古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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「古墳めぐり案内」終了ごあいさつ

  2005年4月「近鉄文化サロン橿原」で始まった「古墳めぐり案内」は、途中で「朝日カルチャーセンター梅田」に引き継いで継続してきましたが2014年3月をもって終了しました。この間、奈良県全域を中心に大阪府・京都府・兵庫県の各一部、計394(10年間で延べ859)箇所の古墳、古墳群、陵墓を巡ったことになります。受講していただいた会員の皆さま、講座開設主催者はじめブログ「朱雀の夢ものがたり」を愛読・支援していただいた皆様に御礼申し上げます。
  今後は、文化財関係のさらなる教養修得に努めたうえで「古墳めぐり案内」で培った知識をまとめて、広く「古代のモニュメント・古墳」に興味を持っておられる方々への参考となるべき案内冊子をまとめることを目指していきたいと思っています。
  引き続きご支援よろしくお願い申し上げます。

               2014年3月末日  古代夢追塾主宰 西村 治美 拝
by yumeoijyuku | 2014-04-01 19:45 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-6

朝日カルチャーセンター・現地講座案内
古代のロマン・古墳をめぐる その3-6  2012.9.20

山の辺の道添いの古墳 4 
古代王家中興の継体天皇の皇后手白香皇女はどこに眠るのか

今日は先月に引き続き「山の辺の道」を中心に分布する大和(おおやまと)古墳群の主要部を巡る。
JR「長柄駅」の踏切を東にわたり上ツ道を横切って、市立朝和小学校の前を過ぎると県道天理桜井線(国道169号線)に出るこの交差点には「刀根早生(とねわせ)大和の柿」の看板がある。丘陵部一帯は果樹園が多く柿、みかんの産地となっている、古墳の墳丘もよく利用されている。刀根早生は富有柿ほどの大きさの渋柿であるが、出荷後炭酸ガスで処理して美味しい柿となって売られる。


県道との交差点を更に東へ進み県道天理環状線を東へ横断するとすぐに小さなミカン山がある「マバカ古墳」と呼ばれている前方後円墳で県道の建設に先立って県立橿原考古学研究所が行った調査によると土器の形式、濠の状況から箸墓古墳より古く纏向の勝山、ホケノ山古墳などと同じ最古級である可能性が出てきたとしている。古墳の前方部を横切る形で道は右に曲がって南へ行く、車道はすぐ左(東)へ行くが曲がらずにそのまま南へ畔道を下池山古墳のある下池に向かう。

 下池の堤に上って古墳に行く。この古墳では竪穴式石室の検出と大型木棺が見つかっている。木棺はコウヤマキ材をくり抜いたもので約5m残っていた。この木棺の残骸は橿原市の奈良県立橿原考古学研究所付属博物館に展示されている。築造年代としては墳丘から出土した土器片から桜井市の箸墓古墳とほぼ同時期の3世紀末頃とみられている。
 この地区には古墳時代初期の古墳が覆いが前方後方墳が多い。この時期の東海地方との交渉が反映されていることも考えられる。

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左:下池山古墳、左が前方部。右:後方部へ向かって墳頂を上る、。

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説明板でお勉強

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説明板の写真。左:墳丘全景、西から。中:平面図。右:出土した内行花文鏡。

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下池山古墳頂からすぐ東に宮内庁指定の継体天皇皇后の御陵西殿塚古墳、その左方に本当の手白香皇后の陵とされる西山塚古墳。

手白香皇女は継体天皇の皇后で欽明天皇の母に当たる。継体天皇は6世紀初めの人なのでこの西殿塚古墳は年代が古く日本書紀に言う手白香皇女衾田陵でないことは確定的で、衾田陵は後で訪問する西山塚古墳で大阪府高槻市にある継体天皇が支配していた埴輪工場で作られた埴輪が出土しており、古墳築造時期からも手白香皇后の陵であることが確定的とされている。
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手白香皇后陵拝所。

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左:西殿塚古墳、東殿塚古墳説明板。中、右:同左出土埴輪。
両古墳は3世紀後半の古墳成立期に続けて築造されたとされている。

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西山塚古墳。左:説明板と墳丘、東北から。右:東南から。


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前方後方墳波多子塚古墳

県道天理環状の北にはヒエ塚古墳、南にはノムギ古墳がある。
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左:ヒエ塚古墳、ノムギ古墳説明板。中・右は同左写真。

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ノムギ古墳は発掘調査が実施されていた、今日から着手したという。以前にも後方部で調査したが、埋葬施設は発見されていない。掘削予定箇所にテープがはられていた。(現状高さから墳頂部は削平されている可能性がある。)

<写真はクリックすると拡大します>


〇 朝日カルチャーセンターホームページ:ウエブで「朝日カルチャーセンター 梅田」をクリック
by yumeoijyuku | 2012-09-21 15:30 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-4  

朝日カルチャーセンター・現地講座案内
古代のロマン・古墳をめぐる その3-4  2012.7.19

 今日は天理駅から広い道路を東へ行く。しばらく行くと広い交差点の左方向右手に「天理よろず相談所病院」が見えるのでそこを左(北)へ行く。しばらく行くとT字路で広い斜めの道に突き当たる、ここを北へ横断する。右手の左(北)へ入る細い道に入る。左手の小学校のグランドを過ぎたあたりで、右へ山手に入る。左、左と行き、池の間の道を行くと前方後円墳・別所大塚古墳(全長125m)の墳丘に突き当たる。
 そこを左へ後円部に回る。後円部には周濠の名残が畑として残っており、よく観察できる。ここから後円部を池の反対側に回り込んで、畦道を中学校に向かって歩くと、車の通る細い道に出るので右へ坂を上る。

広い道と交差するのでこれを渡り、右手の細い道(山の辺の道)を進む。すぐ右手は前方後円墳・石上大塚古墳(全長107m)の前方部に当たるが山が荒れていて墳丘には登れない。そのまま進むとすぐに山の辺の道の標識があるがそのまま前進してウワナリ古墳に向かう。前方後円墳で全長110m、後円部径68m、高さ16m、前方部幅80m、高さ16m。石室が開口していて中に入ることができる。玄室は奥行6.8m、幅3.1m高さ4mの大きなもので、県下でも有数の大石室である。羨道部は3mほど残っている。
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左:別所大塚古墳、後円部。中:ウワナリ古墳説明板でお勉強。右:同左。

