古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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桜井市脇本遺跡説明会報告 

脇本遺跡第18次現地説明会報告 2012.9.29 

桜井市は奈良盆地南東部に位置し、脇本遺跡は南に大和川の源流初瀬川、北に大神神社のご神体三輪山に挟まれた位置にある。桜井市内から名張、伊勢方面への要衝で、平成16年以降は国道165号線拡幅に伴う調査が行われている。『日本書紀』にいう雄略天皇の「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」の推定地となっており、古墳時代中期~飛鳥時代の大形掘立柱建物などの遺跡が確認されている。

近鉄大阪線「大和朝倉駅」を北へ、国道165号線を東へ行くとバス停「脇本」の手前北側が今回の調査地である。
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調査地。左:中央部丸印。右:調査地、中央部やや右の交差点がバス停「脇本」

調査地の北側で池状に掘られた遺構が検出された。南北60m以上、東西約30m、深さ約1.2m、出土土器から5世紀後半に築造され、6世紀後半に廃絶していることが分かった。ただし、底に水の作用による堆積物が無く池とは考えられないと言い、用途は不明とされて「池状遺構」とされた。『日本書紀』には雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」(5世紀後半)、欽明天皇の「磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)」と行宮である「泊瀬柴籬宮(はつせしばがきのみや)」(6世紀後半)の記事がある。過去の調査ではそれぞれの時期に合う掘立柱建物が近くで発掘されていて、これらの宮に関係する可能性が考えられるという。・・奈良県立橿原考古学研究所「桜井市脇本遺跡第18次調査現地説明会資料2012年9月29日」より抜粋。

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調査地全景。向こうが南。信号のある通りが国道165号。手前・人が立っているあたりが池状遺跡。その向う左右に広がる石積みがその南端。

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新聞報道。

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池状遺構南端の石積。左:上下方向に目地石を置いて整然と積み上げられていた。中、右:西より、左が池状遺跡の底部。

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出土土器1。弥生時代後期末~古墳時代初め。池状遺構の南、上段の遺構から出土

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出土土器2。左:池状遺構下層から出土、古墳時代中期・5世紀後半。中、右:池状遺構上層から出土、古墳時代後期・6世紀後半。

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出土土器3.左:出土土器2の右と同じもの。中:時期は左に同じ。右:展示風景

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説明は1時間ごとに行われた。左:説明風景。右:説明は奈良県立橿原考古学研究所岡田技師。池状遺構の南・上段にある遺構についての説明は無かった。

この後付近の神社を訪ねた。
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発掘現場北東にある春日神社。左:本殿。中:注連縄。右:説明板。

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発掘現場から北へ行き西へ行ったところにある玉列(たまつら)神社。左:本殿。中:説明板。右:神社を背にして南方向、右手奥に霞む山は音羽山。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2012-09-29 23:27 | 現地説明会、講演会

古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-6

朝日カルチャーセンター・現地講座案内
古代のロマン・古墳をめぐる その3-6  2012.9.20

山の辺の道添いの古墳 4 
古代王家中興の継体天皇の皇后手白香皇女はどこに眠るのか

今日は先月に引き続き「山の辺の道」を中心に分布する大和(おおやまと)古墳群の主要部を巡る。
JR「長柄駅」の踏切を東にわたり上ツ道を横切って、市立朝和小学校の前を過ぎると県道天理桜井線(国道169号線)に出るこの交差点には「刀根早生(とねわせ)大和の柿」の看板がある。丘陵部一帯は果樹園が多く柿、みかんの産地となっている、古墳の墳丘もよく利用されている。刀根早生は富有柿ほどの大きさの渋柿であるが、出荷後炭酸ガスで処理して美味しい柿となって売られる。


県道との交差点を更に東へ進み県道天理環状線を東へ横断するとすぐに小さなミカン山がある「マバカ古墳」と呼ばれている前方後円墳で県道の建設に先立って県立橿原考古学研究所が行った調査によると土器の形式、濠の状況から箸墓古墳より古く纏向の勝山、ホケノ山古墳などと同じ最古級である可能性が出てきたとしている。古墳の前方部を横切る形で道は右に曲がって南へ行く、車道はすぐ左(東)へ行くが曲がらずにそのまま南へ畔道を下池山古墳のある下池に向かう。

 下池の堤に上って古墳に行く。この古墳では竪穴式石室の検出と大型木棺が見つかっている。木棺はコウヤマキ材をくり抜いたもので約5m残っていた。この木棺の残骸は橿原市の奈良県立橿原考古学研究所付属博物館に展示されている。築造年代としては墳丘から出土した土器片から桜井市の箸墓古墳とほぼ同時期の3世紀末頃とみられている。
 この地区には古墳時代初期の古墳が覆いが前方後方墳が多い。この時期の東海地方との交渉が反映されていることも考えられる。

