古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


by yumeoijyuku

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

カテゴリ

全体
現地説明会、講演会
古墳散策
古墳めぐり案内
散歩
その他
お勉強
古墳
現地説明会、講演会

以前の記事

2015年 03月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 06月
2014年 04月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2007年 12月
2006年 12月
2006年 10月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 09月

フォロー中のブログ

KOTOコレ2016

タグ

(85)
(60)
(40)
(33)
(30)
(26)
(20)
(20)
(17)
(17)
(14)
(12)
(12)
(10)
(9)
(9)
(9)
(9)
(9)
(6)

その他のジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

<   2010年 11月 ( 5 )   > この月の画像一覧

御所市秋津遺跡現地説明会報告 2010.11.28

御所市秋津遺跡現地説明会 2010.11.28 

京奈和道自動車道(京都~奈良~和歌山)建設に伴う遺跡調査が橿原考古学研究所によって継続して行われている。今回はインターチェンジ予定箇所の調査で、かなり広い範囲にわたって発掘された。2009年度の調査で今まで知られていなかった方形に区画された施設が検出され、古墳時代前期(4世紀前半)に活動の中心期があり、近くにあってこの地方の豪族葛城氏のものとされる宮山古墳より古くそれ以前の初期の段階の遺跡とされていた。
「秋津」は日本全体が「秋津洲」とも言われている。御所市の中心部にあった「秋津村」は1954年に御所町と合併している。橿原考古学研究所の斉藤部長は古墳時代前期の大規模遺跡なので地域の名前でなく大きな名前を付けたと説明されていた。
e0080110_15171069.jpg

付近では高速道路の工事が進んでいる。右は南の巨勢山を貫くトンネル工事現場

以下橿原考古学研究所の「御所市秋津遺跡現地説明会資料2010.11.28」による。
e0080110_15181961.jpg

説明中


e0080110_16334449.jpg

発掘区域(結合写真、手前の通路は直線の通路)東から.正面は葛城山、左手は金剛山。右端は展望台兼説明箇所からの見学者)

今回の調査は2009年度調査の南側隣接区での調査で、方形に巡る「方形区画施設」の全容解明を狙って調査されたものである。
方形区画施設は前年の3基に加えさらに3基が確認され計6基となった。方形区画施設3.2.6はこの順に建設されたことがわかった、いずれも古墳時代前期(4世紀前半ころ)のものでほぼ同じ区域内にしかも南辺をほぼ同じ位置に固定して(その南には方形区画施設4がある)20~30年毎に作りかえられている。
e0080110_16131780.jpg

方形区画施設の南端、3,2,6区画とも同じ位置になっている。

e0080110_1034022.jpg

左:方形区画施設(平面図をもとに作図)、中:同左の区画、右図の拡大、右:発掘区域(中央から右は2009年度の箇所)
その中には掘立柱建物や梁行7mもあるような大型建物と思われる跡が検出されている。
これらの方形区画は径5cmほどの細い丸太を打ち込んだ溝状の施設に囲まれており、所々で丸太の列を太い柱で挟み込んだ柴垣の様な設備で囲まれていた。
e0080110_16154965.jpg

e0080110_15561265.jpg

左右とも溝状施設、〇印が丸太杭の跡

以下は出土遺物。土器は布留式1,2が中心で4世紀前半ころのもの。

e0080110_15565514.jpg

e0080110_15572985.jpg

e0080110_1557525.jpg




遺構群の性格は祭場、首長の居宅とも考えられるが、「機能的に限られた使い方をされるような特殊な空間であったことは間違いない」。その規模は南北約100m、東西120m以上となる。
古墳時代中期になって突如葛城氏が台頭し巨大前方後円墳である宮山古墳を造るが、その前段階を、秋津遺跡は雄弁に物語っている。
by yumeoijyuku | 2010-11-29 16:18 | 現地説明会、講演会

橿考研友史会例会参加報告 10.11.21

巨勢谷の古墳

 今日は橿原考古学研究所友史会の11月例会で高取町、御所市の「巨勢谷の古墳」を案内してもらった。
近鉄吉野線「市尾駅」付近の市尾墓山古墳に集合。橿原考古学研究所の岡林先生の案内で高取町市尾から御所市古瀬まで、曽我川沿いの巨勢谷を歩く。この付近の古墳は葛城氏衰退後の奈良盆地南部に勢力を持った古代豪族巨勢氏の首長の墓と見られている。

市尾墓山古墳は前方部を北西に向けた全長約70mの前方後円墳。二段築成で周濠、外堤を持つ。後円部の中央に玄室長5.87m、全長9.5mの横穴式石室が有って、家形石棺が残っていた。奥壁の奥に羨道状の通路が設けられており、奥壁のところで閉塞されていた。6世紀初頭~前半の築造とされている。
e0080110_2047760.jpg