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左:ウワナリ古墳開口部。中:玄室内部から羨道部を見る。右:玄室奥壁。(写真は以前のものを使用)

 次は西名阪国道を北へ抜けてシャープ総合開発センターに向かう。開発センターは高度経済成長時代に建設されたもので、この区域には28基の小古墳とその下には弥生時代後期の高地性集落跡も検出されたが、2基の小古墳を残して、他は開発センターの下になってしまった。
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開発センター入口手前に移築保存された5基の石室。

シャープのすぐ西に前期の前方後円墳・全長110mの赤土山古墳がある。古墳は最近公園として整備された。
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左:古墳公園入口。右:説明板:。

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左・中:家型埴輪祭祀遺構。。右:説明板。

赤土山古墳から西へ行くと和邇下神社があって和邇下神社古墳がある。
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左:参道西にある柿本人麻呂の碑「歌塚」。中:柿本寺説明板。右:道路にある標識。

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神社正面の階段を登ると本殿がある、古墳の上に鎮座している。

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石段下には『日本書紀』に物語がある、「平群氏の鮪(しび)と物部氏の影媛」の悲話の碑がある。

和邇下神社の東の天理教教会裏山に全長140m後円部径84m、前方部幅50mとされる前方後円墳・東大寺山古墳(4世紀後半)がある。金象嵌の銘文を持った重文・花形環頭大刀など鉄剣・鉄刀多数が出土している。
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左:天理教社殿、左の山に古墳がある。中:登り口に説明板。右:同左。


〇 <写真はクリックすると拡大します>

〇 この「古代のロマン・古墳をめぐる その3-4  2012.7.19」は以前にアップした「奈良の古墳めぐり・・その2-6 H20(2008年).10.16とほぼ同じコースを巡ったものです。左欄にある
「2008年10月」をクリックして9.18のブログと合わせてご覧ください。

〇 朝日カルチャーセンターホームページ:ウエブで「朝日カルチャーセンター 梅田」をクリック
by yumeoijyuku | 2012-07-20 23:29 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-3  

朝日カルチャーセンター・現地講座案内
古代のロマン・古墳をめぐる その3-3  2012.6.28


定例の第三木曜日が雨で6月28日に延期になった。
午前10時に天理駅をスタート。東へ向かい天理教本部の神殿前を南に向かい天理高校と天理中学との間にある西山古墳を目指す。古墳時代前期の前方後方墳で全長180m、集合を含むと255mあって、この形で我が国最大の規模を誇る。墳頂の見晴が良い。

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西山古墳。左:後方部から墳丘を上る後方は天理高校校舎、。中:前方部南側に残る周濠。右:前方部から後方部(東)を見る。

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西山古墳の北すぐにある塚穴山古墳は径60mの墳丘上部が削平されていて、石室も天井がなくなっている。石室全長16m、玄室長7m、幅3mあって、飛鳥の石舞台古墳の石室に匹敵する。

ここから東北方向の峯塚古墳の石室を見学してから西乗鞍古墳に向かう。

西山古墳南方にある全長120m、古墳時代後期の西乗鞍古墳は、市が借地している市民公園から墳丘に上るが、現在地主と係争中とのことで古墳に立ち入ることができなかった。
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左:地主が設置した、立ち入り禁止のバリケード。中・右:古墳の説明板。

西乗鞍古墳からすぐ南のグランドの南の道を東に行くと、西乗鞍古墳と同じころに築造された東乗鞍古墳(全長72m)がある、開口した石室に入ることができる。中には一部壊れた石棺が2基残っている。

東乗鞍古墳のところで「山の辺の道」に入って北へ、石上神宮を目指す。途中、西日光と言われた大伽藍を持つ内山永久寺跡を通る。明治の廃仏毀釈で廃止され、寺宝他の貴重な文化財が散逸した。
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左:内山永久寺手前の休憩所。中:西に生駒山。右:前方右手に永久寺伽藍配置の解説板がある。

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石上神宮山門。

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左:本殿、中:国宝七枝刀の写真、右:銘文の解説。

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摂社「出雲建雄神社」。左:本殿。中:標識。右:拝殿(国宝)拝殿の方が立派である。

帰りは西に向かい天理教本部前を通り、天理駅で解散。

〇 <写真はクリックすると拡大します>

〇 この「古代のロマン・古墳をめぐる その3-3  2012.6.28」は以前にアップした「奈良の古墳めぐり・・その2-5 H20(2008年).9.18」とほぼ同じコースを巡ったものです。左欄にある
「2008年9月」をクリックして9.18のブログと合わせてご覧ください。

〇 朝日カルチャーセンターホームページ:ウエブで「朝日カルチャーセンター 梅田」をクリック
by yumeoijyuku | 2012-06-22 09:59 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-2(2/2)  

朝日カルチャーセンター・現地講座案内
古代のロマン・古墳をめぐる その3-2   2012.5.17 (1/2)  

 龍王山から川の北の道を下りてきて山の辺の道に突き当たるとすぐ右(北)が「崇神天皇陵(行燈山古墳)」である。崇神天皇陵の後円部の東、ちょうど山の辺の道を挟んで「櫛山古墳」がある。まずその「櫛山古墳」によって行こう。古墳としては珍しい形で双方中円墳と呼ばれている。普通前方後円墳の円墳を中心として前方部が向き合った形を言うが、この古墳の場合は前方後円墳の後円部の東側に方形の出っ張りが着いた形で、しかも古墳軸上からずれて取りついている、埋葬に関係する祭祀の場と考えられている。雑木林となっているが下刈りされていて墳丘上や周囲には通路もできている、ただし北側は中円部で途切れている。
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左:説明板でお勉強。中:後方部の出っ張り。右:説明板。
 