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左:下池山古墳、左が前方部。右:後方部へ向かって墳頂を上る、。

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説明板でお勉強

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説明板の写真。左:墳丘全景、西から。中:平面図。右:出土した内行花文鏡。

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下池山古墳頂からすぐ東に宮内庁指定の継体天皇皇后の御陵西殿塚古墳、その左方に本当の手白香皇后の陵とされる西山塚古墳。

手白香皇女は継体天皇の皇后で欽明天皇の母に当たる。継体天皇は6世紀初めの人なのでこの西殿塚古墳は年代が古く日本書紀に言う手白香皇女衾田陵でないことは確定的で、衾田陵は後で訪問する西山塚古墳で大阪府高槻市にある継体天皇が支配していた埴輪工場で作られた埴輪が出土しており、古墳築造時期からも手白香皇后の陵であることが確定的とされている。
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手白香皇后陵拝所。

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左:西殿塚古墳、東殿塚古墳説明板。中、右:同左出土埴輪。
両古墳は3世紀後半の古墳成立期に続けて築造されたとされている。

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西山塚古墳。左:説明板と墳丘、東北から。右:東南から。


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前方後方墳波多子塚古墳

県道天理環状の北にはヒエ塚古墳、南にはノムギ古墳がある。
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左:ヒエ塚古墳、ノムギ古墳説明板。中・右は同左写真。

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ノムギ古墳は発掘調査が実施されていた、今日から着手したという。以前にも後方部で調査したが、埋葬施設は発見されていない。掘削予定箇所にテープがはられていた。(現状高さから墳頂部は削平されている可能性がある。)

<写真はクリックすると拡大します>


〇 朝日カルチャーセンターホームページ:ウエブで「朝日カルチャーセンター 梅田」をクリック
by yumeoijyuku | 2012-09-21 15:30 | 古墳めぐり案内

大出雲展・京都国立博物館 見学

大出雲展  2012.9.5

京都国立博物館の「大出雲展」を見学した。生駒のMさんありがとう。

JR京都駅から歩いて約20分、案外近い。
出雲大社へは?十年前に行っている写真で思い出す程度で、記憶は全然ない。

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左:京都博物館南西角。右:入口付近、三十三間堂前交差点。

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左:京都国立博物館入口付近、奥に本館の屋根。右:同左、看板。

会場は撮影禁止。ただ、出雲大社の推定復元模型のある部屋は撮影OKで、他の展示と合わせて今日の目的は堪能できた。
コーナーの入り口には「出雲大社境内遺跡模型」がある。奥に2000年4月に出雲大社より出土した宇豆柱(うづばしら)。1本の柱材が直径1.35mもあるスギの大木を3本束ねたもので、太さは直径3m以上にも及ぶ。高い神殿を支えるために神殿の下部に田の字型の交点9箇所に使われていた。出雲大社に残る「金輪御造営指図」に3本束ねた基礎図ががあったが、信じられていなかった。
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左:出雲大社境内遺跡模型、縮尺1/50。右:宇豆柱の残欠。

古代出雲大社復元模型(1/10)。実際の高さは約48mあったとされている。
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左:全景。中:本殿①正面。右:本殿②。

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博物館正面。左:正面。中:正面上部。右:ロダンの考える人。
個々の右手(北)にある常設展館は工事中。

三十三間堂も千手観音像がびっしり並んでいる記憶が朧なくらい以前に行ったきりであった。堂内撮影禁止。
1164年に平清盛が後白河上皇に寄進した「蓮華王院」。約80年後に消失したが、すぐに復興に着手し、1266年に再建された。お堂の長さは約120mで柱間が33ある。
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左:三十三間堂。右:説明板

ここのすぐ東側に法住寺があってその隣に御陵への参道がある。後白河上皇は法住寺で院政を行った。もちろん御所なので広大な屋敷であったハズ。
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左:後白河法皇陵入口。右:右隣の法住寺。

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左:後白河法皇御陵標識。右:御陵

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2012-09-05 23:45 | お勉強

古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-5  

朝日カルチャーセンター・現地講座案内
古代のロマン・古墳をめぐる その3-5  2012.8.30

JR「柳本駅」を東に出るとすぐに上ツ道に出会うのでこれを左(北)へとる。間もなく右手に屋根と太い柱だけのお堂「長岳寺五智堂」がある。五智堂は鎌倉時代の建物で国の重要文化財になっている。
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左:五智堂。右:説明板。

 ここから東へ1km弱で弘法大師が824年に淳和天皇(H23.7向日市の火葬塚訪問)の勅願により大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建したという長岳寺がある。

