交差点を右(西)に行って右手に貯水池がある所の手前を右に入る正面の山がメスリ山古墳である。三段築成で人頭大の葺石が敷き詰められている。八坂神社の所を抜けて墳丘に上がる。
 墳頂の平らな部分の中心には一段下がった区画があり石室の屋根石の上部が露出している、屋根石は8枚、石室の大きさは全長約8.2m、幅1.3m、高さ1.6mで、割石を小口積みしており、木棺は残存していなかったが粘土床が造られていた。またすぐ東に平行して小型の副室竪穴式石室があった、竪穴式主石室の周囲には直径50cm~1mにおよぶ大型の円筒埴輪が方形に二重に巡っていたことが知られている。この円筒埴輪の大きな2本は高さ2.4m、径1.3mの巨大なもので、これを復元したものは県立橿原考古学研究所付属博物館で見られる。石室のすぐそばの別の小道を墳丘を取り巻くように北側に降りる。古墳の北側は前方部から後円部にかけて公園となっており整備されている。

北へ抜けて、広い県道を渡って大和桜井園に突当たった所を左へ行くとすぐ右に谷首古墳が開口している。玄室の高さは4mありすごく高い感じがする、長さ約6m、幅2.7m、羨道長7.8m、高さ1.7m墳丘は東西約35m、南北約38m、高さ約8mの方墳。入り口の天井石は片側が落ち込んで斜めになっていて少し入りづらい。凝灰岩の破片と若干の須恵器片が残っていた程度で副葬品等一切不明であるが、石室の構造から桜井市の天王山古墳、明日香村の石舞台古墳等よりやや古く6世紀末から7世紀初頭のもので横穴式石室の最終段階に近いが付近の文殊院西古墳、艸墓古墳に先行するものとされている。

 大和桜井園の前を東へ行き突き当りを左へ行くと県立奈良情報商高のグランドの北西に出る。ここの左手に「艸墓古墳」がある。民家の裏の塀沿いに身体を斜めにして通るような細い路地を入った先すぐに横穴式石室が開口している。方形の墳丘規模は東西22m、南北28mの横長で墳頂部は平坦な高さ約7mの載頭方錐形。この古墳には家型石棺が残っている、人の背丈ほどの高さの石棺に比べて羨道の天井が低く石室築造前に置かれたものと思われている。ここの石棺は昨年11月に訪問した兵庫県高砂市産の凝灰岩を使用していると言うことである。付近の古墳の築造時期は谷首古墳が古く6世紀末から7世紀初頭、次いで来月行く予定の文殊院東古墳、艸墓古墳と文殊院西古墳が7世紀第3四半期頃で横穴式石室式の最終段階となる。ということで今日は古墳時代前期の大型前方後円墳から後期の横穴式石室の最終段階まで巡ったことになる。
by yumeoijyuku | 2012-10-19 20:46 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-1

朝日カルチャーセンター・現地講座案内
古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-1   2012.4.19

 古墳めぐりシリーズは3巡目に入りました。2005年4月以来77回を数え、奈良県下の大部分の古墳、大阪府の主要古墳他京都府、兵庫県の375基・群の古墳・古墳群を巡りました。現地講座に参加していただいた方々はじめ、ブログを閲覧していただいた方々に感謝いたします。

 シリーズの初回は古墳時代の始まりを画する桜井市纏向地区からとなる。引き続きよろしくお願いいたします。

 三輪駅を起点に先ず大神神社(おおみわじんじゃ)に行く。大神神社は古墳にあまり関係が無いが、三輪山と共にこの地方の古代を語るとき避けて通れない。御神体は三輪山そのもので正面の建物は本殿ではなく拝殿ということになる、御祭神は大物主大神。三輪山は聖域で「千古斧鉞を入れぬ神山」とされている。特に拝殿の山側、三ツ鳥居奥の禁足地は絶対不可侵の霊域になっていて入ることは出来ない。しかし施設の更新工事等偶然発見されたり数少ない調査で見つかった遺物が宝物収蔵庫に陳列されていて神社の生い立ちを語ってくれている。三ツ鳥居は三輪鳥居とも言われ拝殿と神体山を区切る神明型の鳥居三つを一体に組合せた鳥居で、拝殿からこの鳥居を通してご神体であるお山を拝むことになる。見学するには拝殿に向かって左手の参集殿で見学を申し出るとに案内してもらえる。

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左:参道の鳥居。中:拝殿:。右:三ツ鳥居(明神型の鳥居三つを一つに組み合せている、撮影禁止でこれは模型)。

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すぐ北にある狭井神社。左:本殿。右:由緒書、主祭神・大神荒魂神(おおみわあらみたまのかみ)。左奥に御香水があって飲むと御利益がある。

 狭井神社の前を西へ山の辺の道を行く。古の小川「狭井川」を渡り坂を上った所を左(西)へ行く。「山の辺の道」はここまでで、ここからは山の辺の道に並行した一つ西の道を行く。突当たりを右へ、またすぐ左(西)へ行きJR桜井線の手前を右に折れる。ここの左手JRの線路との間に果樹園があって「狐塚古墳」がある。削平されてしまっているが一片約40mの方墳と予想されている、石室の規模は全長17.3m、玄室長6m、幅2.6m、高さ3.2m。羨道長11.3m、幅2.1mで大きく県下でも有数の規模を誇る。玄室には水がたまっていて立ち入り禁止になっている。古墳時代後期のものとされていて石室の造りは明日香村の石舞台古墳に似ているので6世紀末から7世紀初めのものと思われている。石室内には、玄室奥壁に並行して凝灰岩製組合式石棺が1基、中央と入り口に2基分の破片があり、さらに羨道部には鉄釘が出土したので木棺が置かれていたと考えられる。横穴式石室でも4基も葬るのは珍しい。奥に残る蓋石は奥壁上部から覗ける。2枚で構成されていて、長辺の縄掛け突起は片側に2個づつ計4箇所連なっている。
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狐塚古墳。左:石室上部。中:玄室奥。右:蓋石、2枚一組。

 集落の中を北に進むと、左手に小さな神社があって、この中に「弁天社古墳」が有る。墳丘は無く石室だけが残った感じで一見無造作に大木の根元に大きな石が置いてあるように見える。羨道部に凝灰岩を刳り抜いた家形石棺がある。石棺が覗けるところは石室奥壁の上で、玄室の石棺は無かった。
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弁天社古墳。左:社。中:石棺、玄室上部より。右:説明板。

今来た道をさらに北へ行くと集落のはずれの左手に「茅原大墓古墳」がある。前方部を北に向けた前方後円墳で全長86m、後円部径約72m、高さ8m。前方部は長さ10m、幅29m、高さ2mと小さく帆立貝式である。手前の池は周濠の名残といわれている。後で行く東田の4基の古墳よりは小ぶりで定型化しており時期的に下るものと見られている。
墳丘は果樹園のために改造されているが、元来は3段の帆立貝式前方後円墳である。2011年の調査では墳丘東部のくびれ部から「盾持人埴輪」が出土して話題になった、古墳の外縁部に置かれ辟邪の役を持つ。古墳時代中期(4世紀末ころ)のものとされ、奈良盆地東南部で3世紀代から続く大型古墳の系列の最後に位置づけられている。この地方でそれまでの200mを超える巨大前方後円墳は造られなくなって、奈良盆地北部の佐紀古墳群や河内地域に移り、当時の政権内における勢力変動を反映しているとされている。2012年の調査では前方部北東側で周濠を横断する形で渡り堤を検出している、水位調整や墳丘への立ち入り用とされた。
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茅原大墓古墳。左:墳丘。中:デレビドラマ(浅見シリーズ)撮影隊が来ていた。。右:説明板。