崇神天皇陵は全長242m、後円部径158m、前方部幅102mの前方後円墳で周囲に水をたたえた周濠があって雄大な眺めを見せる。景行天皇陵と同じように周濠の東西に段差があるので渡り土手で区切って水位を保っている、また周濠の形態も幕末の修陵で拡幅されていて、元々は景行天皇陵と同じようなものであったと思われている。水位も築造時より高くなっているようである。崇神天皇は4月に案内したように『日本書紀』では三輪山の大物主神や天照大神との物語がある。景行天皇陵と供に考古学的には天皇陵との確証は無いが4世紀の日本の代表的な前方後円墳である。古墳の南に沿って前方部に向かうと後円部から前方部にかかるあたりに外堤を切り開いた水門がある。ここの南に田を1枚隔てて、「ザクロ塚」があって、い号陪塚とされているが横穴式石室が検出されていて時代的に龍王山古墳群に属すると分かった。西の拝所正面の左が「アンド山古墳」、右が「南アンド山古墳」になる。
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左:後円部から南の外堤を周って前方部へ。中、右:説明板。

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左:前方部外堤にある拝所。中:拝所。右:説明板。

 県道の西すぐ南に県道に半分削り取られた前方後円墳がある、伊射奈岐神社の境内にある「天神山古墳」で、県道工事に伴って調査された。全長113m、後円部径55m、前方部幅50m。後円部中央に主軸と平行した石室があって、扁平な割石を持ち送り積みしていて、檜の木櫃があって木櫃内に3面、周囲に20枚におよぶ銅鏡が出土したことで有名。人体埋葬の痕跡はなかった。

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左:伊射奈岐神社鳥居。中:社殿、この奥あたりが後円部。右:鳥居横にある説明板。

 崇神天皇陵の正面を西へJR「柳本駅」方面へブロックできれいに舗装された道を西へ行くと、右手に池があってその向こうに「黒塚古墳」が見える。墳丘の周囲は公園として整備されている、周濠がかなりいびつな形で残っていて、南側は広く北側は一段低く、釣り堀になっていたい池である。黒塚古墳は全長約130mの東西に主軸を持つ前方後円墳で、4世紀初めかそれより古いとされた。
 鏡が見つかった竪穴式石室は墳丘主軸と直交する形で検出された。内法は長さ約8.3m、床面での幅は北端で約1.3m、南側で約90㎝、高さ約1.7m。棺台となる粘土の床に木棺の跡が残っており、長さ6.2m、直径1mを越える割竹形木棺が有ったことが分かった。

木棺の中央部の粘土床には魔除けに使われる水銀朱が鮮やかな朱を呈しており、ここに遺体が安置されていたことが分かる。三角縁神獣鏡は全て木棺の外にあって、鏡面を石室の内側に向けて立っていた。椿井大塚山古墳の鏡は全て石室の壁に向かっておかれていたと言う。黒塚古墳展示館があって古墳の詳細や出土した鏡のレプリカを展示、解説している
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左:後円部にある渡り土手。右:展示館にある竪穴式石室の復元模型。

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左:前方部北側。中:前方部南側、水面は北側より一段高い。右:説明板。

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後円部墳頂、左:説明板と竪穴式石室の位置を示すモニュメント、遠景は生駒山。中:説明板。右:公園にある説明板。

展示館には出土した全鏡のレプリカが展示されている。
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33号鏡「三角縁獣帯神獣鏡」レプリカ。左:手前から。右:右手前が33号鏡。
by yumeoijyuku | 2012-05-30 16:52 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-2 (1/2)  

朝日カルチャーセンター・現地講座案内
古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-2   2012.5.17 (1/2)  

 今日の古墳めぐりは4月にめぐった桜井市纏向地区の北の部分になる。JR巻向駅から古代の国道「上ツ道」を北上する。桜井市と天理市の境界をこえると間もなく右手に小さい美容室「カットサロン和」がある,ここの裏手に「柳本大塚古墳」がある。径39.7㎝の内向花文鏡が出土している。後漢の鏡をモデルに作った国産品(仿製品)で後から行く天神山古墳より若干遅い時期とされた。前方部上は果樹園になっている、後円部は区画が異なり雑草が繁っていて入れない。次に行く「石名塚古墳」と「ノベラ古墳」と共に100m前後の前方後円墳で同じころ共通の企画で造られたとされている。
 上ツ道を北へ行くと、すぐ左の池の向こうに石名塚古墳がある、この古墳は西側から観察する方が見やすい、古墳を越えたところの道を左(西)へ入って墳丘を外れたあたりの「森モータース」の西の小道をはいると後円部が見られる。

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左:「柳本大塚古墳後円部。中:石名塚古墳、左手池の向こう。右:同、後円部、西から。


 「森モータース」の西の小道をはいるところか北にノベラ古墳が見える。前方後円墳であるが墳丘は削平されている。民家の裏になるので声をかけてから古墳に入ろう。一旦上ツ道にでて北から回り込む。
 上ツ道を少し南に戻り、左手に入り県道に出ると、左手南に「上の山古墳」がある。全長125m、後円部径86m、前方部幅60mの前方後円墳であるが、次に行く景行天皇陵の陪塚とされている。
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左:ノベラ古墳、南から。中:上の山古墳。右:同左説明板。

すぐ南に景行天皇陵(渋谷向山古墳)があって、県道側に拝所がある。全長約300m、後円部径168m、前方部幅170mの周濠を持つ大型の前方後円墳で、県下では橿原市の丸山古墳に次いで二番目の規模を誇る。山の辺の道ならびに県道天理桜井線沿いでは北にある崇神天皇陵(行燈山古墳)と並んで大型古墳として威容を誇っている。
 南側の周堤を後円部に廻る、周濠は渡り堤で区切られていて後円部や前方部には水が貯えられているが、空堀となっている部分もある。前方部の周濠は南側のものが異常に出っ張っている、幕末の陵墓改修で灌漑用に拡張されたものかと思われる。陵墓改修には領民を使って周濠を拡幅して灌漑用に利用できるようにする例が多い。
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左:景行天皇陵後円部、左奥に耳成山、その左に畝傍山が見える。中、右:説明板。

昼食後龍王山古墳群に向かう。ろ号陪塚を経て渋谷町公民館の所を右に行って崇神天皇陵に向かう。途中防火水槽のある辻を右に山の方へ行き、龍王山古墳群を目指す。
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左:右に景行天皇陵後円部。中:龍王山への途中の池の堤の端に「オカタ古墳」がある。右:ここの池の岸部に昼間からフクロウが居てこちらを監視していた、よく見ると・・・。