・市尾墓山古墳後円部、東南から

e0080110_20485082.jpg

・説明板1

e0080110_20491222.jpg

・説明板2

e0080110_20501971.jpg

・今日案内していただいた橿原考古学研究所の岡林先生

e0080110_20511061.jpg

・市尾墓山古墳後円部、東から。墓山の紅葉は斜めに立っている?

e0080110_20521412.jpg

・同上全景右手の後円部上段に開口部が見える、南西から

e0080110_20525061.jpg

・同上開口部、今日は扉が開かれていた。

e0080110_20533679.jpg

・石室奥壁、奥壁右部分が奥の通路に通じる閉塞石の壁になっている。

e0080110_20561680.jpg

・刳抜式家型石棺、二上山白色凝灰岩製。蓋の盗掘孔は保護のため補修されている。内部全面に鮮やかな赤色顔料が塗られていたという。

この後高取町歴史研修センターで市尾墓山古墳出土品他を見学した。
e0080110_20574539.jpg

・周濠から出土した鳥形木製品

e0080110_20583031.jpg

・同上石見型木製品

次に墓山古墳の西南約250mの小山にある天満神社境内「市尾宮塚古墳」に向かう。全長約44mの前方後円墳で前方部を東北に向ける。
e0080110_20592742.jpg

・市尾宮塚古墳説明板と刳抜式家型石棺、二上山白色凝灰岩製。

e0080110_2102076.jpg

・同上、後円部北北西に開口する。

e0080110_2112253.jpg

・御所市の権現堂古墳へ向かう。参加人員約160人。
途中、新宮山古墳、巨勢寺跡の近くを通るが素通りした。

権現堂古墳は天ノ安川神社境内にある径約30mほどの円墳であったとされるが原型をとどめず前後が崩れた横穴式石室と中に刳抜式家型石棺一基が残っていた、縄掛け突起は初期の特徴である楕円形で太く頂部平坦面が狭い。他にもう一基あったらしく縄掛け突起の一部が残っていた。古墳は6世紀初頭~前半のもの
e0080110_2121666.jpg

・権現堂古墳石室後部、羨道部はこの反対側南東にある。石室奥壁側の刳抜式家型石棺、二上山白色凝灰岩製、羨道側の内部に石枕が造られていることで有名。石室は崩壊防止のため鉄骨で補強されている。

この後一行は御所市古瀬の水泥南古墳、水泥塚穴古墳へ向かった。朱雀は所用のため離脱して「下市口駅」から返った。水泥の古墳については「奈良の古墳めぐり・・その24」(2007.11.18UP)参照。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2010-11-24 21:19 | 古墳

大和の古墳をめぐる・・その2-30

斑鳩町とその周辺の古墳①   2010,11,18

今月は斑鳩町の古墳をめぐる。訪問に便利なようにJR王寺駅北側からバスで「法起寺口」まで出て近くの「駒塚古墳」から始めよう。
後で訪問する瓦塚1、2号墳と共に斑鳩の3基の前方後円墳の内最後に造られたものである。現状での長さは49m、前方部は大きく削り取られている。江戸時代の説話によると、聖徳太子が崩じたとき愛馬が悲しみのあまりその墓の前で殉じたので、哀れに思った人びとがここに塚をつくり手厚く葬ったとされている。聖徳太子は馬に乗って筋違道を飛鳥へ通ったと伝えられている。墳丘には葺石の一部と土器片があったが埴輪は確認されていない。駒塚古墳が築造されたのは5世紀前半とされており築造は太子の時代より大きく遡る。またこの古墳の南にみえる「調子丸古墳」はこの駒の馬丁が眠っていると言われている。2000年の調査で北約5mのところから土馬の頭部が発掘されている、推定全長は約30㎝。2基の古墳は古くから塚として認識されていた古墳である。

中宮寺東の交差点を北へ行くと、建物が途切れた辺りの右手に遊休地のようなグランドがあってそのすぐ北に一段高い区画が有って森が見える、これが中宮寺跡である。斑鳩町によって発掘調査が続けられている。今回の13次発掘調査では、三重塔(高さ20m)の心礎と、心柱を立てるための櫓跡(やぐらあと)が見つかっている。
e0080110_22213220.jpg

左:中宮寺跡地、西から、右:発掘調査中

 ここを北へ行き、法起寺への進入路のある信号のある変形交差点を北へ入って行くと右手の塀に「瓦窯跡」の説明板がある。「地下式有階有段(ゆうかいゆうだん)登窯」で窯内からは丸瓦と平瓦が出土している。この窯跡のすぐ上に瓦塚2号墳が有る。東面する前方後円墳で1976年(昭和51年)の調査で全長95m、後円部径60m、前方部幅45mと計測されている。鎌倉時代の初期に法隆寺の学僧が表したとされる『古今目録抄』 (『聖徳太子伝私記』ともいう)にある「瓦塚」に当たる。築造は1号墳と同じ5世紀前半頃と推定されている。2号墳の墳長からの眺めが良い。