 箸墓へは道なりに行って突き当る所を右(北)へ行くと巻向川を渡って国津神社の前へでるのでそこを左(西)へJR桜井線の踏切を渡って行くと箸墓古墳の後円部に出る。そのまま行くと古墳の西手に拝所が有る。さらに北へ回りこむと周濠の名残の池が有る、今は潅漑用になっていて箸墓の美しい姿を映して景観を整えている。箸墓は全長280m、奈良県下第3の前方後円墳で後円部径157m、高さ25m。前方部幅140m高さ15mを測る。大型古墳の草分けとされている。墳丘がよく見える平坦部にあってその優美な姿を誇っている。後円部の径と高さが前方部よりも大きい古い形で、特に前方部がバチ型に開いていて前期古墳でも古い形を持っている。2008年8月27日の毎日新聞夕刊によると、桜井市が箸墓の前方部南角の西を調査したところ、周濠跡が見つかっている。前方部の外側に幅60~70メートルの周濠が造られていた可能性が高い。この周濠は墳丘の周りを包み込む形の内濠の外に前方部を底辺とする馬蹄形の内堤あってその外側を外濠が囲んでいたと思われている。
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左:箸墓古墳、北より。右:昼食後のひと時。

 箸墓から戻って先ほどの踏切を渡り巻向川沿いに行くと慶運寺がある、本堂のすぐ裏に慶運寺裏山古墳の両袖式石室が開口して残っている。墳丘は削平されて墓地になっている。上の墓地には天井石が露出している。寺の入り口付近には刳抜式石棺の身に仏像が彫られて残っている。
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慶運寺裏山古墳。左:開口部。中左:玄室。中右:刳抜式石棺(出土地不明)の身に仏が彫られている。右:説明板。

 慶運寺のすぐ西にホケノ山古墳がある。全長90m、後円部径60m、前方部幅40mで周濠をもつ前方後円墳。墳丘の一部に貼石が復元され廻りが公園になっている。2000年4月8日に行われた現地説明会によると、埋葬施設に特徴があり国内では前例の無い「石囲い木槨」(槨=かく、棺を入れる箱)ということである。木棺を安置した木の部屋の周囲に川原石を積み上げて石囲いを作り、その上部は木材の天井、さらにその上は最終的に積石で覆う構造をしていた。
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左:前方部東南角から。右:説明板。

 ホケノ山古墳から道なりに北へ行く、突当たりを右に行き新池の手前を左(北)へ行くと、突き当りの右手にある小高い山が珠城山で3基の古墳が知られている。1955年に今のJR桜井線巻向駅を造るに際して土を採取するときに、偶然石室の羨道部が開口して発掘調査が実施されたという。この古墳は1号墳で横穴式石室が後円部に築かれ南に開口している、凝灰岩の組合せ式箱形石棺が残っており、県立橿原考古学研究所付属博物館の庭に展示されている。墳丘には稲荷社がって鳥居が建てられている。すぐ西に接して2号墳がある、3基の内で一番大きく全長75mで西に面する前方後円墳である。更にこの西に3号墳があったが宅地化により消滅している。これら3基の古墳は纏向地区の北端に位置するが、この地区の他の古墳と比べて築造時期が明らかに新しく6世紀後半と考えられている。
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左:石室開口部。中:玄室。右:説明板。

 次はいよいよ纏向地区へ向かう、先ず珠城山古墳の前の道を戻る形で西へ行くそのまま西へ国道169号とJR桜井線を越える。このあたりの南、JR巻向駅の西側で3世紀中頃かそれ以前と考えられる大型建物跡とそれに位置や軸線をそろえた建物が東西に計4棟の跡が出土した。桜井教育委員会の現地説明会資料(2009.11.14、15)では「このように複雑かつ整然とした規格に基づいて構築された建物群の確認は国内でも最古の事例となるもので、これまでに判明している弥生時代の大型建物などとは完全に一線を画する構造を持つものである。・・・我が国の国家の形成過程を探るうえできわめて重要な意義を持つものといえる。」としている。

 さらに西へ、纏向団地を過ぎて行くと県道を渡った先に纏向小学校があってこの付近に4基の古墳がある。いずれも帆立貝形の前方後円墳で古墳発生期のものとされている。
まず小学校手前に石塚古墳がある。円墳のようであるが前方後円墳であることが分かっている。全長93m、後円部径62m、前方部幅45m。実際それまでは円墳でないかと思われていたが、1971年に小学校の新築事前調査によって90mを超える帆立貝式の前方後円墳であることが判明した。1989年にも調査が行われ、前方部が三味線のバチ形に開いた全長約90mを越える前方後円墳と分かった。くびれ部の周濠から纏向3型と呼ばれる土器が出土し3世紀後半とされるが、1971年の調査では3世紀はじめを示す纏向1型の土器が出土。さらに周濠から見つかった檜の板は年輪年代測定法で西暦175年前後と判定されて3世紀前半の築造ではないかとの見方もある。
 小学校の右手(北)には勝山古墳がある。古墳の東側を除いて勝山池と呼ばれ灌漑用の池に囲まれていて周濠の名残と思われている。全長100m、後円部径60m、前方部は幅20mと極端に狭い。
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左:石塚古墳。中:石塚古墳説明板。右:勝山古墳(東北より)・・周濠部は大きく改変されている。
説明板には「(墳丘墓)」と添え書きされていて、古墳時代初頭の古墳とするか弥生時代末の墳丘墓とするか議論が分かれていることが書かれている。

 小学校の西へ回り込むと矢塚古墳がある、矢塚古墳も一見円墳のように見えるが、古墳の南側が前方部で、くびれ状の曲線も観察できる。全長96m、後円部径64m、前方部幅40m。

 矢塚古墳から南に「東田(ひがいだ)大塚古墳」が見える。この古墳は矢塚、石塚、勝山古墳と同じ時期に築かれた古墳と思われている、全長96m、後円部径64m、前方部幅30m。
今まで見てきた4基の古墳はホケノ山古墳も含めていずれも90m~100mの帆立貝式の前方後円墳で前方部の縦軸長さが後円部の半径にほぼ合致し、前方部が極端に短く後円部がやや縦長の卵型をしている、前方後円墳が定型化する前の段階のもので、石塚古墳と同時期に短期的に同じ企画性の下に築造されたものと思われている。このことはこれらの古墳は数世代に渡り大規模な墳墓を造り続けられる権力が纏向地域に有った事が明らかであるとされている。(2008年6月の桜井市教育委員会と県立橿原考古学研究所の発表によると、東田大塚古墳は全長120mとされた、これはいままで纏向型古墳が後円部と前方部の比率が2対1と合わないので別の型式があったのではないかとされた。2008年3月6日、毎日新聞)
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東田大塚古墳。左:墳丘。中:墳頂の三等三角点、標高72.98m。右:説明板。

 ここの東の山麓から西へかけて約1km、南北500mに広がる区域は纏向遺跡といわれている。この遺跡には石塚古墳などの古墳と南の箸墓古墳、ホケノ山古墳とその周囲の古墳が含まれる、現在の地名ではJR巻向駅を中心とした辻、太田、巻野内地区が中心地と考えられる東田、大豆越、草川、穴師、箸中と言った範囲が含まれる。

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 桜井市は纏向遺跡を売り出している。左:巻向駅にある看板。右:拡大・・発掘調査によって駅のホームのすぐ北西から出土した柱跡から復元した中枢施設。
by yumeoijyuku | 2012-04-19 23:32 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-43

朝日カルチャーセンター 現地講座 H23.12.15

八尾市の古墳①

 八尾市の東部、高安山のふもと一帯に高安古墳群が広がっているが今日はその北側に広がる楽音寺(がくおんじ)・大竹古墳群をめぐる。

 近鉄信貴線服部川駅から北へ30分ほどで心合寺山(しおんじやま)古墳につく。八尾市教育委員会発行の「国指定史蹟心合寺山古墳2005」によると古墳は南に開く前方後円墳で全長160m、後円部径約92m、高さ約13m、前方部幅約90m、高さ約12mで古墳時代中期(5世紀前半)築造とされている。同じような規模をもつ中期の古墳には藤井寺市の仲津姫陵の南西にある古室山古墳(周濠無し)、前期では京都府の椿井大塚山古墳があって全国で60番ほどの大きさになる。

この古墳は1993年本格的な発掘調査を開始している。
 1997年8月:墳丘長さ160m以上で大王陵に次ぐ規模の墓と分かった。23個の円筒埴輪列が出土。
 1998年9月:前方部で底面が縦7m、横6mの台形状の方形壇を検出した、方形壇が前方部で確認されたのは全国初。遺構に接して約30mにわたる円筒埴輪列がほぼ完全な形で出土。