龍王山には総数1,000基におよぶといわれる古墳・横穴の密集地として有名な奈良県下最大の龍王山古墳群がある。この古墳群は標高586mの龍王山の西南斜面の標高150m~450mの間に分布している。
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左:途中崇神天皇陵から上る道との合流点。中、右:古墳群へ。

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登山道の両側に小円墳が無数にある。

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左:登山道脇に何気なく置かれている石仏、元来六体彫られていたものが、上部がなくなっているらしい。右:古墳開口部。
 古墳群はここの先にもたくさんあるが、今日は時間の都合で引き返し、崇神天皇陵へ向かう。→その3-2 (1/2)  へ
by yumeoijyuku | 2012-05-17 21:14 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-1

朝日カルチャーセンター・現地講座案内
古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-1   2012.4.19

 古墳めぐりシリーズは3巡目に入りました。2005年4月以来77回を数え、奈良県下の大部分の古墳、大阪府の主要古墳他京都府、兵庫県の375基・群の古墳・古墳群を巡りました。現地講座に参加していただいた方々はじめ、ブログを閲覧していただいた方々に感謝いたします。

 シリーズの初回は古墳時代の始まりを画する桜井市纏向地区からとなる。引き続きよろしくお願いいたします。

 三輪駅を起点に先ず大神神社(おおみわじんじゃ)に行く。大神神社は古墳にあまり関係が無いが、三輪山と共にこの地方の古代を語るとき避けて通れない。御神体は三輪山そのもので正面の建物は本殿ではなく拝殿ということになる、御祭神は大物主大神。三輪山は聖域で「千古斧鉞を入れぬ神山」とされている。特に拝殿の山側、三ツ鳥居奥の禁足地は絶対不可侵の霊域になっていて入ることは出来ない。しかし施設の更新工事等偶然発見されたり数少ない調査で見つかった遺物が宝物収蔵庫に陳列されていて神社の生い立ちを語ってくれている。三ツ鳥居は三輪鳥居とも言われ拝殿と神体山を区切る神明型の鳥居三つを一体に組合せた鳥居で、拝殿からこの鳥居を通してご神体であるお山を拝むことになる。見学するには拝殿に向かって左手の参集殿で見学を申し出るとに案内してもらえる。

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左:参道の鳥居。中:拝殿:。右:三ツ鳥居(明神型の鳥居三つを一つに組み合せている、撮影禁止でこれは模型)。

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すぐ北にある狭井神社。左:本殿。右:由緒書、主祭神・大神荒魂神(おおみわあらみたまのかみ)。左奥に御香水があって飲むと御利益がある。

 狭井神社の前を西へ山の辺の道を行く。古の小川「狭井川」を渡り坂を上った所を左(西)へ行く。「山の辺の道」はここまでで、ここからは山の辺の道に並行した一つ西の道を行く。突当たりを右へ、またすぐ左(西)へ行きJR桜井線の手前を右に折れる。ここの左手JRの線路との間に果樹園があって「狐塚古墳」がある。削平されてしまっているが一片約40mの方墳と予想されている、石室の規模は全長17.3m、玄室長6m、幅2.6m、高さ3.2m。羨道長11.3m、幅2.1mで大きく県下でも有数の規模を誇る。玄室には水がたまっていて立ち入り禁止になっている。古墳時代後期のものとされていて石室の造りは明日香村の石舞台古墳に似ているので6世紀末から7世紀初めのものと思われている。石室内には、玄室奥壁に並行して凝灰岩製組合式石棺が1基、中央と入り口に2基分の破片があり、さらに羨道部には鉄釘が出土したので木棺が置かれていたと考えられる。横穴式石室でも4基も葬るのは珍しい。奥に残る蓋石は奥壁上部から覗ける。2枚で構成されていて、長辺の縄掛け突起は片側に2個づつ計4箇所連なっている。
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狐塚古墳。左:石室上部。中:玄室奥。右:蓋石、2枚一組。

 集落の中を北に進むと、左手に小さな神社があって、この中に「弁天社古墳」が有る。墳丘は無く石室だけが残った感じで一見無造作に大木の根元に大きな石が置いてあるように見える。羨道部に凝灰岩を刳り抜いた家形石棺がある。石棺が覗けるところは石室奥壁の上で、玄室の石棺は無かった。
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弁天社古墳。左:社。中:石棺、玄室上部より。右:説明板。

今来た道をさらに北へ行くと集落のはずれの左手に「茅原大墓古墳」がある。前方部を北に向けた前方後円墳で全長86m、後円部径約72m、高さ8m。前方部は長さ10m、幅29m、高さ2mと小さく帆立貝式である。手前の池は周濠の名残といわれている。後で行く東田の4基の古墳よりは小ぶりで定型化しており時期的に下るものと見られている。
墳丘は果樹園のために改造されているが、元来は3段の帆立貝式前方後円墳である。2011年の調査では墳丘東部のくびれ部から「盾持人埴輪」が出土して話題になった、古墳の外縁部に置かれ辟邪の役を持つ。古墳時代中期(4世紀末ころ)のものとされ、奈良盆地東南部で3世紀代から続く大型古墳の系列の最後に位置づけられている。この地方でそれまでの200mを超える巨大前方後円墳は造られなくなって、奈良盆地北部の佐紀古墳群や河内地域に移り、当時の政権内における勢力変動を反映しているとされている。2012年の調査では前方部北東側で周濠を横断する形で渡り堤を検出している、水位調整や墳丘への立ち入り用とされた。
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茅原大墓古墳。左:墳丘。中:デレビドラマ(浅見シリーズ)撮影隊が来ていた。。右:説明板。

