古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-40

朝日カルチャーセンター現地講座 

摂津の古墳③神戸市海沿いの古墳  2011.9.15

今日の出発点は阪神電車「石屋川駅」となる。先ず「処女塚古墳(おとめづかこふん)」に向う。駅から南へ最初の道を西(右)へ、ほどなく後方部が削られて石積になっている処女塚古墳がある。説明板によると、昭和54(1979)年から6年間にわたって墳丘の整備工事が行われている。その調査によって南向きの前方後方墳であることが分かった。北側が道路工事によって削り取られているが全長70mに復原され、後方部の幅39m、高さ17m、前方部の幅32m、高さ14mあって、後方部三段、前方部2段に築成されていた。墳丘には葺石があったが円筒埴輪は確認されていない。出土した坩型土器などから4世紀(古墳時代前期)の築造とされた。
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左:処女塚関係の碑、右:解説

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処女塚説明版、左:入口と説明板、右:説明板

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左:説明板でお勉強、右:処女塚後方部墳頂

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処女塚全景、左:後方部西から、右:西側面、後方部西北から

 この古墳の東側には石碑が残っていて、処女塚伝説が残ることがわかる。一人は今の大阪府南部の男で、もう一人の男・摂津芦屋に住む男と二人は、このあたりに住む深窓の令嬢、菟原処女(うなひおとめ)を恋する恋敵の関係にあった。いろいろいきさつがあり大阪の男と芦屋の男が争って、それを苦にして処女が死んでしまう。それを見た大阪の男は処女を追って死んでしまう。芦屋の男も二人の死を知ると遅れじと剣を胸に刺して、これも自殺してしまう、という悲恋物語である。処女の親はここに塚を作り、芦屋の男の親もそのそばに塚を作る、大阪の男はこの地の人ではないが親が遠く泉の国から土を運び、やはりこの地に塚を作った。
このことは万葉集にも歌われている、これが歌碑に残されたものである。
  「古の 信太壮士(しのだおとこ)の 妻問ひし 莵原処女の 奥つ城ぞこれ」 田辺福麻呂巻9の1802

古墳がこのような経緯で作られたとは信じ難いので、作り話と思われるが、物語は万葉集の時代にはあったことになる。

話は横道にそれたが、次に行く西求女塚古墳もこの物語につながる古墳である。

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左:西求女塚古墳公園入口、中:説明標識、左:説明板

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復元墳丘は前方後円墳形に造られている、左:後円部を見る、中・右:後円形に復元された墳丘、発掘調査によって方形と分かっている。

西求女塚古墳は全長95mの前方後方墳。処女塚古墳・東求女塚古墳とともに、悲恋伝説の主人 公の墓として知られている。 説明板によると築造当時は斜面全体が葺石で覆われていたという。現在、古墳の形は前方後円形に整備されているが、発掘調査の結果、前方後方形であることが確認されている。竪穴式石室があって平成5年度の発掘調査では、三角縁神獣鏡をはじめ、多くの青銅鏡が出土している。古墳時代前期の4世紀初めころの古墳とされた。

ここにも万葉集が残る。
「語りつぐからにも 幾許恋しきを 直目に見けむ 古壮士」 田辺福麻呂巻9の1803

 東求女塚古墳は明治時代に阪神電車敷設の土取りで取り壊され、現在は碑が残っているのみ。

次は県下で最大の古墳「五色塚古墳へ向かう。阪神電車に「西灘駅」から乗って、途中山陽電車に乗り換えて、明石大橋のすぐ手前の「霞ヶ丘駅」まで行く。「霞ヶ丘駅」改札口から右手の通路を線路沿いにバックして行くと五色塚古墳の前方部に至る。墳丘は前方部を南西に向けた三段築成の前方後円墳で、全長194メートル、高さは前方部で11.5メートル、後円部で18メートルである。墳丘は葺石で覆われている。築造時期は4世紀末~5世紀初頭。

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五色塚古墳へ、前方部南西から。

「五色塚古墳」の呼称は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島西南部の五色浜付近から石を運んで葺かれたことに由来するという説もあったが、時間帯で変わる太陽の光によって葺かれた石が異なる色で反射することに由来するという説も出てきている、この説では築造当時から名前がついていたことになり、不自然である。古墳の表面に使われている石は明石海峡内のものとされている。
 瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族の墓と考えられている。
当時より空堀であったと考えられている堀のなかには、前方部と後円部が接するあたりの東側に1辺20メートル、高さ5メートルの方形、および後円部の東側にも高さ1.5メートルのマウンドがある。当時は石が葺かれていた。
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左:周濠のマウント、中:前方部 、右:明石大橋

1965年(昭和40年)から1975年(昭和50年)の整備事業により、造られた当時の様子に復元されている。表面にはコブシくらいの大きさの石(葺石、ふきいし)が約223万個敷き詰められているが、前方部のものは発掘された葺石を利用し、後円部のものは新たに入れたものである。当初2,200個ほど並べられていたと思われる高さ1メートルほどの筒型の円筒埴輪がレプリカで再現されている。築造時期は古墳時代中期とされている。

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円筒埴輪、左:朝顔形鰭付円筒埴輪、中:鰭付円筒埴輪、右:墳頂の説明版

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墳丘斜面の復元。左:復元に伴い新しい石を使用した、右:元からあった石を使用。
右の前方部の斜面は元の面を修理復元している。左の後方部側は旧斜面を保護して約50㎝嵩上げされている。間に階段を設置して高さの差を調整している。

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解説板、左:後円部、中:説明板、右:墳丘平面図

また、すぐ隣には「小壺(こつぼ)古墳」(国の史跡)がある。小壺古墳は直径67メートル、高さ約9メートルの円墳。墳丘は二段に築かれ、墳頂部と墳丘斜面のテラス面には、埴輪が並べられていて、多くのヒレ付円形埴輪と家形埴輪が数体分発見された。隣接する五色塚古墳と異なり、斜面には石は葺かれていなかった。また、濠の中には、土橋が設けられている。 なお、五色塚古墳は別名「千壺古墳」とも言われている。築造時期は、埴輪の形などから、五色塚古墳とほぼ同じか少し古い5世紀初め頃と推定されている。
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小壺古墳、左:墳丘、中:説明版、右:五色塚古墳墳丘から
by yumeoijyuku | 2011-09-17 20:54 | 古墳めぐり案内