 2005年5月:八尾市は「心合寺山古墳」の整備事業を完成し、古墳時代中期(5世紀初頭)の前方後円墳の外観を復元した。「しおんじやま古墳学習館」も新たに新設した。
 まず学習館で勉強してから古墳を見学する。
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中央に心合寺山古墳、遠景は生駒山地(主峰の生駒山や信貴山を経て大和川に至る山系)高安山付近。

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左:*心合寺山古墳資料館の館長さんに案内していただいた。中:*後円部下段の埴輪列。右:*前方部の埴輪列、後円部より、前方先端に方形壇。

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心合寺山古墳。左手ー後円部、右手ー前方部。

 1999年8月:「三つ木棺 並ぶ埋葬施設跡」を発掘。後円部の頂上で木棺の周囲を粘土で固めた粘土槨が3か所見つかった。南北11m、東西8mの範囲に南北方向に50㎝の間隔で整然と並んでいた。

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*後円部墳頂。発掘された3つの粘土槨の位置が明示されている、それぞれに木棺が埋葬されていた。

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前方部で検出された底面7m×6mの台形状の方形壇。方形壇が前方部で確認されたのは全国初。

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左:後円部墳丘。右:周濠、南東部から後円部を見る。

 高安山山麓の古墳めぐりには「しおんじやま&高安古墳群散策マップ」がわかり易いので「古墳学習館」で手に入れて散策してほしい。
 心合寺山古墳の北東、大阪経済法科大学構内に高句麗の第19代「好太王碑」のレプリカがあるので見ていこう。414年に息子の長寿王が好太王(=公開土王:在位391~412年)の功績を称えて建立したものである。約1800字からなる碑文は純粋漢文で記されており、4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史だけではなく倭が登場することから古代日朝関係史を知る上での貴重な史料となっている。
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高句麗好太王碑レプリカ

 愛宕塚古墳は心合寺山古墳の東南東に位置して、神立(こうだち)の墓地の西になる。愛宕塚古墳について「八尾市文化財情報」によると「古墳時代後期(6世紀後半)に造られた円墳で、墳丘の大きさは直径約22.5m、高さは約9m。埋葬施設は、石材を積み上げた両袖式(左袖が極端に短いので片袖式とも見える)の横穴式石室で全長15.7m、玄室長7m、玄室幅3.1m、羨道長8.7m、羨道幅2.1m。石室内部の広さは畳約11畳分もの大きさがあり、奈良県の明日香村にある石舞台古墳石室(全長19.15m、玄室長7.7m、幅3.5m、羨道長11.6m、幅2.2m)に匹敵する。大阪府下では最大級の横穴式石室で、有力な人物のお墓であったと考えられる。昭和41(1966)・42年の発掘調査では、凝灰岩(二上山の白色凝灰岩)と竜山石製の2種類の石材の組合式の家形石棺の破片や、ねじり環頭大刀、龍の模様が施された飾り金具をもつ大刀、鉄地金銅張りの馬具、ガラス玉の首飾り、須恵器など古墳の規模にふさわしい出土品が見つかっている。」

1996年3月の毎日新聞には愛宕塚古墳を物部氏の墓とする記事がある。「愛宕山古墳は飛鳥の石舞台古墳に匹敵する巨大な石室をもつ。安井良三さん(八尾市立歴史民俗資料館長)は『朝鮮半島の百済に渡り、新羅を攻めた物部氏の一族』と結論した。信貴・生駒山地の西側が物部氏の拠点であること、朝鮮系の舶来の馬具一式を持つことに着目したもので、朝鮮派遣の軍事氏族・物部氏なら、舶来品を入手しやすいと考えられる。」
物部氏は河内国の氏族で元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長し、雄略朝には最高執政官を輩出するようになっていた。物部守屋の時587年、用明天皇崩御後の次期天皇選定に際して蘇我馬子らの連合軍に破れて、守屋は河内国渋川郡(現・東大阪市衣摺)の本拠地で戦死している。次期天皇には蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、以降物部氏は没落する。そして蘇我氏は権勢をふるい、592年10月崇峻天皇を暗殺してしまう。

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愛宕塚古墳①。左:開口部。右:解説碑。

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愛宕塚古墳②。左:石室奥壁。右:床、石が敷きつめられている。

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愛宕塚古墳③。玄室から。左:玄門部見上げ石。右:羨道。

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愛宕塚古墳④。羨門部から、羨道部左右。

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愛宕塚古墳⑤。左:西方大阪市方面遠景。右:同左、中央右手に梅田のハービスOOSAKA。


<写真はクリックすると拡大します>、お断り:朱雀のカメラが入院中のため、掲載の写真は*印以外のものは事前調査時点のものを使用しました。
by yumeoijyuku | 2011-12-24 23:03 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-42 

 朝日カルチャーセンター 現地講座  H23.11.17

竜山石採石場見学


 今日は石棺に使われている凝灰岩を切り出した兵庫県高砂市の石切り場を見学する。
 高砂市は世阿弥が伝承に取材して作った、能『高砂』が有名。高砂の浦で尉と姥が、「相生(相老い)の松」の伝説を語り、「われわれこそ、その松の精である」と明かし、姿を消すという筋である。「高砂やこの浦舟に帆を上げて……」という一節がよく知られる。高砂町の高砂神社には根が一つで雌雄の幹が左右に分かれた霊松・相生の松があるという。JR高砂駅前には「尉と姥発祥の地」の像がある。
 
 高砂駅からすぐ南の国道2号線に出て姫路方面一つ目「島」の信号を左(西)へ向かう。どんどん行くとって前方の山に大石(おおしこ)神社が見えてくる。

生石神社へは今来た道をさらに南へ行くと、参道の階段がある。石乃宝殿が有名。「フリー百科事典ウィキペディア」によると、幅6.4m、高さ5.7m、奥行き7.2m。重さは推定500トンを越える。竜山石として知られる凝灰岩の岩山の中腹を削って作られており、三方を加工前の岩盤に囲まれている。誰がいつ何の目的で作ったものであるのかは、学術的に判然としていない。・・・下部の岩盤は大きくくぼんでおり、池になっている。社伝によれば、この池は旱魃の際にも枯れず、水位は海の潮位と連動するとされる。「浮石」と呼ばれるゆえんは、わずかにつながった底部中央の支柱状の部分が巨石自体の死角になり、巨石が池の上空に浮かんでいるように見えるためである。


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左・中:前方の山に大石神社。右:神社の南にある「竜山」竜山石の名のもとになった。

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石神社とその由来。

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正殿の両側から岩肌に階段が彫り込まれていて上に登れる。左:高砂市街。中:大正天皇が行幸している。右:沿岸部の工業地帯遠望。

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宝殿石側面(写真を合成)。左が底部

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竜山石を切り出し、加工している松下石材作業場。左:社長さんに説明していただいた。中:石切り場、昭和31(1956)年頃には現状道路面である上の木が茂っているあたりで石を掘り出していた。右:同、中の写真の右手。

 竜山石ができたのは、今から約7000万年前の白亜紀後期。このころ、西日本の各地でカルデラをつくるような大規模な火山活動が起こった(鹿児島県の桜島は姶良カルデラによってできた、その噴煙の堆積は日本国内の広範囲に堆積し、地層年代の基準層にされている)。火山は溶岩を流したり、火砕流を発生させて溶結凝灰岩などの火砕岩をつくりました。竜山石は、カルデラができた後、そこに水がたまってできた湖の底に溶岩が噴出してできたと考えられます。竜山石は大きく分けて青色、黄色、赤色のものがある。石棺には黄竜石と青竜石が使われている。・・この項は橋本正彦「兵庫の山々 山頂の岩石」ホームページ 1998年8月11日開設  更新日:2011/8/23より抜粋、加筆。

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左:黄竜石と青竜石の混在。中:凝灰岩を割り取る(石割)ためには、石の割る方向を定めてドリルで穴をあけて中に火薬(火薬の大きさは例として直径数ミリ程度のもので、量を加減して使う)を入れて爆発させる。右:松下社長の説明)。

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左:石切り場。中:土産品の加工途中。右:工場内の切断機。

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左:竜山石製土産品陳列室。中:石の宝殿ミニチュア。右:展示品

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左:刳抜式家型石棺。中:手前、組立式石棺。右:同左。

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左:展示品。中:JR[高砂駅」前の「尉と姥」の像。右:マンホール。
by yumeoijyuku | 2011-11-18 17:20 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-40