 箸墓へは道なりに行って突き当る所を右(北)へ行くと巻向川を渡って国津神社の前へでるのでそこを左(西)へJR桜井線の踏切を渡って行くと箸墓古墳の後円部に出る。そのまま行くと古墳の西手に拝所が有る。さらに北へ回りこむと周濠の名残の池が有る、今は潅漑用になっていて箸墓の美しい姿を映して景観を整えている。箸墓は全長280m、奈良県下第3の前方後円墳で後円部径157m、高さ25m。前方部幅140m高さ15mを測る。大型古墳の草分けとされている。墳丘がよく見える平坦部にあってその優美な姿を誇っている。後円部の径と高さが前方部よりも大きい古い形で、特に前方部がバチ型に開いていて前期古墳でも古い形を持っている。2008年8月27日の毎日新聞夕刊によると、桜井市が箸墓の前方部南角の西を調査したところ、周濠跡が見つかっている。前方部の外側に幅60~70メートルの周濠が造られていた可能性が高い。この周濠は墳丘の周りを包み込む形の内濠の外に前方部を底辺とする馬蹄形の内堤あってその外側を外濠が囲んでいたと思われている。
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左:箸墓古墳、北より。右:昼食後のひと時。

 箸墓から戻って先ほどの踏切を渡り巻向川沿いに行くと慶運寺がある、本堂のすぐ裏に慶運寺裏山古墳の両袖式石室が開口して残っている。墳丘は削平されて墓地になっている。上の墓地には天井石が露出している。寺の入り口付近には刳抜式石棺の身に仏像が彫られて残っている。
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慶運寺裏山古墳。左:開口部。中左:玄室。中右:刳抜式石棺(出土地不明)の身に仏が彫られている。右:説明板。

 慶運寺のすぐ西にホケノ山古墳がある。全長90m、後円部径60m、前方部幅40mで周濠をもつ前方後円墳。墳丘の一部に貼石が復元され廻りが公園になっている。2000年4月8日に行われた現地説明会によると、埋葬施設に特徴があり国内では前例の無い「石囲い木槨」(槨=かく、棺を入れる箱)ということである。木棺を安置した木の部屋の周囲に川原石を積み上げて石囲いを作り、その上部は木材の天井、さらにその上は最終的に積石で覆う構造をしていた。
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左:前方部東南角から。右:説明板。

 ホケノ山古墳から道なりに北へ行く、突当たりを右に行き新池の手前を左(北)へ行くと、突き当りの右手にある小高い山が珠城山で3基の古墳が知られている。1955年に今のJR桜井線巻向駅を造るに際して土を採取するときに、偶然石室の羨道部が開口して発掘調査が実施されたという。この古墳は1号墳で横穴式石室が後円部に築かれ南に開口している、凝灰岩の組合せ式箱形石棺が残っており、県立橿原考古学研究所付属博物館の庭に展示されている。墳丘には稲荷社がって鳥居が建てられている。すぐ西に接して2号墳がある、3基の内で一番大きく全長75mで西に面する前方後円墳である。更にこの西に3号墳があったが宅地化により消滅している。これら3基の古墳は纏向地区の北端に位置するが、この地区の他の古墳と比べて築造時期が明らかに新しく6世紀後半と考えられている。
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左:石室開口部。中:玄室。右:説明板。

 次はいよいよ纏向地区へ向かう、先ず珠城山古墳の前の道を戻る形で西へ行くそのまま西へ国道169号とJR桜井線を越える。このあたりの南、JR巻向駅の西側で3世紀中頃かそれ以前と考えられる大型建物跡とそれに位置や軸線をそろえた建物が東西に計4棟の跡が出土した。桜井教育委員会の現地説明会資料(2009.11.14、15)では「このように複雑かつ整然とした規格に基づいて構築された建物群の確認は国内でも最古の事例となるもので、これまでに判明している弥生時代の大型建物などとは完全に一線を画する構造を持つものである。・・・我が国の国家の形成過程を探るうえできわめて重要な意義を持つものといえる。」としている。

 さらに西へ、纏向団地を過ぎて行くと県道を渡った先に纏向小学校があってこの付近に4基の古墳がある。いずれも帆立貝形の前方後円墳で古墳発生期のものとされている。
まず小学校手前に石塚古墳がある。円墳のようであるが前方後円墳であることが分かっている。全長93m、後円部径62m、前方部幅45m。実際それまでは円墳でないかと思われていたが、1971年に小学校の新築事前調査によって90mを超える帆立貝式の前方後円墳であることが判明した。1989年にも調査が行われ、前方部が三味線のバチ形に開いた全長約90mを越える前方後円墳と分かった。くびれ部の周濠から纏向3型と呼ばれる土器が出土し3世紀後半とされるが、1971年の調査では3世紀はじめを示す纏向1型の土器が出土。さらに周濠から見つかった檜の板は年輪年代測定法で西暦175年前後と判定されて3世紀前半の築造ではないかとの見方もある。
 小学校の右手(北)には勝山古墳がある。古墳の東側を除いて勝山池と呼ばれ灌漑用の池に囲まれていて周濠の名残と思われている。全長100m、後円部径60m、前方部は幅20mと極端に狭い。
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左:石塚古墳。中:石塚古墳説明板。右:勝山古墳(東北より)・・周濠部は大きく改変されている。
説明板には「(墳丘墓)」と添え書きされていて、古墳時代初頭の古墳とするか弥生時代末の墳丘墓とするか議論が分かれていることが書かれている。

 小学校の西へ回り込むと矢塚古墳がある、矢塚古墳も一見円墳のように見えるが、古墳の南側が前方部で、くびれ状の曲線も観察できる。全長96m、後円部径64m、前方部幅40m。

 矢塚古墳から南に「東田(ひがいだ)大塚古墳」が見える。この古墳は矢塚、石塚、勝山古墳と同じ時期に築かれた古墳と思われている、全長96m、後円部径64m、前方部幅30m。
今まで見てきた4基の古墳はホケノ山古墳も含めていずれも90m~100mの帆立貝式の前方後円墳で前方部の縦軸長さが後円部の半径にほぼ合致し、前方部が極端に短く後円部がやや縦長の卵型をしている、前方後円墳が定型化する前の段階のもので、石塚古墳と同時期に短期的に同じ企画性の下に築造されたものと思われている。このことはこれらの古墳は数世代に渡り大規模な墳墓を造り続けられる権力が纏向地域に有った事が明らかであるとされている。(2008年6月の桜井市教育委員会と県立橿原考古学研究所の発表によると、東田大塚古墳は全長120mとされた、これはいままで纏向型古墳が後円部と前方部の比率が2対1と合わないので別の型式があったのではないかとされた。2008年3月6日、毎日新聞)
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東田大塚古墳。左:墳丘。中:墳頂の三等三角点、標高72.98m。右:説明板。

