古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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橿原考古学研究所友史会例会参加報告 2011.6.19

今日は時々小雨の中の古墳探索でした。案内の今尾先生は「雨には強いほうですが、今日は誰かが雨乞いをしているらしい」とのことでした。

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左:集合場所の近鉄西大寺駅付近の「ふれあいセンター」、右:今日の案内は橿原考古学研究所付属博物館学芸課長の今尾文昭先生。

最初は佐紀陵山古墳を訪問、この古墳は現在宮内庁で「日葉酢媛陵」としているが元禄の修陵の時、村役人は「神功皇后陵」と答えている。御陵として祀られていた。すぐ南に山上八幡神社があって神功皇后の子である応神天皇との関係があったのかもしれない。

幕末に西大寺関連絵図などでは今の五社神古墳を御陵としているという見解が強くなって、文久の修陵で治定かえされたという。後円部には墳頂に向かって参道があって半腹に門があって雨乞いや安産祈願がされていたという、神功陵としての信仰があった。御陵の調査はされていないが1916年(大正5年)に盗掘事件があって竪穴式石槨、方形の石垣があって直径2mの大型衣蓋、直弧文がある高さ108㎝幅80㎝の盾形、家形埴輪などの配置があることが分かった形象埴輪は大型、精巧なもので出現期に位置づけられるという。他に銅鏡5面、他の副葬品が多数あった。
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左:佐紀御陵山古墳前方部での解説、中:前方部西側渡堤、右:西側前方部側の周濠内島状張出部。

この陵山古墳と西にある佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)との間の通路を北へ抜ける。石塚山古墳は1844年(天保5年)に石棺が掘り出されて勾玉50個、1848年には棺内から朱と管玉68個を取り出したとある。絵図にも後円部墳頂に露出した長持形石棺が描かれていたという。

近鉄線路を超えて現在の神功皇后五社神古墳へ行く。五社神古墳拝所内西に8基の石灯籠があるが、神功皇后陵が佐紀御陵山から治定変えになったとき遷してきたものである。宮内庁の内規変更によって陵墓立ち入り観察の第一号となって学会代表者による“観察”を2008年2月に行っている。今日案内していただいている今尾先生もその一員として参加されている。

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左:佐紀石塚山古墳(右手)後円部周濠、北より見る。御陵山古墳後円部(左手)に接し、狭く造られている、中:近鉄線路を北へ渡って、五社神古墳へ向かう、狭かった道に歩道ができて歩きやすくなっている。右:拝所にある灯篭、佐紀御陵山古墳から治定替えに伴って移されてきた。

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左:五社神古墳前方部、中:前方部南西角、右:前方部西側面、南から見る。

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左:五社神古墳後円部、中:官民境界標、周濠につながる溜池がある、右:前方部、東から。

昼食後は佐紀古墳群西群東小支群と位置付けされた古墳をめぐる。北からオセ山古墳(ゲンオ塚、マラ塚)塩塚古墳、瓢箪山古墳、衛門戸丸塚古墳、猫塚古墳が点在する。
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左:塩塚古墳墳丘、左側の前方部が低く削平されている、中:南から墳丘を見る、右:説明版。

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左:瓢箪山古墳、中:説明版、右:奈良市の下水マンホール、

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左:墳丘へ、中:瓢箪山古墳前方部西南に接する衛門戸丸山古墳(右の竹藪)へ、右:丸山古墳墳丘は土取りによって削られている。

中央群には市庭古墳(平城天皇陵)がある。以前は最大級の大型円墳と見られていたが、1962年の調査で墳丘長53mの南面する前方後円墳であることが分かった。平城宮造営の過程では後に天皇陵として祀られる大古墳の半分を削平している。平城天皇は上皇となってからは平城京に遷り住んだ。翌、大道5年には平城京への遷都の詔をだすが嵯峨天皇方に阻止されて失敗するが、本人は平城京に滞在した。今尾先生によると昨年実施された「遷都1300年」は「環都1200年」でもあったという。この時期にまったく跡形もなく削平されてその上に宮が建てられた古墳、墳丘長100mの神明野古墳があったことも平城宮の調査で分かっている。