 この古墳と後円部が接するように「瓦塚1号墳」が有る。これは前年の1975年に調査されている。前方部を北北東に向けた前方後円墳で全長97m、後円部径60m、高さ8m、前方部幅47m、高さ2m。墳丘は二段に築造されていて、各段の裾部には埴輪列とその内側には葺石も整然と検出されている。埴輪列は円筒埴輪を主とし、壺形、朝顔形埴輪も有った。後円部には家型、鳥形の象形埴輪片が散乱していて祭祀跡と判断されている。5世紀前半のものと推定されている。2号墳のすぐ南に直径約40mの3号墳が有るがこれが最後に造られた模様。

 さきほどの信号のある変形交差点に戻って今度は右手(西)に進む。左手にさきほどから見えている三井岡原遺跡(弥生時代後期低丘陵性集落)の丘の頂部に富郷(とみのさと)陵墓参考地とされている径30mの円墳がある。聖徳太子の子の山背大兄の墓との伝承がある。墳丘から埴輪片が採集されていて、古墳時代中期の築造と考えられており、643年に蘇我馬子に攻められて自害して亡くなった山背大兄王とは時代に大きな開きがある。
e0080110_22221847.jpg

左:富郷陵墓参考地(北より)、右:説明板

法輪寺のところから南へ行くと右手の森が中宮寺の墓地になっているが樋崎(ひいざき)古墳群と呼ばれる小規模の円墳10基ほどの古墳群があるが詳細不明。
片野池のところを右手(西)に行くと突き当たる天満池を左(南)から回りこんで北へ向かうと、右手に「仏塚古墳」が見える、田圃の中なのでよく分かる。1976年(昭和51年)に斑鳩町教委の依頼によって橿考研が調査している。現状で南北16m、東西18mの方墳であるが、調査の結果空堀をもつ一辺23mの方墳と分かった。南に向かって開口する横穴式石室式は花崗岩の自然石を積み上げた両袖式で、玄室長3.9m、幅2.2m、高さ2.7m。羨道は長さ5.5m。石室床面に河原石を敷き詰め、玄室の周囲と羨道の中央部に蓋石を持つ排水溝があった。土師質の陶棺の破片があって亀甲形陶棺が二棺以上有ったことが分かっている。開口部には施錠された扉があって中に入れない。石室内の出土遺物は古墳本来の遺物よりも後の時代の仏教遺物が多く、注目された。
e0080110_22231797.jpg

左:仏塚墳丘、中:開口部付近、右:開口部

古墳は石室に巨大な石材が使用されていることと、出土した須恵器の形式から6世紀後半から末にかけて築造された。その後、いつか開口した石室が石の堂として利用され中世の長期に亘って信仰の場として使用され続けていて、時には納骨堂として利用された可能性もある。被葬者については聖徳太子の妃を出した在地の豪族、膳臣氏との関連を想定する説がある。
e0080110_22235585.jpg

左:石室奥壁、右:左側壁、奥から、右手が入口

仏塚古墳から南の山沿いに西、南西にとると車道がいよいよ細くなる辺りで左の山の中へ入る道がある。この細道をそのまま南へ行くと法隆寺の西端を行くことになる。法隆寺の門の南を通る東西の道路を右(西)へ行くと復元された藤ノ木古墳に出る。
藤ノ木古墳は、径48m、高さ9mの円墳。玄室長6.3m、羨道長8.2m、さらに長さ5.5mの墓道が付くので総長は約20mとなる。06年11月から一般公開に向けて整備工事が実施されたし08年3月に完成した。
藤ノ木古墳は1985年の発掘調査で透彫りのある金銅製鞍金具ほかが発掘され、さらに88年には密封状態を保っていた凝灰岩製の刳抜式家型石棺が開かれ人骨とともに夥しい副葬品が取り出された。これらの副葬品は一括して04年に国宝に指定されている。復元されたものも含めてレプリカが近くの「斑鳩文化財センター」に展示されている。
e0080110_22245442.jpg

藤ノ木古墳(復元)全景
e0080110_22261100.jpg

開口している羨道部には扉が有って入れない。

  2008.3に整備工事が完成した藤ノ木古墳の近くに斑鳩町「斑鳩文化財センター」が2010.3に開館している。藤ノ木古墳関係出土品(レプリカ)が展示されている。(今月は「特別展」のため有料300円)。
e0080110_22265820.jpg