 ここの東の山麓から西へかけて約1km、南北500mに広がる区域は纏向遺跡といわれている。この遺跡には石塚古墳などの古墳と南の箸墓古墳、ホケノ山古墳とその周囲の古墳が含まれる、現在の地名ではJR巻向駅を中心とした辻、太田、巻野内地区が中心地と考えられる東田、大豆越、草川、穴師、箸中と言った範囲が含まれる。

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 桜井市は纏向遺跡を売り出している。左:巻向駅にある看板。右:拡大・・発掘調査によって駅のホームのすぐ北西から出土した柱跡から復元した中枢施設。
by yumeoijyuku | 2012-04-19 23:32 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その2ー46 

23年度最終月で全員参加のもと、朝から天気がおかしくて小雨が降ったが、その後回復してマズマズの古墳めぐりとなった。

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集合、出発はJR奈良線「棚倉駅」。左:棚倉駅、無人駅だが地域の方が駅の世話をしてくれている。中:まず駅前の「湧出宮」で参拝、常時は無人、称徳天皇の御代に御祭神をお招きしたとき一夜にして森が湧き出したという。右:駅西北にある「アスピア山城」の図書館に椿井大塚山古墳出土の銅鏡のレプリカが展示されている。
 三角縁神獣鏡については発掘調査を担当した京都大学の小林行雄講師(当時)が早くも1955年に「古墳発生の歴史的意義」を発表している。趣旨はそれまでに各地で出土している三角縁神獣鏡の同范鏡との関係から『弥生時代から古墳時代へ変転するなかに、権威の革新があった。それは(画文帯神獣鏡のような)伝世の宝鏡の保管によって象徴される「在来の司祭的権威」から「大和政権から承認を受けることによって、その地位と権力を保証されるものに変化した。その証が地方首長に分与した三角縁神獣鏡である。」』というものである。
「アスピア山城」の前の府道を南へしばらく歩いて鳴子川の手前でJR線を左(東)へ亘る。すぐ東の階段を上るとお稲荷さんの社に至る。ここの境内が「北河原稲荷山古墳」の上になる。「直径約33mの円墳で葺石、鰭付円筒埴輪が存在した。古墳時代前期後葉のもの。この先にある城山古墳の次世代の首長墓とされている。規模が小さくなっており、勢力が衰退していることがわかる。注1(平成23年4月の奈良県立橿原考古学研究所友史会報による、以下同)」。

平尾城山古墳は「南西に主軸を持つ前方後円墳で全長110m、後円部径70m、高さ11.5m、前方部幅約38m。後円部に竪穴式石室1基と粘土槨2基があった。石室はほぼ南西に主軸をとり、北向きの頭位とされている。竪穴式石室に割竹形木棺があったと推測されている。注1」。墳丘特に後円部は大きく破壊されていて形態は判然としない。。4世紀初頭。
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左:北河原稲荷山古墳。右:平尾城山古墳。

元の府道に戻って南へ行き右手に「中井建設」の小さな建物がある先のところを左へ水路を渡って入ってゆくとすぐ左前方に大塚山古墳の標識がみえる。ここのT字路の角が前方部端にあたる。ここを左に行き、JR奈良線を潜った所の右が後円部墳丘なのでこれを昇る。
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左:左手奥に後円部。中:正面の標識が前方部西北端。右:この先のJRをくぐってすぐ右手の後円部を上る。

椿井大塚山古墳は「全長約175m、後円部直径約110m、前方部長約80m、前方部墳端幅約76mと推定される前方後円墳である。後円部四段前方部二段の段築で、前方部から庄内~布留移行期(三世紀中~四世紀初)の土器が出土した。明治27年に前方部と後円部を分断して鉄道が敷かれて墳丘が破壊された。昭和28年には京都大学が発掘調査を行った。後円部中央にある南北軸の竪穴式石室は全長6.9m、高さ約3m、幅1.15m~1.03mを図り、内部には割竹形木棺が北向き頭位で安置されたと推定された。これまでに37面の青銅鏡が採取されて、古代国家形成論上不可欠の資料として評価されてきた。他に鉄製の刀・剣、槍・鏃の武器冑・甲の武具類、鎌・斧などの農耕具類、漁具類等が出土している。注1」。
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墳頂から西方を望む。右手から左手へJR奈良線が走る。左が奈良方面。中央の大きい家が前方部に建っている。

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左:墳頂の説明板。右:同左拡大。・・・落書きされているので前回調査時点のものを使用。

大塚山古墳の奈良側には同様に線路によって分断された椿井天井山古墳、椿井御霊山古墳がある。

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近くの光明寺に天井山古墳の竪穴式石室の天井石が有る。左:光明寺山門。右:天井石。

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左:山城中学校に残る大塚山古墳の堅穴式石室に使われていたという天井石。中:山城古道の標識。右:マンホール。

JR上狛駅を南に行き、墓地のところを左(東)に行くと高麗寺跡がある。「南面する法起寺式伽藍配置をとる。寺域は東西約190m、南北約180mと推定される、中枢部は史跡である。注1」。7世紀初頭(飛鳥時代)に創建された国内最古の寺院跡のひとつで、高句麗からの渡来氏族狛(高麗)氏の氏寺として創建されたと考えられている。
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左:高麗寺跡の標識、整備工事が行われていた。中:塔礎石。右:京都府山城郷土資料館へ。

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左:資料館入口。中:上狛駅で解散。右:駅前の標識。
by yumeoijyuku | 2012-03-15 22:46 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-41 

朝日カルチャーセンター 現地講座  H23.10.20
 
摂津の古墳④ 
尼崎市、伊丹市の古墳


今日は兵庫県尼崎市北部と伊丹市南端にある猪名野の古墳をめぐる。尼崎市の海岸近くは臨海工業地帯と阪神間の幹線道路を抱えるが、内陸部は住宅地が広がる。伊丹市は市の東部、尼崎市の北に大阪国際空港がある。両市とも兵庫県の市であるが大阪府にあると間違えられやすく、郵便物は大阪府と書かれていても届くという。

