古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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古代のロマン・古墳をめぐる・・その3-38

朝日カルチャーセンター現地講座 

長岡京と付近の古墳 2011.7.21

この古墳めぐりでは初めて京都府に入る。今日は阪急「西向日駅」に集合・出発となる。向日市の西方には西山連峰の山地を望み、東方京都市域には桂川が流れ、やがて大阪府に入って宇治川、木津川と合流し淀川となる。向日市には山間部がなく、面積では全国で5番目以内の狭い市となっている。

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向日市案内板:「1古墳めぐりコース」が今日のコースをほぼカバーしている

 駅から北へすぐのところに長岡宮大極殿跡がある。長岡京は桓武天皇が平城宮から都を遷そうとして水陸交通の便の良い場所を選んで遷都し784年から794年まで都であった。説明板によると長岡京の最初の発掘調査は1954年(昭和29年)に始まり、遺跡が確認された。大極殿は1959年以後宅地開発を契機に調査確認されたという。長岡京の規模は東西4.3km、南北5.3kmにおよぶ。
 遷都に反対する勢力が増大する中で、水運の便が逆に洪水を招き平安京への遷都を余儀なくされた。

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長岡京朝堂院跡。左:朝堂跡公園案内所の方が説明してくださった。右:最初に長岡京跡が発掘され、「幻の」都ではなくなった地点。 

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大極殿跡。左:全景。中:2011年3月天皇陛下が行幸された記念碑(左手前)、右:説明版

 ここから西へ向かい、向日神社の北へ出ると元稲荷古墳(墳丘全長約92m、後方部北辺幅約51m、同南辺幅約49m、同高さ約7m、前方部長約41m、前端幅約46m、同高さ約3m、くびれ部幅約23m。)に出る。古墳時代前期の前方後方墳で、数次に渡って調査・研究されている。2009年の後方部後端部の調査では墳丘裾が確認されて全長92mとされた。
 後方部墳頂には配水場が作られている。この時竪穴式石室が解体されている。鉄製武器(銅鏃・刀・剣・鏃・槍・矛・石突)や鉄製工具(斧・錐)、土師器の壷が出土している。前方部の墳丘中央には円筒埴輪と壷型埴輪のセットで埴輪が樹立していた、弥生時代の墓に供えた土器を模して作られた古い形の埴輪であることが分かっている。 このように元稲荷古墳は、墳形(古墳の形)や葺石の状態、出土した埴輪や土器などから、近畿地方における他の前期古墳の中でも、極めて特異な古い様相を示す重要な古墳であると考えられている。箸墓古墳やそれに続く神戸市の西求女塚と近似した規模を有し、大型古墳出現期の前方後方墳の性格を反映したこの地方では最も古い古墳とされている。向日市の古墳では五塚原古墳、寺戸大塚古墳が後に続く前期の古墳とされている。
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左:元稲荷古墳前方部にある説明版でお勉強、中:前方部東南部より、奥が後方部。右:説明版。

 ここから北東の向日町競輪場の東を通り、北へ行くと向日市文化資料館があるので勉強してから、五日原古墳に向かう。資料館のすぐ南の道を西に向かいしばらく行くと右手に芝山があって住宅地を北に入ったところに児童公園があって古墳への上り口がある。全長94m、後円部径54m、同高さ8.5m、前方部幅36m、同高さ4m、くびれ部の幅18mの南に開く前方後円墳。帝塚山大学の調査では後円部に東西15m、南北11mの墓穴、前方部にも東西5m、南北7mの墓穴があることがわかっている。典型的な古墳時代前期の形をした古墳であるが山の上に築造されているので墳丘の全容は掴みにくい。
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左:五塚原古墳へ、西の児童公園から上る、中:後円部墳頂、右:公園入口にある説明版。

 五塚原古墳の北に出て第6向陽小学校の東にある桓武天皇皇后陵に寄ってから第6向陽小学校の前を西に行き、「竹の道」を通って寺戸大塚古墳に向かう。皇后は第51代平城天皇、第52代嵯峨天皇の母。御陵は直径約65m、高さ約7mの円形で5世紀前半頃に築造された円墳と推測されている。

