古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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茅原大墓古墳調査現地説明会報告

桜井市教育委員会・茅原大墓古墳第4次調査現地説明会報告 2011.2.26

以下、説明会資料による。「史跡整備に向けた、古墳継体の確認調査」として2008年から行われていて、その第4次調査が2010.11月から行われた。

2009年の調査で古墳の全体像がほぼ分かって、時期も4世紀末ころのものとしている。このころの主要な古墳は奈良市の佐紀、大阪府の古市に築造される時期で、茅原大墓の主はこの地が主流ではなくなったころの盟主であったと思われ、これ以後は大型古墳が築造されていない。今回墳丘構造・周濠の形態調査を実施した。

後円部東側、くびれ部東、前方部北側において墳丘橋の斜面に葺かれた葺石が確認され、墳丘の輪郭が復元できた。後円部径約72m、墳丘全長は約86mに復元される。
前方部東側斜面の葺石と、一段目の平坦部が確認されて、前方部は2段に築成されていることが分かった。ここでは前方部上面に埴輪棺が確認されている。

今回出土した象形埴輪で盾持人埴輪、鳥形埴輪などが出土している。盾持人埴輪はくびれ部東側付近に上部から流れ落ちた状況で出土した。頭部から盾面の上半部にかけての高さ67cm分が残っていた、盾には線刻による模様があった。盾持人埴輪はこれまで50か所以上出土している。4世紀末から5世紀前半頃のもので、最も古い事例とされた。顔面表現を採用した点でそれまでの埴輪と一線を画するもので、古墳時代中期中ごろ以降に盛行する埴輪祭祀が生まれる大きな契機となったと考えられている。
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解説

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前回、第三次調査時点、左:航空写真、中:後円部二段目の円筒埴輪残部、右:墳頂部の円筒埴輪残部

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前方部のくびれ部に近いところに埴輪棺が有った、近親者のものと思われる。

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くびれ部東側を検出、埴輪の用途は不明。

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後円部東、左、中:後円部裾の葺石を検出。右:後円部への通路、墳丘は後世に改造されており、通路も階段状に作られている。

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盾持人埴輪

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桜井市芝の埋蔵文化財センターの武人埴輪(時期的には後世のもの)

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出土土器の展示、橋本さんも応援

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後円部墳頂から1、左:北西に箸墓古墳、右:発掘現場

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後円部墳頂から2、左:南西に耳成山、その左向こうかすかに畝傍山、右:逆方向から墳丘を見る
by yumeoijyuku | 2011-02-27 00:47 | 現地説明会、講演会

大和の古墳をめぐる・・その2-33

朝日カルチャーセンター現地講座
河内磯長谷の古墳

今回からは奈良県を離れて聖徳太子に関係の深い大阪府太子町の古墳をめぐり、その後しばらくは奈良県を離れ大阪府、京都府、兵庫県に足を延ばす予定です。

今日は「近つ飛鳥」と言われ奈良の飛鳥、斑鳩に関係の深い皇族が眠ると言われる大阪府太子町の古墳をめぐる。
古事記によると反正天皇が天皇になる以前に兄の履中天皇に会うため逗留中の石上神宮に行く途中にここを「近つ飛鳥」、今の明日香村を「遠つ飛鳥」と名付けたとある。そのため太子町内では国道166号に並行してここにも「飛鳥川」が流れている。これから巡る天皇・太子陵がこの谷が造る盆地に位置することから「王陵の谷」とも言われている。
近鉄長野線喜志駅からバスで「上ノ太子」行きに乗って「太子前」で降りる。聖徳太子はここの叡福寺北古墳と呼ばれる太子廟に眠るといわれている。径54.5m、高さ7m、終末期の640~650年の円墳である。
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左:叡福寺山門、右:聖徳太子廟