 長岳寺の山門から西へ戻り山の辺の道を北(奈良市方面)へ行くと右手に歌碑があるところを通る。
    衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無
「ふすまじを ひきての山に いもを置きて やまじを行けば いけりともなし」・・柿本人麻呂
 この歌碑は故犬養孝阪大名誉教授の筆によるもので「孝」の銘がある。故犬養名誉教授は毎年2月11日に開催される「毎日ラジオウオーク」でお馴染みの万葉集の権威であった。1998年2月4日の毎日新聞ラジオウオークのページにメッセージを寄せられたが参加することなく、この年にお亡くなりになった。

ここの坂を上ると中山公民館がある、ここの右手が広場になっていて祠が並んでいる。このあたりが中山大塚古墳の前方部前面で祠は古墳を削り取ったかたちになっている。ここを右手に廻った墳丘の裾から小道が有って墳丘に登れる。この古墳は1985年以来数次にわたり発掘調査されていてる、後円部の墳頂から内部長7.5mにおよぶ長大な竪穴式石室が発掘された。また、後円部の墳頂を除く平坦部、墳丘斜面、全面に10㎝~30㎝大の石を何重にも60㎝の厚さに積み上げられた特殊な構造であることが分かっている。この時期の古墳では最大級のもので、成立間もない大和政権の有力者の墓の可能性が強い。
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左:正面に中山大塚古墳。右:後円部墳頂の堅穴式石室があった位置、垣根で示されている。

 先ほどの中山公民館の前を西へ坂を下る。坂の下で交差する小道を右に行き県道を横断してさらに西へ向かうと上ツ道に出会う。ここを左(南)へ、すぐの道を水路に沿って右(西)へ曲がる、すぐに右手に新池、左手に古池が有るところに出るので、右(北)へ新池を左に見て池の縁を伝う道を行きそのまま池沿いに堤防に出ると池の西の堤に出られるが、この堤の中程の所に祠があってその外(西)のJR桜井線との間に「弁天塚古墳」がある。前方後円墳の後円部が残っており前方部は削平されて耕作されている。
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弁天塚古墳。左:東の新池から。右:JR側に降りて、北東から。

上ツ道に戻り左(北)へ行くと左手の柿園が前方後円墳「ヤハギ塚古墳」である。古墳の北側の道が墳丘に沿ってきれいにカーブしている。

 上ツ道をさらに北へ行って水路沿いの道を左(西)へ入ると右手に平べったい感じで「平塚古墳」がある、削平されて果樹園になっており更に東側が直線的に削られていて、古墳の面影はほとんど無い。

 上ツ道を北へ取りすぐ中村電気店が有る所を右(東)に入るとすぐ左に全長約110mの前方後方墳「フサギ塚古墳」がある、墳丘上からは崇神天皇陵、その先に三輪山が望める。この古墳は東側から北へ回り込むとまわりは田でよく観察できる。
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フサギ塚古墳。左:北から、左が前方部。右:墳丘にある説明板。

上津道に戻ると向かいが大和神社の参道で、鳥居がある。すぐ北が鳥居池であるがこの池が「馬口山(ばくちやま)古墳」の周濠の一部になっている。この古墳から採取された特殊器台や埴輪の破片から築造年代が分かり、大型前方後円墳の元祖のように言われている桜井市の箸墓古墳よりさらに古く2世紀後半から3世紀にかけての年代と判定された。大型前方後円墳が突然出現する前の段階のものはほとんど知られておらず注目された。
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馬口山古墳。左:墳丘、西から、左手が後円部。右:くびれ部東側にある説明板。

この古墳のくびれ部を通る小道で古墳を横断すると西へ向かう道に出るので、そのまま行くとゲートボール場に突き当たる、ここを左に行と大和神社の社殿に出られる。日本書紀によると、崇神天皇のときそれまで天照大神・大和大国魂の二神を天皇の御殿内に祀っていたが、その神の勢いを畏れ天照大神は大和の笠縫邑に祀り、その後伊勢に祭られた。大国魂神は皇女に預けられ、その後垂仁天皇の時に神地をここ穴磯邑に定められている。太平洋戦争の末期に戦局打開を期待されながら華々しく散った戦艦「大和」にはここの分霊が祀られていたと言う。丁度この8月に慰霊碑が落慶されていた。
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大和神社。左:上ツ道の鳥居。中:本殿。右:説明板。

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説明板。

帰りは先ほどのゲートボール場の横をそのまま北へ人家のあいだを行くと通りへ出るので、ここを左(西)へ行くとJR「長柄駅」に出る。


 <写真はクリックすると拡大します>

〇 この「古代のロマン・古墳をめぐる その3-5  2012.8.30」は以前にアップした「奈良の古墳めぐり・・その2-3 H20(2008年).6.19とほぼ同じコースを巡ったものです。左欄にある
「2008年6月」をクリックして9.18のブログと合わせてご覧ください。

〇 朝日カルチャーセンターホームページ:ウエブで「朝日カルチャーセンター 梅田」をクリック
by yumeoijyuku | 2012-09-01 23:39 | 古墳めぐり案内