朝日カルチャーセンター現地講座 

摂津の古墳③神戸市海沿いの古墳  2011.9.15

今日の出発点は阪神電車「石屋川駅」となる。先ず「処女塚古墳(おとめづかこふん)」に向う。駅から南へ最初の道を西(右)へ、ほどなく後方部が削られて石積になっている処女塚古墳がある。説明板によると、昭和54(1979)年から6年間にわたって墳丘の整備工事が行われている。その調査によって南向きの前方後方墳であることが分かった。北側が道路工事によって削り取られているが全長70mに復原され、後方部の幅39m、高さ17m、前方部の幅32m、高さ14mあって、後方部三段、前方部2段に築成されていた。墳丘には葺石があったが円筒埴輪は確認されていない。出土した坩型土器などから4世紀(古墳時代前期)の築造とされた。
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左:処女塚関係の碑、右:解説

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処女塚説明版、左:入口と説明板、右:説明板

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左:説明板でお勉強、右:処女塚後方部墳頂

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処女塚全景、左:後方部西から、右:西側面、後方部西北から

 この古墳の東側には石碑が残っていて、処女塚伝説が残ることがわかる。一人は今の大阪府南部の男で、もう一人の男・摂津芦屋に住む男と二人は、このあたりに住む深窓の令嬢、菟原処女(うなひおとめ)を恋する恋敵の関係にあった。いろいろいきさつがあり大阪の男と芦屋の男が争って、それを苦にして処女が死んでしまう。それを見た大阪の男は処女を追って死んでしまう。芦屋の男も二人の死を知ると遅れじと剣を胸に刺して、これも自殺してしまう、という悲恋物語である。処女の親はここに塚を作り、芦屋の男の親もそのそばに塚を作る、大阪の男はこの地の人ではないが親が遠く泉の国から土を運び、やはりこの地に塚を作った。
このことは万葉集にも歌われている、これが歌碑に残されたものである。
  「古の 信太壮士(しのだおとこ)の 妻問ひし 莵原処女の 奥つ城ぞこれ」 田辺福麻呂巻9の1802

古墳がこのような経緯で作られたとは信じ難いので、作り話と思われるが、物語は万葉集の時代にはあったことになる。

話は横道にそれたが、次に行く西求女塚古墳もこの物語につながる古墳である。

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左:西求女塚古墳公園入口、中:説明標識、左:説明板

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復元墳丘は前方後円墳形に造られている、左:後円部を見る、中・右:後円形に復元された墳丘、発掘調査によって方形と分かっている。

西求女塚古墳は全長95mの前方後方墳。処女塚古墳・東求女塚古墳とともに、悲恋伝説の主人 公の墓として知られている。 説明板によると築造当時は斜面全体が葺石で覆われていたという。現在、古墳の形は前方後円形に整備されているが、発掘調査の結果、前方後方形であることが確認されている。竪穴式石室があって平成5年度の発掘調査では、三角縁神獣鏡をはじめ、多くの青銅鏡が出土している。古墳時代前期の4世紀初めころの古墳とされた。

ここにも万葉集が残る。
「語りつぐからにも 幾許恋しきを 直目に見けむ 古壮士」 田辺福麻呂巻9の1803

 東求女塚古墳は明治時代に阪神電車敷設の土取りで取り壊され、現在は碑が残っているのみ。

次は県下で最大の古墳「五色塚古墳へ向かう。阪神電車に「西灘駅」から乗って、途中山陽電車に乗り換えて、明石大橋のすぐ手前の「霞ヶ丘駅」まで行く。「霞ヶ丘駅」改札口から右手の通路を線路沿いにバックして行くと五色塚古墳の前方部に至る。墳丘は前方部を南西に向けた三段築成の前方後円墳で、全長194メートル、高さは前方部で11.5メートル、後円部で18メートルである。墳丘は葺石で覆われている。築造時期は4世紀末~5世紀初頭。

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五色塚古墳へ、前方部南西から。

「五色塚古墳」の呼称は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島西南部の五色浜付近から石を運んで葺かれたことに由来するという説もあったが、時間帯で変わる太陽の光によって葺かれた石が異なる色で反射することに由来するという説も出てきている、この説では築造当時から名前がついていたことになり、不自然である。古墳の表面に使われている石は明石海峡内のものとされている。
 瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族の墓と考えられている。
当時より空堀であったと考えられている堀のなかには、前方部と後円部が接するあたりの東側に1辺20メートル、高さ5メートルの方形、および後円部の東側にも高さ1.5メートルのマウンドがある。当時は石が葺かれていた。
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左:周濠のマウント、中:前方部 、右:明石大橋

1965年(昭和40年)から1975年(昭和50年)の整備事業により、造られた当時の様子に復元されている。表面にはコブシくらいの大きさの石(葺石、ふきいし)が約223万個敷き詰められているが、前方部のものは発掘された葺石を利用し、後円部のものは新たに入れたものである。当初2,200個ほど並べられていたと思われる高さ1メートルほどの筒型の円筒埴輪がレプリカで再現されている。築造時期は古墳時代中期とされている。

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円筒埴輪、左:朝顔形鰭付円筒埴輪、中:鰭付円筒埴輪、右:墳頂の説明版

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墳丘斜面の復元。左:復元に伴い新しい石を使用した、右:元からあった石を使用。
右の前方部の斜面は元の面を修理復元している。左の後方部側は旧斜面を保護して約50㎝嵩上げされている。間に階段を設置して高さの差を調整している。

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解説板、左:後円部、中:説明板、右:墳丘平面図

また、すぐ隣には「小壺(こつぼ)古墳」(国の史跡)がある。小壺古墳は直径67メートル、高さ約9メートルの円墳。墳丘は二段に築かれ、墳頂部と墳丘斜面のテラス面には、埴輪が並べられていて、多くのヒレ付円形埴輪と家形埴輪が数体分発見された。隣接する五色塚古墳と異なり、斜面には石は葺かれていなかった。また、濠の中には、土橋が設けられている。 なお、五色塚古墳は別名「千壺古墳」とも言われている。築造時期は、埴輪の形などから、五色塚古墳とほぼ同じか少し古い5世紀初め頃と推定されている。
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小壺古墳、左:墳丘、中:説明版、右:五色塚古墳墳丘から
by yumeoijyuku | 2011-09-17 20:54 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-38

朝日カルチャーセンター現地講座 

長岡京と付近の古墳 2011.7.21

この古墳めぐりでは初めて京都府に入る。今日は阪急「西向日駅」に集合・出発となる。向日市の西方には西山連峰の山地を望み、東方京都市域には桂川が流れ、やがて大阪府に入って宇治川、木津川と合流し淀川となる。向日市には山間部がなく、面積では全国で5番目以内の狭い市となっている。

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向日市案内板:「1古墳めぐりコース」が今日のコースをほぼカバーしている

 駅から北へすぐのところに長岡宮大極殿跡がある。長岡京は桓武天皇が平城宮から都を遷そうとして水陸交通の便の良い場所を選んで遷都し784年から794年まで都であった。説明板によると長岡京の最初の発掘調査は1954年(昭和29年)に始まり、遺跡が確認された。大極殿は1959年以後宅地開発を契機に調査確認されたという。長岡京の規模は東西4.3km、南北5.3kmにおよぶ。
 遷都に反対する勢力が増大する中で、水運の便が逆に洪水を招き平安京への遷都を余儀なくされた。

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長岡京朝堂院跡。左:朝堂跡公園案内所の方が説明してくださった。右:最初に長岡京跡が発掘され、「幻の」都ではなくなった地点。 

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大極殿跡。左:全景。中:2011年3月天皇陛下が行幸された記念碑(左手前)、右:説明版