 以下主に橿原考古学研究所友史会の「友史会報」例会(2008.6.15)資料によって古墳を見てゆこう。
 猪名寺駅の東に「園田大塚古墳(別名天狗塚古墳)」がある。公園の中に墳丘があるが、本来の古墳は消滅していて、1/2の大きさに復原されたものである。1937年ころ土取りの途中で遺物が発見されため調査された後、消滅した。本来全長約45mの北北西に開く前方後円墳で、後円部径約24m、高さ3.6m、周囲に幅7m、深さ70㎝以上の濠を巡らしていた。調査で後円部中心から木棺を直葬した粘土槨が検出され、銅鏡、管玉、直刀3が出土した。また墳丘上では須恵器、円筒埴輪、朝顔型埴輪が出土している。墳丘と共に築造されたもので6世紀前半のものとされた。また、後円部中心からやや南寄りで木炭層を持った竪穴式土壙が見つかり、これには鞍、鐙、杏葉といった馬具、鉄鋸、鉄刀があって、7世紀初頭に追葬されたものとされた。
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園田大塚山古墳。左:説明板。右:公園の中に1/2大きさで復元されている。

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説明図。

 すぐ南に「南清水古墳」がある。西面する帆立貝形前方後円墳で、全長約46m、後円部径約40m、高さ約3m、前方部長約12m、高さ約1.5m、北側に幅約14mの周濠が円形に遺存していたが今は宅地になっている。墳丘がかなり崩れていて墳頂に「素盞鳴神社」社殿が建つ。発掘調査はされていないが、時期は6世紀中ごろと推定されている。
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南清水古墳。左:後円部に矢代が建つ。中:説明板。右:現状図。

 新幹線を北に超えて左(西)へ行き阪急伊丹線を超えると左手に、池に浮かぶ神社がある、「御願塚(ごがづか)古墳」である。西に開く帆立貝形前方後円墳で後円部頂に社殿がある。全長52m、後円部径39m、高さ7m、前方部長13m、前方部幅19m、高さ2m。墳丘の周囲には幅7m~11m、深さ1m程度の馬蹄形の周濠がある。その周囲に埴輪の樹立された外堤がある、その外側にも周濠があって、二重の周濠があったことが分かっている。周濠内から円筒埴輪、家形・蓋形埴輪が多数出土している。古墳時代中期後半のものと考えられている。次に行く柏木古墳の埴輪に比べて須恵器の埴輪が多いことから柏木古墳より後のものとされる。御願塚古墳と柏木古墳は伊丹市の古墳である。
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御願塚古墳。左:後円部に社が建つ。中:周濠。右:後円部南のくびれ部近くに造出しがある。

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説明板。

ここから南へ行くと「柏木古墳」がある。といっても墳丘の一部が墓地として残っていて古墳の面影はない。墳丘の調査はされていないため内部施設は不明。阪神・淡路大震災後の復興事業に伴って墳丘隣接地の調査・研究が行われた。幅約11mの円弧を描く周濠が確認されている。これによって円墳だったとすると、直径約55mに復原される。周濠からは円筒埴輪、朝顔形埴輪、家、盾、蓋などの象形埴輪が検出されている。遺物から古墳時代中期前半の築造と考えられている。
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柏木古墳、墓地になっている。

ここの南を東へ行きJR宝塚線を渡り並行する道路を南へ行く、阪急神戸線の手前を左にとり、左の塀の切れ目を入ると「御園古墳」がある。ここも墓地になっていて古墳とも思えないが、墓地の中に石棺がある。東面する前方後円墳と推定されていて、現状の規模は、東西全長約60m、後円部径約30m、高さ約3m。前方部は最大幅約30m、高さ2.5mとなる。1933年の墓地整理の時墳丘の西部で発見されたという泥質堆積岩製の組み合わせ式家形石棺が残されている。長さ2.15m、幅1.2m、高さ1.1m。
石棺や出土したと伝わる須恵器、や円筒埴輪、家形・盾型などの象形埴輪から古墳の築造は6世紀中ごろのものとされている。墓地は三菱電機工場の塀に囲まれている。
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御薗古墳。左:石棺の保護建屋。右:標識。

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組み合せ式家形石棺。

元の線路沿いの道を東へ行くと水路沿いに石碑が立っている。「岡院の石棺」である。
1963年に現在地に移設されるまで用水路に石橋としてかけられ、硯橋といわれていたもので、法量は、長さ191.7㎝、幅81.2㎝、最大厚さ約30㎝で、竜山石製とされている。内面一面に朱の痕跡がある。尼崎市の最古の石棺とされているが、どの古墳のものかはわかっていない。
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岡院の石棺。

「岡院の石棺」のところを東へ行くと、左手に素盞鳴神社がある。ちょうどここで氏子が山車の用意をしとぃたので見学させてもらった。かなりの年代ものであるが修復は費用が掛かるので難しいらしい。
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左:山車。中:装具。右:写真中の中段に彫られた武者。

 さらに東の県道を右(南)に、阪急神戸線を渡ってしばらく行くと、左手に井居太(いこた)神社がある。ここに井居太古墳があった。説明板によると、伊居太神社の社殿築造で原形が大きく失われているが、南面する前方後円墳で全長約92m、後円部径約53m、高さ約3m、前方部幅約46m、周濠幅約20mとあって、古墳時代中期のもので市内に依存する最大の古墳とされている。陪塚が2基あったとされている。出土遺物としては埴輪片、土師器片、須恵器片があり、他に鏡、鉄剣が出土したと伝えられているという。
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説明板。左:古墳の説明。中:図面。右:神社の由緒。

帰りのJR塚口駅への途中には「近松公園」があって近松門左衛門資料館などがある。
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左:近松門左衛門の銅像。中:案内図。右:マンホール。

今日巡った古墳の築造年代は古い順に5世紀前半に伊居太古墳、中頃に御薗古墳、5世紀後半に御願塚古墳、園田大塚山古墳が6世紀前半、中頃に南清水古墳が位置づけされている。

ブログへの投稿日時は記事の順に遡って設定しています。2011.12.31投稿
by yumeoijyuku | 2011-10-20 22:54 | 古墳めぐり案内