 寺戸大塚古墳は京都市が開発した「洛西ニュータウン」の南東部に接した竹林の中にあって、近くには京都市の「竹林公園」がある。墳丘全長98m、後円部径57m、同高さ9.8m、前方部幅47m、南南東に開く前期中葉の前方後円墳である。前方部は大半が失われているが説明板によると前方部は第2次大戦前に調査されている。長さ5.2m、高さ1.3m、幅0.9~1.0mの竪穴式石室が検出されていて、和製の銅鏡、銅鏃、琴柱型石製品などが出土している。後円部は1967年・1968年に調査されている。墳丘は三段築成で、墳頂には一片約8mの埴輪を巡らした方形の区画があって埋葬儀式を行ったとされる。この下に長さ6.5m、高さ1.6m、幅0.85m~0.75mの竪穴式石室があって中国製の三角縁神獣鏡、合子、勾玉、石釧、勾玉などが出土している。三角縁神獣鏡は京都府の椿井大塚山古墳出土のものと同氾関係にあり密接な関係にあったものとされた。ここの説明板は大分以前に設置されているが、立体図が描かれていてわかりやすい。
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寺戸大塚古墳、左:竹の道入口、中:左手に前方部の竹林、右:後円部北東より。

 ここから少し先へ行き、2つ目の三叉路で左に「こどもの広場」があるところを右手に入ってゆく。しばらく行くと配水場があってタンクが3つあるところの南にある小さいほうの2つのタンクの間を通る道を下る。やがて人家が現れる先の街道の一つ手前を右手(南)へ入ると「淳和天皇火葬墓」がある。第53代淳和天皇は桓武天皇の皇子で2代続いた異母兄弟の後を受けて823年~833年の間在位し、上皇となって840年に54歳で崩御している。遺言によって山城国乙訓郡物集女村において火葬され、骨は砕かれ小塩山にまかれたと言われている。御陵は西へ約6kmの小塩山(標高642m)山頂にある。

 物集女車塚古墳(全長45m、後円部径約31m、同高さ約8m、前方部幅約38m、同高さ8m、北北東に開く6世紀中葉の前方後円墳)については、現地の説明板によると。地元では「淳和天皇の霊柩車を埋めた塚」と言い伝えられてきた。
 1983年から本格的な調査が実施されている。墳丘は高台の地層の上に何枚もの土層を積み上げて30度を超える急勾配の墳丘を崩壊から守っている。
 横穴式石室の床面下部には入念に作られた排水溝があって墳丘外へと抜け出ている。改修に際してこの排水溝が再現されていて、今でも長雨の時には水が少しずつ流れ出るという。道路工事によって切断された墳丘の擁壁部に復原されている。
古墳の整備は1992年から3年を費やして行われている。石室も部分的に崩壊していたので解体・復原された、これによって築造方法も明らかになった。前方部にある説明板の台は石室に残っていた二上山の凝灰岩で作られた組合式家形石棺のレプリカで、石室内には3~4回の埋葬跡が認められた。なお、石室は毎年5月に一般公開されている。
石室からは多数の副葬品が出土している。金銅製冠や三輪玉は出土した埴輪の特徴と合わせて、埋葬された乙訓地方の王が淀川沿岸~大阪湾岸、特に紀伊周辺と関係が深いことを示している。また、滋賀県や福井県の古墳とも強い共通性がみられるという。被葬者は北陸から出てきた継体天皇を擁立した勢力と従属関係をもった支配者と思われている。

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左:物集女車塚古墳、南東から、手前が前方部、中石室開口部へ、扉があって中は見えない、右:後円部墳頂から北方の眺め、京都市方向。

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左:物集女古墳後円部、中・右:説明版

帰りは、阪急京都線「東向日駅」解散予定、JR「向日町駅」も西約600mにある。
by yumeoijyuku | 2011-07-22 11:10 | 古墳めぐり案内