 ここから西へ向かい、向日神社の北へ出ると元稲荷古墳(墳丘全長約92m、後方部北辺幅約51m、同南辺幅約49m、同高さ約7m、前方部長約41m、前端幅約46m、同高さ約3m、くびれ部幅約23m。)に出る。古墳時代前期の前方後方墳で、数次に渡って調査・研究されている。2009年の後方部後端部の調査では墳丘裾が確認されて全長92mとされた。
 後方部墳頂には配水場が作られている。この時竪穴式石室が解体されている。鉄製武器(銅鏃・刀・剣・鏃・槍・矛・石突)や鉄製工具(斧・錐)、土師器の壷が出土している。前方部の墳丘中央には円筒埴輪と壷型埴輪のセットで埴輪が樹立していた、弥生時代の墓に供えた土器を模して作られた古い形の埴輪であることが分かっている。 このように元稲荷古墳は、墳形(古墳の形)や葺石の状態、出土した埴輪や土器などから、近畿地方における他の前期古墳の中でも、極めて特異な古い様相を示す重要な古墳であると考えられている。箸墓古墳やそれに続く神戸市の西求女塚と近似した規模を有し、大型古墳出現期の前方後方墳の性格を反映したこの地方では最も古い古墳とされている。向日市の古墳では五塚原古墳、寺戸大塚古墳が後に続く前期の古墳とされている。
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左:元稲荷古墳前方部にある説明版でお勉強、中:前方部東南部より、奥が後方部。右:説明版。

 ここから北東の向日町競輪場の東を通り、北へ行くと向日市文化資料館があるので勉強してから、五日原古墳に向かう。資料館のすぐ南の道を西に向かいしばらく行くと右手に芝山があって住宅地を北に入ったところに児童公園があって古墳への上り口がある。全長94m、後円部径54m、同高さ8.5m、前方部幅36m、同高さ4m、くびれ部の幅18mの南に開く前方後円墳。帝塚山大学の調査では後円部に東西15m、南北11mの墓穴、前方部にも東西5m、南北7mの墓穴があることがわかっている。典型的な古墳時代前期の形をした古墳であるが山の上に築造されているので墳丘の全容は掴みにくい。
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左:五塚原古墳へ、西の児童公園から上る、中:後円部墳頂、右:公園入口にある説明版。

 五塚原古墳の北に出て第6向陽小学校の東にある桓武天皇皇后陵に寄ってから第6向陽小学校の前を西に行き、「竹の道」を通って寺戸大塚古墳に向かう。皇后は第51代平城天皇、第52代嵯峨天皇の母。御陵は直径約65m、高さ約7mの円形で5世紀前半頃に築造された円墳と推測されている。

 寺戸大塚古墳は京都市が開発した「洛西ニュータウン」の南東部に接した竹林の中にあって、近くには京都市の「竹林公園」がある。墳丘全長98m、後円部径57m、同高さ9.8m、前方部幅47m、南南東に開く前期中葉の前方後円墳である。前方部は大半が失われているが説明板によると前方部は第2次大戦前に調査されている。長さ5.2m、高さ1.3m、幅0.9~1.0mの竪穴式石室が検出されていて、和製の銅鏡、銅鏃、琴柱型石製品などが出土している。後円部は1967年・1968年に調査されている。墳丘は三段築成で、墳頂には一片約8mの埴輪を巡らした方形の区画があって埋葬儀式を行ったとされる。この下に長さ6.5m、高さ1.6m、幅0.85m~0.75mの竪穴式石室があって中国製の三角縁神獣鏡、合子、勾玉、石釧、勾玉などが出土している。三角縁神獣鏡は京都府の椿井大塚山古墳出土のものと同氾関係にあり密接な関係にあったものとされた。ここの説明板は大分以前に設置されているが、立体図が描かれていてわかりやすい。
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寺戸大塚古墳、左:竹の道入口、中:左手に前方部の竹林、右:後円部北東より。

 ここから少し先へ行き、2つ目の三叉路で左に「こどもの広場」があるところを右手に入ってゆく。しばらく行くと配水場があってタンクが3つあるところの南にある小さいほうの2つのタンクの間を通る道を下る。やがて人家が現れる先の街道の一つ手前を右手(南)へ入ると「淳和天皇火葬墓」がある。第53代淳和天皇は桓武天皇の皇子で2代続いた異母兄弟の後を受けて823年~833年の間在位し、上皇となって840年に54歳で崩御している。遺言によって山城国乙訓郡物集女村において火葬され、骨は砕かれ小塩山にまかれたと言われている。御陵は西へ約6kmの小塩山(標高642m)山頂にある。

 物集女車塚古墳(全長45m、後円部径約31m、同高さ約8m、前方部幅約38m、同高さ8m、北北東に開く6世紀中葉の前方後円墳)については、現地の説明板によると。地元では「淳和天皇の霊柩車を埋めた塚」と言い伝えられてきた。
 1983年から本格的な調査が実施されている。墳丘は高台の地層の上に何枚もの土層を積み上げて30度を超える急勾配の墳丘を崩壊から守っている。
 横穴式石室の床面下部には入念に作られた排水溝があって墳丘外へと抜け出ている。改修に際してこの排水溝が再現されていて、今でも長雨の時には水が少しずつ流れ出るという。道路工事によって切断された墳丘の擁壁部に復原されている。
古墳の整備は1992年から3年を費やして行われている。石室も部分的に崩壊していたので解体・復原された、これによって築造方法も明らかになった。前方部にある説明板の台は石室に残っていた二上山の凝灰岩で作られた組合式家形石棺のレプリカで、石室内には3~4回の埋葬跡が認められた。なお、石室は毎年5月に一般公開されている。
石室からは多数の副葬品が出土している。金銅製冠や三輪玉は出土した埴輪の特徴と合わせて、埋葬された乙訓地方の王が淀川沿岸~大阪湾岸、特に紀伊周辺と関係が深いことを示している。また、滋賀県や福井県の古墳とも強い共通性がみられるという。被葬者は北陸から出てきた継体天皇を擁立した勢力と従属関係をもった支配者と思われている。

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左:物集女車塚古墳、南東から、手前が前方部、中石室開口部へ、扉があって中は見えない、右:後円部墳頂から北方の眺め、京都市方向。

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左:物集女古墳後円部、中・右:説明版

帰りは、阪急京都線「東向日駅」解散予定、JR「向日町駅」も西約600mにある。
by yumeoijyuku | 2011-07-22 11:10 | 古墳めぐり案内

大和の古墳をめぐる・・その2-34

大阪府古市古墳群① 2011.3.17

今回から羽曳野市、藤井寺市に分布する古市古墳群をめぐる。少し長くなるが付き合ってほしい。

「百舌鳥・古市古墳群」として堺市の百舌鳥古墳群と共に世界遺産への登録を進めている古墳群である。日本からはユネスコへ年2件しか推薦できないので、今後地域を挙げての条件整備を行って登録のための活動が続く。

古市古墳群は概略4km四方の範囲に大王級の前方後円墳が多く築造されている。今日は近鉄南大阪線土師ノ里駅のすぐ北にある「允恭天皇陵(市野山古墳)」から始める。
古市古墳群には天皇・皇后陵とされる古墳が10箇所、その他多数の古墳が築かれたが消滅した古墳も多い。
允恭天皇陵(市野山古墳)は「土師ノ里駅」のすぐ北にあって北面する三段築成の前方後円墳である。2重の濠と堤を持つが現状は外濠が埋められていて住宅地になっている。説明板によると、墳丘全長220m。数か所に陪塚が有ったが現存するものは今日訪れる「宮の南塚古墳」と「衣縫(いぬい)古墳」だけである。
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左:宮の南塚古墳、国府八幡神社の南にある。中:衣縫塚古墳。右:同左説明板

允恭天皇は仁徳天皇の子で先代の反正天皇の弟に当たる。倭王済であることが定説になっていて、「宋書」では462年に死去したとされている。この古墳の築造年代は陪塚の副葬品や円筒埴輪の年代から5世紀後半とされていて矛盾しない。
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左:允恭天皇陵後円部。中:同左説明板。右:前方部の拝所

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左:拝所への通路。中:前方部北西より前方部を見る。右:前方部北西から周濠を見る。

陪塚で消滅している長持山古墳出土の石棺がすぐ西にある道明寺小学校の前に展示されている。長持山古墳は径40mの円墳で明治年間には墳頂に2号棺が露出していたという。戦後竪穴式石槨に有った1号棺が調査されている。完備した挂甲や馬具の優品が出土している。1,2号棺共阿蘇溶結凝灰岩製刳抜式家型石棺。1号棺は蓋と棺身の短辺側に大きな縄掛け突起を持つ、5世紀後半。2号棺は船形の身とやや扁平化した蓋を持つ、6世紀前半に追葬されたとされている。
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左:説明板でお勉強(保護版は汚れていて撮影不能)。右:左が1号棺、右が2号棺。