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左:復元された第一次大極殿と右奥に朱雀門、中:市庭古墳(平城天皇陵)、右:復元された第二次大極殿基壇と第一次大極殿。

筆者はここで途中棄権したが、佐紀古墳群の案内はこの後平城宮東院庭園を経て近鉄新大宮駅で解散となる。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2011-06-20 20:40 | 現地説明会、講演会

古代のロマン・古墳をめぐる・・その2-37 

朝日カルチャーセンター現地講座 

摂津の古墳① 2011.6.16
茨木市・高槻市の古墳

「阪急「茨木市」駅からバスで「花園東和園行」に乗車、「太田」で下車。バス停から東へ行くと継体陵古墳の手前に太田神社が有って奥に陪塚が有るので寄ってから御陵に向かった。継体天皇陵(太田茶臼山古墳。墳丘全長226m、後円部径138m、高19.2m、前方部幅147m、前方部長117m、高19.8m、幅約28~33mの盾形濠がめぐる。くびれ部両測に造出しがある)は中世以降所在不明となっていたものを元禄年間にこの古墳が継体天皇藍野陵に比定されている。
この古墳は3月に訪問した允恭天皇陵や4月に訪問した古市の墓山古墳とよく似ているので共に中期古墳とされており、最近では後で訪問する今城塚古墳が真の継体天皇陵とされていて、学会でも異論が無い。元奈良大学学長水野正好氏によると「大田茶臼山古墳の主は応神天皇の皇子稚野毛二俣王が最もふさわしい。王の娘二人は允恭天皇の皇后と妃になっており、朝廷でも枢要の位置を占めたものと思われ、継体天皇は家の全盛期を象徴する家祖の墳墓の地に陵墓を営だ。」とされる。
太田茶臼山古墳は、昭和47年に御陵外の後円部側で発掘された円筒埴輪列の時期が5世紀代のもの、また昭和61年に外堤から埴輪の破片が発掘されていて、その時期が5世紀~同末のもので有ることが分かり、継体天皇が亡くなった530年と50~80年の開きが有る。
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現継体天皇陵、左:拝所、中:南西角から後円部西を見る、右:同左、前方部

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陪塚、左:と号陪塚、右:に号陪塚

継体天皇陵の陪塚を巡った後、名神高速を北に渡り側道を東へ進むと左に小さい池が有って番山古墳がある。説明板によると直径56m、高さ7mの円墳とされていたが、濠跡などから、南西部に短い前方部を持つ帆立貝式の前方後円墳とされた。墳丘にあった埴輪などから5世紀中頃の古墳とされている。
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番山古墳、東北より

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番山古墳から北の阿武山を見る、地震観測所付近に阿武山古墳がある.*

ここから山手に行き東へ入ると「ハニワ工場公園」がある、日本最大級の新池埴輪製作遺跡が公園化されて残っている。阪急不動産が住宅地として買収した土地が一大埴輪工場跡と分かったので、高槻市が買い戻して公園として整備された。
 『史跡新池埴輪製作遺跡は、5世紀中頃から6世紀中頃までの約100年間操業していた日本最古最大級の埴輪生産遺跡で、3棟の大形埴輪工房と18基の埴輪窯、工人集落などが丘陵上に発掘調査で確認され、大王陵級の古墳の埴輪生産システムを具体的に知ることができる貴重な遺跡である。
 ここで作られた大量の埴輪は太田茶臼山古墳(5世紀中頃、茨木市・現継体陵)や史跡今城塚古墳(6世紀前半、郡家新町)といった巨大古墳をはじめとして、三島の有力者の墓に立て並べられた。窯跡から出土した埴輪片が編年され年代確定に役立っている。
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埴輪工場跡公園、左:右上に作業所、左マンション群の手前にかまぼこ型の18号窯の展示場、右:、18号窯、窯の底は何層にもなっていて更新しながら使われている。

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左:窯跡、右から1号、2号、3号*、中:3号窯跡上部に成型作業場*、右:作業場*