この古墳に本当に聖徳太子が眠っているのかどうかについては色々な説がある。①その構造は元禄年間の記録によって、石室全長12.6m、玄室長5.4m、幅と高さ3mの岩屋山式横穴式石室で、内部に石棺が奥壁に並行して1棺、手前に並行して2棺コの字形に3基配置されていて奥の石棺が母の穴穂部間人皇女・用明天皇の皇后、手前右の乾漆棺が太子、左が太子妃膳部菩岐々美朗女のものとされている。②太子墓については鎌倉期の文書に「太子の墓を探しているが未だに分からない。11世紀初頭に斑鳩寺ゆかりの寺の僧が太子墓を探したが分からなかった」とあってこの頃には太子の墓が行方不明になっていた。③10世紀末に法隆寺の僧が内部に2棺ある石室を調べた記事がある。④一方、四天王寺は3棺合葬の古墳を太子墓としている、この説には太子自身が作ったという石文「太子御記文」まで現れ現在の古墳が太子廟とされた。叡福寺の創建は12世紀末頃が妥当とする。⑤太子墓は廟前の寺によって確実に把握されてきており間違いないとする説もある。

叡福寺前のバス道を東へ2つ目の信号を右(南)へ行くと用明天皇陵が右手にあらわれる。磯長谷のほぼ中央にあって梅鉢陵と呼ばれる5つの陵墓の中心地にあたる。墳丘は東西67m、南北63m、高さ約10.5m、3段築成の方墳。江戸時代の18世紀初めの絵図に南斜面の中腹に石材が描かれていて、これが横穴式石室の天井石とみて全長15mの石室が想定されている。継体天皇の子である欽明天皇の妃で曽我稲目の娘が生んだ子が用明天皇ある。敏達天皇には皇子がいたが蘇我氏系の用明天皇が曽我馬子によって擁立されたとされている。皇后も稲目の娘と欽明天皇との中にできた子なので異母妹に当たる穴穂部間人皇女で聖徳太子の母にあたる。用明天皇は磐余池上陵に葬られた後、河内磯長谷に改めて葬るとあり、この古墳がその古墳にほぼ間違いないとされている。
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左:バス道からここを南へ行く、中:南の拝所、:御陵東側(南から)

次は孝徳天皇陵に向かう。用明天皇陵から北へ戻り先ほどのバス道を右へ行く。太子町役場を通り過ぎて国道を渡ってから竹内街道を東へ行く。右手の家屋の向うには飛鳥川が流れる。しばらく行くと左手に孝徳天皇陵が現れる。径35m、高7mの円墳とされるが地形から方墳とも見られており八角形墳の可能性もあるとされている。幕末の修陵で墳丘についても修築の可能性がある。孝徳天皇は大化の改新のきっかけとなった645年の乙巳の変の後、第35代皇極天皇の退位を受けて即位した天皇で、皇太子中大兄皇子が大化の改新を実行したときの天皇で、難波長柄豊崎宮を造営し都として執務した。皇太子が皇族や臣下を連れて大和に帰ってしまい、落胆した天皇はその翌年亡くなっている。
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左:竹内街道、中:孝徳陵入口、右:拝所

次に第33代推古天皇陵へ行く孝徳天皇陵から南へ飛鳥川を渡って、国道166号を横断して南へ行く。民家の間の道を南・西へ行くと家の途切れたあたりの田圃の向うに墳丘が見える。手前に二子塚古墳がある、方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式をしている。東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横穴式石室があり、蓋の縄掛突起が退化したカマボコ形を呈する家形石棺がそれぞれの石室に納められている。地元では「本墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがあります。」としている。七世紀中ほどの古墳とされ、時期的には合うが規模が小さいので天皇陵とするには無理がある。
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左:二子塚古墳へ、中:北墳石棺(蓋部分が見える)、右:説明板