允恭天皇陵の西を通る国道170号と近鉄との交点の南西仲姫陵との間に鍋塚古墳がある。一辺45m、高さ7mの方墳で埴輪の年代から古市古墳群の中では初期の5世紀初めころの築造とされていて、位置的に仲姫陵と関係が有ると考えられている。
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左・中:鍋塚墳丘。右:説明板。

次に仲姫皇后陵に行く前に修羅を出した古墳として有名な三ツ塚古墳をめぐる。東から八島塚古墳(一辺50mの方墳)、中山塚古墳(同左)、助太山古墳(一辺36mの方墳)が並んで作られているので「三ツ塚」と呼ばれている。南辺が揃っており、堀も共有されている。1978年に八島塚古墳と中山塚古墳との間の濠の底から修羅が発掘された。修羅は生駒市にある元興寺文化財研究所保存科学センターで保存処理を行った後、府立近つ飛鳥博物館に展示されている。築造時期は修羅と一緒に出土した埴輪から5世紀代とする説と、修羅を必要とするような大型石が使われた時期並びに助太山古墳頂に有る凝灰岩を横口式石槨とみて7世紀のものとする説が有って決着していない。
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左:助太山古墳墳頂、右向うの林は中山塚古墳。右:墳頂の凝灰岩


仲姫皇后陵(仲ツ山古墳、岡ミサンザイ古墳)は全長290m、前方部幅193mで南西方向に開く前方後円墳である。古市古墳群では応神天皇陵に次ぐ規模を持つ、全国では9番目。くびれ部両側には方壇状の造り出しを持ち、狭い盾型の周濠と基底部幅45~50m、上面幅25mの広い外堤を持ち全長は410m前後となる。石棺が存在することや勾玉が出土したことが伝えられている。円筒埴輪から来月訪問する津堂城山古墳に次ぐ4世紀後半のものとされていて5世紀初頭前後とされる応神天皇陵より古い。
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仲姫陵古墳拝所

古室山古墳は長さ150mの前方後円墳で前方部を北東に向けて仲姫陵に向かい合わせて築かれている。仲姫陵より古いもので古市では初期のものとされている。
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左:古室山古墳後円部。中:説明板。右:赤面山古墳

ここの西名阪自動車道下には赤面山古墳が残されている。一辺15mほどの古墳であるが詳細は不明。自動車道建設に際しては橋脚の間隔を長くして保存されたという。

大鳥塚古墳は、墳丘長110m、前方部幅50m、高さ6.1m、後円部径72.6m、高さ12.3mの南面する前方後円墳で、くびれ部の両側に造り出しがある。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になっている。墳丘斜面には葺石があって平坦面には円筒埴輪が検出されている、他に家、衣蓋などの象形埴輪、二面の銅鏡や、鉄製の剣・刀・矛・鏃が出土されたと伝えられていて、5世紀前半のものとされている。
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左:大鳥塚古墳。右:説明板

応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は墳丘全長425m、前方部幅300m、高さ36m、後円部径250m、高さ35m三段築成の前方後円墳で、周濠を含めた全長は650mを越える規模を持つ。古市古墳群の売りは、広さでは仁徳天皇陵に負けるが墳丘体積は約140万㎥にのぼり仁徳稜を凌駕するとしている。墳丘は三段築成でくびれ部両側には造り出しが認められる、斜面には葺石があり、平坦部には数万本に及ぶ円筒埴輪が立て並べられていたといわれる。内部構造は調査されていないが以前に竪穴式石室及び長持形石棺の一部が露出していたとも伝えられている。外周には二重の周濠が有って内濠幅は約60m、内堤上部幅35m。東側には先行して「二ツ塚古墳」が築成されていたので濠、堤とも変形させている。墳丘前方部西側が大きく崩れていて地震による崩壊説が有力である。2011年2月には宮内庁の許可を得た研究者による外堤上の観察が行われて円筒埴輪列が確認されている。
出土遺物としては円筒埴輪、象形埴輪(1889年の浚渫時に出土した水鳥8体、衣蓋、盾、靫、家、短甲馬型など)はじめ衣蓋形木製品、クジラ・タコなどの土製品があった。円筒埴輪には口径50㎝、高さ1m、を越える大形のものが使用されていた。築造時期は5世紀前葉と言われていて古墳時代中期の代表的な古墳に間違いない。
前方部中央部すぐ北にある誉田丸山古墳他応神陵古墳と密接な関係が有る古墳は他に周辺に存在する東山古墳、栗塚古墳他消滅した古墳も含めて陪塚とされる古墳が多い。
なお、応神天皇陵に接して北西部に宮内庁古市陵墓監区事務所が有る。全国を五つの監区に分けて陵墓を管理している。東京の「多摩」の他「桃山」「月輪」、「畝傍」、「古市」が関西にある。古市監区は淡路島の淳仁天皇陵、香川県坂出の崇徳天皇陵も管理している。
この御陵の前方部正面、参道の東に誉田丸山古墳がある。測量図から径50mの円墳とされている。北側に墳丘に沿って窪地があるので10mほどの周濠が巡っている可能性がある。かつて京大の浜田耕作が墳丘頂に象形埴輪が散布されていたと報告しており、京大博物館には家・衣蓋(傘部の直径が約74cmある)・盾・靫等の象形埴輪が保管されている。この古墳の副葬品と伝えられる出土品が誉田八幡宮に所蔵されている。1848年(嘉永元年)発掘とされており、金銅製龍文透彫鞍金具などの馬具は大陸伝来の優品で一括して国宝に指定されている。陪塚とされているが出土した埴輪から応神天皇陵より新しい古墳とされている。
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応神天皇陵古墳拝所

陪塚の一つ東山古墳を見て行こう。ただし、この古墳は一辺50m、高さ7mの方墳であるが葺石と円筒埴輪列が有ったというだけで調査はされていない。すぐ北に幅約10mの濠を共有し、同様に応神天皇陵の陪塚とされる蟻山古墳が調査されている。蟻山古墳は一辺45mの方墳。墳頂の施設から農耕具、多数の武器類の鉄製品が出土している。南辺と西辺に円筒埴輪列が確認されている。甲冑形、衣蓋形埴輪など、他に盾形埴輪も出土している。2008~2009年の調査では葺石の存在も確認されていて、5世紀前半のものとされている。現在は病院になっている。

次は「鋏(はざみ)山古墳」に向かう。すぐ近くの国道170号「野中東」の交差点を西へ行く、ほどなく北(右)へ細い道を入ると左手に墳丘が有る。周濠沿いに西へ半周できる。墳丘長102m、前方部幅66m、高さ9.1m、後円部径60m、高さ9.5mの東に広がる前方後円墳である。くびれ部両側に造り出しがある、墳丘は3段築成。墳丘斜面には葺石があって平坦面には円筒埴輪列が確認されている、口縁部の径が50㎝を越える埴輪も確認されている。家・盾・衣蓋形の象形埴輪も有った。後円部頂には径約17mの平坦部があって中央部に盗掘の窪みがあってここから組合式石棺が発見されたと伝わっている。5世紀前半のものとされている。

次はすぐ南にある「野中宮山古墳」になる。鋏山古墳から南へとりすぐのところの左手に幼稚園が有る所が野中宮山古墳の前方部に当たる。墳丘長154mで西に開く前方後円墳である。周濠が堤に沿って前方後円形で古い部類に入る。後円部頂には板状の割り石が散乱しており竪穴式石槨の可能性があるという。5世紀前半のものとされた。「藤井寺八景」として桜の名所に選ばれている。
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左:野中宮山古墳前方部。右:説明板。

野中古墳へは野中宮山古墳の南の道を東へしばらく行き、細い道を右手に入る。ちょうど次に行く墓山古墳の後円部の北に当たる。一辺37mの方墳である。狭い幅の周濠というより溝が巡っていたが埋まってしまっている。1964年に発掘調査が実施され、墳丘斜面の葺石や円筒埴輪列が確認された。墳頂部で衣蓋・冑・囲形等の象形埴輪、鎌・斧・刀子・紡錘車などの滑石製模造品に加えて高杯・蓋杯・壺など多様な遺物が出土した。多数の木箱に短甲10領、他に1領、計11領あって革製の衝角付冑、鉄製の眉庇付冑が付属していた。朝鮮半島産と見られる土器、石杵・臼、鉄鋋36k以上、その他武具、農具などが多量に出土した。出土遺物から5世紀中頃から後半のものとされた。