古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-40

朝日カルチャーセンター現地講座 

摂津の古墳③神戸市海沿いの古墳  2011.9.15

今日の出発点は阪神電車「石屋川駅」となる。先ず「処女塚古墳(おとめづかこふん)」に向う。駅から南へ最初の道を西(右)へ、ほどなく後方部が削られて石積になっている処女塚古墳がある。説明板によると、昭和54(1979)年から6年間にわたって墳丘の整備工事が行われている。その調査によって南向きの前方後方墳であることが分かった。北側が道路工事によって削り取られているが全長70mに復原され、後方部の幅39m、高さ17m、前方部の幅32m、高さ14mあって、後方部三段、前方部2段に築成されていた。墳丘には葺石があったが円筒埴輪は確認されていない。出土した坩型土器などから4世紀(古墳時代前期)の築造とされた。
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左:処女塚関係の碑、右:解説

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処女塚説明版、左:入口と説明板、右:説明板

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左:説明板でお勉強、右:処女塚後方部墳頂

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処女塚全景、左:後方部西から、右:西側面、後方部西北から

 この古墳の東側には石碑が残っていて、処女塚伝説が残ることがわかる。一人は今の大阪府南部の男で、もう一人の男・摂津芦屋に住む男と二人は、このあたりに住む深窓の令嬢、菟原処女(うなひおとめ)を恋する恋敵の関係にあった。いろいろいきさつがあり大阪の男と芦屋の男が争って、それを苦にして処女が死んでしまう。それを見た大阪の男は処女を追って死んでしまう。芦屋の男も二人の死を知ると遅れじと剣を胸に刺して、これも自殺してしまう、という悲恋物語である。処女の親はここに塚を作り、芦屋の男の親もそのそばに塚を作る、大阪の男はこの地の人ではないが親が遠く泉の国から土を運び、やはりこの地に塚を作った。
このことは万葉集にも歌われている、これが歌碑に残されたものである。
  「古の 信太壮士(しのだおとこ)の 妻問ひし 莵原処女の 奥つ城ぞこれ」 田辺福麻呂巻9の1802

古墳がこのような経緯で作られたとは信じ難いので、作り話と思われるが、物語は万葉集の時代にはあったことになる。

話は横道にそれたが、次に行く西求女塚古墳もこの物語につながる古墳である。

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左:西求女塚古墳公園入口、中:説明標識、左:説明板

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復元墳丘は前方後円墳形に造られている、左:後円部を見る、中・右:後円形に復元された墳丘、発掘調査によって方形と分かっている。

西求女塚古墳は全長95mの前方後方墳。処女塚古墳・東求女塚古墳とともに、悲恋伝説の主人 公の墓として知られている。 説明板によると築造当時は斜面全体が葺石で覆われていたという。現在、古墳の形は前方後円形に整備されているが、発掘調査の結果、前方後方形であることが確認されている。竪穴式石室があって平成5年度の発掘調査では、三角縁神獣鏡をはじめ、多くの青銅鏡が出土している。古墳時代前期の4世紀初めころの古墳とされた。

ここにも万葉集が残る。
「語りつぐからにも 幾許恋しきを 直目に見けむ 古壮士」 田辺福麻呂巻9の1803

 東求女塚古墳は明治時代に阪神電車敷設の土取りで取り壊され、現在は碑が残っているのみ。

次は県下で最大の古墳「五色塚古墳へ向かう。阪神電車に「西灘駅」から乗って、途中山陽電車に乗り換えて、明石大橋のすぐ手前の「霞ヶ丘駅」まで行く。「霞ヶ丘駅」改札口から右手の通路を線路沿いにバックして行くと五色塚古墳の前方部に至る。墳丘は前方部を南西に向けた三段築成の前方後円墳で、全長194メートル、高さは前方部で11.5メートル、後円部で18メートルである。墳丘は葺石で覆われている。築造時期は4世紀末~5世紀初頭。

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五色塚古墳へ、前方部南西から。

「五色塚古墳」の呼称は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島西南部の五色浜付近から石を運んで葺かれたことに由来するという説もあったが、時間帯で変わる太陽の光によって葺かれた石が異なる色で反射することに由来するという説も出てきている、この説では築造当時から名前がついていたことになり、不自然である。古墳の表面に使われている石は明石海峡内のものとされている。
 瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族の墓と考えられている。
当時より空堀であったと考えられている堀のなかには、前方部と後円部が接するあたりの東側に1辺20メートル、高さ5メートルの方形、および後円部の東側にも高さ1.5メートルのマウンドがある。当時は石が葺かれていた。
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左:周濠のマウント、中:前方部 、右:明石大橋

1965年(昭和40年)から1975年(昭和50年)の整備事業により、造られた当時の様子に復元されている。表面にはコブシくらいの大きさの石(葺石、ふきいし)が約223万個敷き詰められているが、前方部のものは発掘された葺石を利用し、後円部のものは新たに入れたものである。当初2,200個ほど並べられていたと思われる高さ1メートルほどの筒型の円筒埴輪がレプリカで再現されている。築造時期は古墳時代中期とされている。

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円筒埴輪、左:朝顔形鰭付円筒埴輪、中:鰭付円筒埴輪、右:墳頂の説明版

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墳丘斜面の復元。左:復元に伴い新しい石を使用した、右:元からあった石を使用。
右の前方部の斜面は元の面を修理復元している。左の後方部側は旧斜面を保護して約50㎝嵩上げされている。間に階段を設置して高さの差を調整している。

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解説板、左:後円部、中:説明板、右:墳丘平面図

また、すぐ隣には「小壺(こつぼ)古墳」(国の史跡)がある。小壺古墳は直径67メートル、高さ約9メートルの円墳。墳丘は二段に築かれ、墳頂部と墳丘斜面のテラス面には、埴輪が並べられていて、多くのヒレ付円形埴輪と家形埴輪が数体分発見された。隣接する五色塚古墳と異なり、斜面には石は葺かれていなかった。また、濠の中には、土橋が設けられている。 なお、五色塚古墳は別名「千壺古墳」とも言われている。築造時期は、埴輪の形などから、五色塚古墳とほぼ同じか少し古い5世紀初め頃と推定されている。
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小壺古墳、左:墳丘、中:説明版、右:五色塚古墳墳丘から
by yumeoijyuku | 2011-09-17 20:54 | 古墳めぐり案内