推古天皇陵は東西61m、南北55m、高さ約12mの東西に長い方墳で、三段に築造されている。最上段は東西約45m、南北約36m、高さ約2.5mの中段上部に周囲約4mの平坦面を残して乗っており、東西約33m、南北約25m、高さ約7m、頂部には約10m×約6mの平坦面を持つ截頭四角錐形をしている。長方形の墳形は珍しく、頂部の形から複数の石室を計画的に設置するものである。江戸時代の文書に『南に開口する石室に入ると石棺が二つあって、推古天皇と竹田皇子のものである』としている。推古天皇は死ぬ時に「御陵は作らずに子の竹田皇子の墓に葬ってくれ」と言い残したので、大和の飛鳥付近にあった竹田皇子の墓に一旦葬られたが、後日子と一緒にこの地に移ってきたとされている。薄葬を願った天皇の意思に反して御陵を築造したのは磯長谷一帯に勢力をもつ蘇我氏の権勢の誇示とされている。蘇我氏の勢いが健在な舒明天皇のときに推古陵が築かれたことはほぼ間違いないこととされている。
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推古天皇陵

第30代敏達天皇陵へは推古陵の西の道路を北へ行きすぐの三叉路を左(西)へ行く、葉室のバス停を過ぎて太井川を渡ったあたりのY字路を左へとって、突当たりを左へゆくと敏達天皇陵の拝所に行ける。全長94m、後円部径約56m、高さ約11m、北西に向けた前方部幅約70m、高さ約12mの前方後円墳で周囲に幅8m、深さ約4mの濠と幅約6mの外堤を持つ。過去に後円部で大きな石材が有ったといい、横穴式石室の部材と推定されているが位置等は不明。6世紀初頭に造られたとされる羽曳野市の峰ヶ塚古墳と大きさ形が似ているので敏達天皇と時期が合わないという説があって、他に求める説もある。この頃から天皇陵は前方後円墳から方墳に変わっていく。南河内の石川流域は蘇我氏の発祥の地とも考えられ、傘下の渡来系氏族が居住する勢力の基盤となる重要拠点である。政治的地位の安定や強化を図るため、天皇家との姻戚関係を結び、同時に天皇陵の造営や葬送の祭儀を主導することも、重要な政治手段として意義づけていたようである。
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敏達天皇陵参道

近くにある「府立近つ飛鳥博物館(白石太一郎館長)」には古代の遺物が展示されており古墳の勉強にも役立つので時間があれば見学するとよい。なお、博物館の南一帯は小規模の群集墳「一須賀古墳」が築かれているので帰りのバス亭に行く途中に寄って行こう。バスは「阪南ネオポリス」から近鉄喜志駅に向かう。
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近つ飛鳥博物館
by yumeoijyuku | 2011-02-18 22:12 | 古墳めぐり案内

飛鳥京苑池現地説明会 2011.2.6

飛鳥京跡苑池第5次調査現地説明会  2011.2.6

橿原考古学研究所による飛鳥京跡苑池の現地調査説明会が有ったので行ってきた。
1999年6月に噴水機能のある石造物が出土したということで話題になった池である。
苑池の「保存整備事業」の基本構想を計画するために行われたたものである。
今までよく判っていなかった北池の範囲確認が主目的であって今回確認できた。南北46m~54m、東西33m~36mで南北に長い。なお南池は東西約60m、南北約55mと分かっている。この北池の東側には砂利敷の広場が有った。
また、北池の深さは3mあって底には腐食土が1m以上堆積していた。池は7世紀中頃に作られ出土した土器から鎌倉時代までに埋まったとされた。
今後も調査を続け、苑池全体の形状や内部施設の構造を調べる調査を予定している。保存整備事業に寄って当時の上流階級の優雅な池遊びがしのばれるものとなることを期待したい。

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説明会会場の伝・板葺宮跡

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解説の橿原考古学研究所卜部さんと解説風景

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調査場所図

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左:東から、奥右手は甘樫丘。右:南から、前方中央に飛鳥寺。

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左:左手の石列が北池の北岸、右手(中央部)が東岸、この奥に砂利敷が広がっている。右:手前の石敷が池の底、深さは3mあった。

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左:南池の南端部、人の集まっているあたりに説明板が設置されている、西から撮影。中:1999.6現地説明会時点、この後右手奥に説明板が設置された。右:同説明会時点、噴水の石造物が見える。

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左:南池南端にある説明板。中:噴水の石造物が有ったところ。右:その石造物、当時撮影。

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出土土器

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by yumeoijyuku | 2011-02-07 23:28 | 現地説明会、講演会