ここから南すぐに墓山古墳(応神天皇陵ほ号陪塚)の後円部に出られる。墳丘全長225mの三段築成された前方後円墳である。くびれ部左右には造り出しがある。濠は幅約18m。周濠外側には幅約32mの外堤が全周していた。1898年に家・衣蓋・短甲・靫・盾形等の象形埴輪が出土し現在宮内庁と京都大学に保管されているという。多量の滑石製勾玉や各種の象形埴輪の出土が知られおり、また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されていた報告もある。墳丘や出土品から5世紀前半のものとされている。この古墳は宮内庁によって応神天皇陵ほ号陪塚とされているが、全国第23位の墳丘を持ち、多量の鉄製品を持つ陪塚が確認されていて大王あるいはそれに準ずる有力者の墓と考えられている。これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えられる。

墓山古墳のすぐ東、羽曳野市役所の南に向墓山古墳が有る。一辺68mの方墳。中段と墳頂の平坦面には円筒埴輪、朝顔型埴輪の他、家・衣蓋・靫・盾などの象形埴輪が立っていたらしい。墳丘斜面には10cm大の礫が20cmほどの厚さに葺かれていた。この古墳の西は墓山古墳の外堤と重なる位置にある。この二つの古墳は同時にかつ一連の計画の下に築造されたもので、5世紀前半の古墳とされる。
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左:墓山古墳後方部。中:向墓山古墳。右:同説明板

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向墓山古墳の南に西馬塚古墳が有る。左:墳丘。右:説明板

浄願寺山古墳は墓山古墳前方部にある一辺67mの方墳である。1985年の調査で底部幅が約7.5mの周濠が有ったことが分かっている。向墓山古墳と東西に対称的な位置に有り大きさもよく似ているので関連性は高く、墓山古墳との関係は深いと思われる。

青山古墳は径62mの円墳に幅25m、長さ12mの造り出しを付けた墳丘長62m、2段築成の円墳で、古市古墳群で最大の円墳である。 墳丘のまわりには濠がめぐっていて、濠の調査では円筒埴輪や家・衣蓋・盾・靫・馬・人物形などの象形埴輪が見つかっている。古墳は5世紀中頃のものとされている。
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青山古墳と説明板

仁賢天皇陵(野中ボケ山古墳)へは少し北へ戻って西へ行く。外環状線を横断して下田池と上田池の間を抜けると目の前が御陵になる。御陵の東側周濠沿いに建つ住宅との間を前方部へ向かう。墳丘長122m、前方部幅107m、高さ13m、後円部径65m、高さ11.5mの前方後円墳で、前方部が高さ幅とも後円部を上回り、古市古墳群の終焉期を代表する墳形を示している。周濠と堤が巡るが左右非対称形をしている。
仁賢天皇は履中天皇の皇子の子であるが父が雄略天皇に殺された時弟(後の顕宗天皇)と共に播磨に逃れていたが雄略天皇の死後、身分を明かし先ず弟が顕宗天皇となり、次いで兄が仁賢天皇となった。姉は飯豊女王で葛城市の忍海に御陵が有る。
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左:仁賢天皇陵古墳後円部、北側の下田池から。中:後円部から前方部を見る。右:拝所

ここから西の道路を南に行くと峯塚公園が有って峯ヶ塚古墳が有る。全長96mの前方後円墳である。南側に現存する溜池が内濠に当たりその外側には内堤、さらに外濠が有ったことがわかっている。葺石は墳丘上段斜面の裾部分のみに施されていて、盛土の崩れやすい下部を補強したものと考えられている。後円部墳頂では竪穴式石室が見つかっている、天井や側壁の石は抜き取られていたが、墳頂の3m下に築かれており東西約4.3m、南北2.2m、高さ1.9mと復元された。石室には阿蘇産の凝灰岩片が残っており、刳抜式の舟形石棺が有ったとされた。石片は2種類の色調があって長持山古墳の石棺と同様に蓋と身で石質が異なっていたとみられている。また、石室からは夥しい数の副葬品が出土した、総数は3,500点以上。青銅鏡の小片、勾玉・臼玉・管玉・ガラス玉などの玉類、鹿角製やこれを模した木製刀装具等の伝統的な副葬品に加えて、馬具・盛(せい)矢(し)具(ぐ)(胡簶(ころく)=矢を入れて腰に付けて携行する道具)・銀製刀装具・銀製垂飾付耳飾り・帯金具などの渡来系要素の強い金・銀製の新しい副葬品も多数出土したという。被葬者を象徴する副葬品である大刀は長さが1.2mに達し、明らかに儀仗用の大刀である。刀装具には銀製ねじり環頭5点が見つかっており、これら装飾性の高い大刀は、のちに伊勢神宝として大王家のシンボルとされる「玉纏大刀」へと受け継がれたもので、これらを複数保有した被葬者の権威の高さがしのばれる。発掘調査で出土した円筒埴輪は新しい様相を示すものの一部にやや古い埴輪も見つかっている。
以上の様な副葬品は、古墳時代の中期的な武器・武具の多量埋葬と後期的な装飾性の高い金・銀素材を用いた副葬品の多量副葬の両方を持ちあわせており、過渡期の様相を示している。また石棺の形態や産地などを綜合して、峯ケ塚古墳は5世紀末頃に築造された大王墓級の墳墓とされた。
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峯塚公園

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峯ヶ塚古墳説明板

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小口山古墳

公園と東の芦が池の間の道を南へ行くと、右手に清寧天皇陵(白髪山古墳)がある。墳丘長115m、後円部径63m、前方部幅128mで二段築成の前方後円墳。前方部幅が後円部径の2倍に達し、前方部が最も開いた形をしている。後円部が二段目から急激に立ち上がっており墳頂の平坦面が狭いことから横穴式石室が採用されていると思われている。周濠は幅20~30mで巡っている。腰高の前方後円墳で、横穴式石室を持つ古墳としては天理市に東乗鞍古墳がある。
清寧天皇は雄略天皇の妃の子で生まれながらに白髪だったので白髪皇子と呼ばれていた。事績や結婚したかなど不明で影の薄い天皇である。雄略天皇が有力候補者を殺してしまっていたので清寧天皇の死後後継ぎがいなかったが顕宗・仁賢兄弟が発見されて弟が顕宗天皇になった。
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左:清寧天皇陵古墳拝所。右:小白髪古墳

この古墳の東外環状線のすぐそばに小さい古墳が残っている。墳丘長46m、後円部径24m、前方部幅23mの小白髪古墳がある。調査の結果幅12mの盾型周濠が有ったことが分かっている。両古墳から出土した円筒埴輪はよく似た特徴を持ち、共に6世紀前半頃に築かれたと考えられている。

小白髪古墳の北の道を東へ入るとすぐに日本武尊白鷺陵に出られる。墳丘長200m、後円部径165m、前方部幅106mの二段築成の前方後円墳である。くびれ部北側に造り出しがある。幅30~50m周濠が巡っていて、墳丘が悠然と浮かんでいる。旧地図にある周辺の田圃の形から堤の幅が約20mと想定され外側には外堤を区画する溝が検出されている。宮内庁による後円部の発掘調査で10cm間隔で円筒埴輪列が巡っていたことが確認されている。北側の外堤を画する溝からは屋根の網代を表現した家形埴輪や盾形埴輪などが見つかっている。古墳群内にあって位置・墳形・出土埴輪の特徴などから古墳時代中期から後期への過渡期の変遷期の古墳として注目されている。
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左:日本武尊陵古墳前方部、北より。右:前方部から後円部北側を見る

日本武尊は東国平定を終えて帰る途中、伊吹山の神との戦いで、草那芸剣を持っていなかったため破れてしまう、傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとするが。今の三重県亀山市の能褒野(のぼの)に辿り着いた時、ついに力尽きその地で死んでしまう。能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、御所市の琴弾原を経て、今の羽曳野市古市に降り立ち、その後白鳥となって何処ともなく天高く飛び去ったと『古事記』にある。したがっていずれの墓にも亡骸は無いことになっている。日本武尊能褒野墓は現在亀山市の「のぼの公園」にある。また、大阪府羽曳野市の近鉄「古市駅」南西には「景行天皇皇子日本武尊白鳥陵」がある。