 史跡闘鶏山古墳へは一旦名神高速の側道へ出て左(北東)へ行き闘鶏野神社の裏手の山にある。調査中ということで墳丘には近づけないが概要を紹介しておこう。古墳は平野に突き出た丘陵先端部にある、全長88.0m、後円部径60m前後、2段築成の前方後円墳。墳丘には幅1~1.5mのテラスを含み全面が葺石に覆われていて特徴となっている。後円部墳頂は標高87mである。平成14年の確認調査によって後円部から南北に併行する未盗掘の竪穴式石室2基が発見され、大きな話題になった。第1主体石室内部のファイバースコープ調査では三角縁神獣鏡や石製の腕飾り、木棺の一部などが確認され、4世紀前半の三島の王墓と考えられている。
ここから名神高速道路沿いの南の側道を東へどんどん行くと芥川の手前にある高槻二中の西を南へ行くと群家車塚古墳(墳丘全長86m、後円部径44m、同高さ6m、前方部幅35m、同高さ4mの西に開く前方後円墳。)に出る。その西にある前塚古墳を経て今城塚古墳に行こう。名神高速道路の北側に広がる丘陵には古墳時代前期の弁天山古墳群が展開していることから、郡家車塚古墳の被葬者は弁天山古墳群に埋葬された集団の後継者的存在だったのではないかと考えられている。
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左:郡家車塚古墳、右:前塚古墳(後円部が残っている)

高槻市は4月1日に開館した今城塚古代歴史館と古墳を合わせて「いましろ大王の杜」として売り出している。先ず古代歴史館で勉強してから、古墳を見学しよう。
今城塚古墳(墳丘全長190m、後円部径100m、同高さ9m、前方部幅140m、同高さ12m、二重の濠をめぐらせた古墳の全長340m、ほぼ西に開く前方後円墳。造り出しはくびれ部の両側に有る。墳丘は中世の砦とされていたためかなり改変されているとされていたが、調査の結果大地震による崩れも確認されている。
皇統については神話を別にして『日本書紀』などから、崇神天皇に始まる崇神王朝、応神王朝、今につながる継体王朝が説かれている。『日本書紀』によると継体天皇は507年、58歳になって河内樟葉宮で即位し、手白香皇女を皇后とした、継体天皇は526年になってようやく大和国磐余玉穂宮に遷り、531年80才(『古事記』では527年40才)で逝去する。安閑・宣化天皇に続いて手白香皇后との子が欽明天皇となって、蘇我稲目の娘堅塩媛、小姉君を妃とし、蘇我氏の後盾によって継体王朝を確固たるものにする。
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今城塚古墳の「しろあと歴史館」の埴輪復元品、右:古墳上の復元模型

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左:以前に開催された石棺作成作業会*、右:出来上がった予想される複製石棺が展示されている。

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左:複製された阿武山古墳の大職冠と玉枕、古墳石室図

今城塚古墳(1958年国史跡)についてはH8(1996)年度以降、高槻市教育委員会埋蔵文化財調査センターが本格的な考古学的調査を行っていてその結果を今城塚古代歴史館に集約している。
今日は終日雨天であったが、メンバーには熱心に受講していただいた。帰りはJR「摂津富田駅」まで歩く。阪急「富田駅」はJRからすぐそこにある。

以前に撮影した写真を併用しています(*印)。
「今城塚古墳、いましろ大王の杜 古代歴史館 開館」については2011.4.1.のブログを参照してください。

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by yumeoijyuku | 2011-06-17 16:31 | 古墳めぐり案内

ツバメの子

 もう7~8年以上前になるかもしれませんが、ツバメの巣がカラスに襲われて、雛が1羽下に落ちていました。上さんが拾い上げて育てたことがあります。
まだ目が開いていませんでしたが、エサは小鳥屋さんで買ってきた「虫(名前はわかりませんが何かの小さい幼虫でした)」を口に入れてやっていました。育った頃部屋の中で飛ぶようになったの窓を開けておいたら前の電線にとまっていましたが、いつの間にか飛んでいきました、17日目でした。。その後はお礼も言ってこないので、消息は分かりません。
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by yumeoijyuku | 2011-06-13 15:39 | その他