文化財センター、左は複製された石棺、以前藤ノ木古墳の前に置かれていたもの

斑鳩大塚古墳へは斑鳩町役場の国道を越えた南にある斑鳩小学校の東側の細い道を南へ入って裏手に出てさらに細い道を南へ行くと殉国碑が立つ斑鳩大塚古墳に出る。径35m、高さ4mほどの円墳であるが殉国碑建設で改変されている。1954(昭和29)年に殉国碑建設中に粘土郭が現れて緊急調査されている。全長7.5m、幅1.5mの規模と推定された粘土郭の中には幅約60cmの割竹形木棺が安置されていたと推定された。この粘土郭が中央より南に寄っているので他に粘土郭があったのではないかと思われている。古墳時代中期の古い時期、4世紀末から5世紀初頭と推定され、斑鳩町他この付近では最も古い古墳に属するとされた。
e0080110_22273429.jpg

左:斑鳩大塚古墳、後円部、右全景、南より

帰りは「斑鳩町役場前」バス停までが近いが、JR「法隆寺駅」までは約1kmで行ける。
by yumeoijyuku | 2010-11-22 22:35 | 古墳めぐり案内

楠公父子の別れ、桜井駅跡  2010.11.10、11(変更)

桜井の駅跡のリクエストがあったので写真で紹介しておきます。なお「桜井駅跡」の詳細については「ウイキペディア」を検索してください。
場所はJR「島本駅」のすぐ前に有って誰でも迷わずに行けます。

e0080110_23252162.jpg

島本駅、2008年に新設された。この右の森が桜井駅跡

e0080110_1685612.jpg

桜井駅跡、この交差点の左に島本駅がある。この道は「西国街道」で京都方面を見ている、「案内図」の下を通っている道。交差点は図の左下に位置する、JRは上部を走る。

e0080110_1695424.jpg

史跡の碑(大正10年)、父子像の右奥に楠公父子訣別之所碑

e0080110_2239525.jpg

国指定史跡桜井駅跡 説明板

駅跡には明治以来記念の碑がいくつも設置されているので、ここに設置されている「桜井駅跡案内図」の順にしたがって幾つか紹介しよう。
e0080110_1635412.jpg


e0080110_16111541.jpg

・①楠公父子訣児之碑、左:表は西国街道に向かっている、中:英文(裏)

e0080110_16114912.jpg

・②忠義貫乾坤碑

e0080110_16121612.jpg

・⑤明治天皇御製碑

e0080110_16304469.jpg

・⑪楠公父子訣別之所碑

e0080110_2247825.jpg

・⑬楠公父子別れの石像

e0080110_16313616.jpg

・⑭楠公六百年祭記念石碑


<写真はクリックすると拡大します。>
by yumeoijyuku | 2010-11-09 23:27 | その他

島本町歴史文化資料館 特別展

島本町歴史文化資料館 2010.11.07
町制施行70周年行事の一環で、島本町の歴史を展示していたので見に行ってきた。

目玉は「神像(伝 聖徳太子七歳像)」で今年の四月に町指定文化財第二号となったもの。第一号は「水無瀬駒」で中将棋の駒で普通40枚組であるが、92枚組のもので、大山康晴名人がこのまれていたという。

神像は当地の氏神さん「若山神社」に伝わるもので、平安時代後期の作と伝えられている。今日7日だけ展示。日頃は大阪市の美術館に預けているので一般町民には見ることができない。
e0080110_2074621.jpg

e0080110_2065070.jpg

伝聖徳太子七歳像、館内説明にあった三態図。一木彫座像で中刳は無い、膝下部は腐朽して欠落している。上部の状態は虫食い、ひび割れがあるがよい方である。法量:像高35.6㎝、肘張24.0㎝。
e0080110_20838100.jpg

館内展示、撮影禁止。展示状態を写させてもらった。照明は遠くから遠慮がちに投光されていた。

今年1月発掘現地説明会のあった鎌倉時代の屋敷跡の資料も展示されていた。後鳥羽上皇の水無瀬離宮と時期的に合う、その上に当時貴重な舶来の焼き物が出土していて少なくても関連施設であることは間違いなさそうである。
e0080110_20442146.jpg

解説
e0080110_20125884.jpg

調査現場
e0080110_20132915.jpg

出土瓦(軒平瓦)、舶来陶器

資料館の向かいは「楠公父子の別れ」で有名な「桜井駅跡」である
e0080110_2025768.jpg

父子の別れ像
e0080110_20264380.jpg

当時の集印用印


島本町歴史文化資料館の催し案内(JR島本駅前)
1、奈良大学生による解説・体験実習「赤外線で文字を読もう」
  11月14日(日)10時~12時。
2、奈良大学 西山要一教授講演「科学の力で文化財を見、そして伝える」
  11月23日(火・祝)14時~16時、参加料200円。
by yumeoijyuku | 2010-11-08 20:46 | お勉強