帰りは近鉄南大阪線「古市駅」からとなる。

*** 写真は当日の天候などの都合で一部以前(今年2月、3月)に撮影したものを使っているものがあります。 ***
by yumeoijyuku | 2011-03-21 23:47 | 古墳めぐり案内

大和の古墳をめぐる・・その2-33

朝日カルチャーセンター現地講座
河内磯長谷の古墳

今回からは奈良県を離れて聖徳太子に関係の深い大阪府太子町の古墳をめぐり、その後しばらくは奈良県を離れ大阪府、京都府、兵庫県に足を延ばす予定です。

今日は「近つ飛鳥」と言われ奈良の飛鳥、斑鳩に関係の深い皇族が眠ると言われる大阪府太子町の古墳をめぐる。
古事記によると反正天皇が天皇になる以前に兄の履中天皇に会うため逗留中の石上神宮に行く途中にここを「近つ飛鳥」、今の明日香村を「遠つ飛鳥」と名付けたとある。そのため太子町内では国道166号に並行してここにも「飛鳥川」が流れている。これから巡る天皇・太子陵がこの谷が造る盆地に位置することから「王陵の谷」とも言われている。
近鉄長野線喜志駅からバスで「上ノ太子」行きに乗って「太子前」で降りる。聖徳太子はここの叡福寺北古墳と呼ばれる太子廟に眠るといわれている。径54.5m、高さ7m、終末期の640~650年の円墳である。
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左:叡福寺山門、右:聖徳太子廟

この古墳に本当に聖徳太子が眠っているのかどうかについては色々な説がある。①その構造は元禄年間の記録によって、石室全長12.6m、玄室長5.4m、幅と高さ3mの岩屋山式横穴式石室で、内部に石棺が奥壁に並行して1棺、手前に並行して2棺コの字形に3基配置されていて奥の石棺が母の穴穂部間人皇女・用明天皇の皇后、手前右の乾漆棺が太子、左が太子妃膳部菩岐々美朗女のものとされている。②太子墓については鎌倉期の文書に「太子の墓を探しているが未だに分からない。11世紀初頭に斑鳩寺ゆかりの寺の僧が太子墓を探したが分からなかった」とあってこの頃には太子の墓が行方不明になっていた。③10世紀末に法隆寺の僧が内部に2棺ある石室を調べた記事がある。④一方、四天王寺は3棺合葬の古墳を太子墓としている、この説には太子自身が作ったという石文「太子御記文」まで現れ現在の古墳が太子廟とされた。叡福寺の創建は12世紀末頃が妥当とする。⑤太子墓は廟前の寺によって確実に把握されてきており間違いないとする説もある。

叡福寺前のバス道を東へ2つ目の信号を右(南)へ行くと用明天皇陵が右手にあらわれる。磯長谷のほぼ中央にあって梅鉢陵と呼ばれる5つの陵墓の中心地にあたる。墳丘は東西67m、南北63m、高さ約10.5m、3段築成の方墳。江戸時代の18世紀初めの絵図に南斜面の中腹に石材が描かれていて、これが横穴式石室の天井石とみて全長15mの石室が想定されている。継体天皇の子である欽明天皇の妃で曽我稲目の娘が生んだ子が用明天皇ある。敏達天皇には皇子がいたが蘇我氏系の用明天皇が曽我馬子によって擁立されたとされている。皇后も稲目の娘と欽明天皇との中にできた子なので異母妹に当たる穴穂部間人皇女で聖徳太子の母にあたる。用明天皇は磐余池上陵に葬られた後、河内磯長谷に改めて葬るとあり、この古墳がその古墳にほぼ間違いないとされている。
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左:バス道からここを南へ行く、中:南の拝所、:御陵東側(南から)

次は孝徳天皇陵に向かう。用明天皇陵から北へ戻り先ほどのバス道を右へ行く。太子町役場を通り過ぎて国道を渡ってから竹内街道を東へ行く。右手の家屋の向うには飛鳥川が流れる。しばらく行くと左手に孝徳天皇陵が現れる。径35m、高7mの円墳とされるが地形から方墳とも見られており八角形墳の可能性もあるとされている。幕末の修陵で墳丘についても修築の可能性がある。孝徳天皇は大化の改新のきっかけとなった645年の乙巳の変の後、第35代皇極天皇の退位を受けて即位した天皇で、皇太子中大兄皇子が大化の改新を実行したときの天皇で、難波長柄豊崎宮を造営し都として執務した。皇太子が皇族や臣下を連れて大和に帰ってしまい、落胆した天皇はその翌年亡くなっている。
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左:竹内街道、中:孝徳陵入口、右:拝所

次に第33代推古天皇陵へ行く孝徳天皇陵から南へ飛鳥川を渡って、国道166号を横断して南へ行く。民家の間の道を南・西へ行くと家の途切れたあたりの田圃の向うに墳丘が見える。手前に二子塚古墳がある、方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式をしている。東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横穴式石室があり、蓋の縄掛突起が退化したカマボコ形を呈する家形石棺がそれぞれの石室に納められている。地元では「本墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがあります。」としている。七世紀中ほどの古墳とされ、時期的には合うが規模が小さいので天皇陵とするには無理がある。
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左:二子塚古墳へ、中:北墳石棺(蓋部分が見える)、右:説明板

推古天皇陵は東西61m、南北55m、高さ約12mの東西に長い方墳で、三段に築造されている。最上段は東西約45m、南北約36m、高さ約2.5mの中段上部に周囲約4mの平坦面を残して乗っており、東西約33m、南北約25m、高さ約7m、頂部には約10m×約6mの平坦面を持つ截頭四角錐形をしている。長方形の墳形は珍しく、頂部の形から複数の石室を計画的に設置するものである。江戸時代の文書に『南に開口する石室に入ると石棺が二つあって、推古天皇と竹田皇子のものである』としている。推古天皇は死ぬ時に「御陵は作らずに子の竹田皇子の墓に葬ってくれ」と言い残したので、大和の飛鳥付近にあった竹田皇子の墓に一旦葬られたが、後日子と一緒にこの地に移ってきたとされている。薄葬を願った天皇の意思に反して御陵を築造したのは磯長谷一帯に勢力をもつ蘇我氏の権勢の誇示とされている。蘇我氏の勢いが健在な舒明天皇のときに推古陵が築かれたことはほぼ間違いないこととされている。
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推古天皇陵

第30代敏達天皇陵へは推古陵の西の道路を北へ行きすぐの三叉路を左(西)へ行く、葉室のバス停を過ぎて太井川を渡ったあたりのY字路を左へとって、突当たりを左へゆくと敏達天皇陵の拝所に行ける。全長94m、後円部径約56m、高さ約11m、北西に向けた前方部幅約70m、高さ約12mの前方後円墳で周囲に幅8m、深さ約4mの濠と幅約6mの外堤を持つ。過去に後円部で大きな石材が有ったといい、横穴式石室の部材と推定されているが位置等は不明。6世紀初頭に造られたとされる羽曳野市の峰ヶ塚古墳と大きさ形が似ているので敏達天皇と時期が合わないという説があって、他に求める説もある。この頃から天皇陵は前方後円墳から方墳に変わっていく。南河内の石川流域は蘇我氏の発祥の地とも考えられ、傘下の渡来系氏族が居住する勢力の基盤となる重要拠点である。政治的地位の安定や強化を図るため、天皇家との姻戚関係を結び、同時に天皇陵の造営や葬送の祭儀を主導することも、重要な政治手段として意義づけていたようである。
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敏達天皇陵参道

近くにある「府立近つ飛鳥博物館(白石太一郎館長)」には古代の遺物が展示されており古墳の勉強にも役立つので時間があれば見学するとよい。なお、博物館の南一帯は小規模の群集墳「一須賀古墳」が築かれているので帰りのバス亭に行く途中に寄って行こう。バスは「阪南ネオポリス」から近鉄喜志駅に向かう。
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近つ飛鳥博物館
by yumeoijyuku | 2011-02-18 22:12 | 古墳めぐり案内