古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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橿考研友史会例会参加報告 10.07.18

忍坂・朝倉周辺探訪

梅雨が晴れて真夏の太陽が照る中、会員約170人が近鉄大阪線「大和朝倉駅」に集合して例会が実施された。

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朝倉駅前
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駅からの遠望、中央やや右に二上山、やや左に耳成山。

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 先ず、ご案内の奈良県立橿原考古学研究所所長松田真一先生の概要説明

 今日は桜井市の東部、大和川上流部の初瀬川に合流する竜谷川と寺川に合流する粟原川に挟まれた外鎌山(とがまやま)周辺部と粟原川を少し遡った当たりの南部を歩く。
 最初は駅から南に小山を回り込んだところ、住宅団地の北西隅にある公園の山手に移築されている忍坂(地名は忍阪)1,2,8,9号に向かう。8号墳は直径18mほどの円墳ないしは多角形墳と考えられている、室生安山岩の板石を使った磚槨墳で残存部の状況から平面が六角形でわが国では例のない特殊な構造であることが判明している。出土した須恵器、土師器などから7世紀中葉から後半のものとされている。9号墳も径約18mで8号墳と同じような石室と考えられている。両墳は背後の斜面や距離関係を発掘された状態に維持して移築復元されている。金網の囲いと役に立っていない扉がある、また雑草が生い茂り石室の構造も見とれず写真に撮れない。移築最初は整備されていたと思われるが、住宅開発に押されて移築しているがその後の保全が行き届いていない。他に1、2号墳が移築されている。外鎌山周辺に位置する古墳群は「外鎌山古墳群」と総称され約90基にのぼる。
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8,9号墳の隣に移築されている忍坂1号墳

 途中、赤尾熊ヶ谷古墳群の所在地を展望して赤坂天王山古墳に向かう。宇陀へ向かう国道166号を東へ行く。南に「くらはし」と書かれた倉橋溜池の堤を見ながらその先の「下尾口」バス停のT字路を堤の方へ入る。坂を上る途中で下り尾の集落への分岐路があるところで、①天王山→越塚コースと②その逆のコースに隊を二つに分れて見学することになった。①班はまず赤坂天王山古墳に行く。一辺約45mの方墳で史跡に指定されている。石室が南に開口し長さ約15m玄室高さ現状で4.3mを図る巨石を用いた横穴式石室である。石室には二上山の凝灰岩製刳抜式家形石棺が現存する。6世紀終末頃のものとされていて崇峻天皇陵とする研究者が多い、幸い御陵指定から外れて誰でも見学できる。羨門部に閉塞石が残っていて入り口が狭いが中は広い。
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天王山古墳開口部付近

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左:石室奥壁、下に石棺蓋がみえる。中:刳抜式家型石棺羨道より、手前に盗掘孔。右:盗掘孔より石棺内部を覗く(いずれも2009.8.7撮影)

 昼食の後、越塚古墳へ向かう。下り尾の集落の坂を登りきった辺りを左へとると先に民家があってその裏山に直径約40mの円墳がある、方墳の可能性もあるという。高さ約5mと言うが山裾にあって墳丘はよくわからない。全長約15mの横穴式石室が南西方向に開口している、開口部が大きく入り易い。石室には大形の自然石が使用されている。竜山石とされる組合式家形石棺の底板2枚が残っていて、3枚あるうちの手前の一枚が残っていなかった。6世紀後半から終末の築造とされる。
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越塚古墳、左:この家の裏山に開口している、中:開口部、右:石室の石棺底、3枚の内手前の1枚が無い
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石位寺の手前、忍阪東交差点。日照りが続く中行列が延々と続く

 この後、石位寺で重要文化財に指定されている「三尊石仏」を拝観させていただいた後、忍坂段ノ塚古墳(舒明天皇陵)に向かう。墳丘は特殊な形をしている。前方部幅105mの前方後円墳を縦に圧縮し後円部に当たるところに八角形と思われる二段築成の墳丘を重ねたように見える。この上部墳丘の規模は高さ約12m、対角線距離は約42m。前方部の方形壇最下段前面には花崗岩を用いた列席が並べられている。皇極・斉明天皇の夫で641年に亡くなり翌年埋葬された舒明天皇陵である可能性は高いと言われている。
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舒明天皇陵①
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舒明天皇陵②
 その後で弥生時代と古墳時代の遺構が発掘された忍坂遺跡付近で説明のあと、一行は脇本遺跡へ向かったが朱雀はリタイアして朝倉駅から帰途についた。松田先生、友史会世話役の方ありがとうございました。
by yumeoijyuku | 2010-07-23 16:27 | 現地説明会、講演会

大和の古墳をめぐる・・その2-26

馬見丘陵と周辺の古墳① 2010.7.15

馬見丘陵中央部の古墳

 前日までの梅雨空から降雨を思い止まっている感じの空模様の中、近鉄大阪線「五位堂」から「馬見北1丁目」行きのバスに乗り、「馬見北9丁目」で降りる。バスが来た道をそのまま北へ、次の信号を右(東)へ入ると左手が野史跡公園で牧野古墳がある。古くから石室が開口していて、花崗岩の巨石を用いた横穴式石室として知られている。南北径55m、東西径48mで変形な円墳である。両袖式の石室で全長17.2m、玄室長7.0m、幅3.3m、高さ4.5m、羨道長10.2mと大きく県下でも屈指の大きさで、石舞台古墳の石室と比べても遜色がない。床には一面に小さい石が敷き詰められている。玄室奥には家形石棺の蓋、玄室の前の部分には凝灰岩製の石棺があったことが分かっている。奥の石棺は兵庫県の竜山石、手前のものは二上山の凝灰岩製であった。馬具、須恵器多数、鉄鏃、ガラス小玉などが出土している。6世紀末~7世紀初めのものとされていて、継体天皇の孫にあたる敏達天皇の皇子「押坂彦人大兄皇子」の墓として矛盾は無いという。
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牧野古墳石室、石棺の底部分と蓋部分が置かれている 
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説明板

ここから東北に300mほどの所に佐味田宝塚古墳がある。前方部を北東に向けた前方後円墳で、前方部に説明板がある。1985年に調査されていて、全長約111.5m、後円部径約60m、前方部幅約37mを測る。墳丘の主軸と直交して粘土床の上に木棺を据え、周りを粘土でつつみ、周囲に小石を積み上げ、四方に排水施設を備えた粘土郭があったと考えられている。1880年台に盗掘を機に調査されていて30面を超える銅鏡の他に、管玉、勾玉の玉類、鍬形石・車輪石・石釧といった腕飾り、合子、滑石製の刀子・鎌・斧・剣などの模造品などが出土し東京国立博物館と宮内庁が所蔵している。鏡を多数出土した古墳として全国トップクラスである。特に直径22.7cmの家屋文鏡はこの古墳を代表するもので4戸の家屋が描かれていて有名。4世紀末から5世紀初頭のもので馬見丘陵にある前方後円墳としては最古のものとされている。
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説明板の前でお勉強

次は三吉石塚古墳へ行く。東向の帆立貝式で、馬蹄形の周濠と外堤があって全長は62mとなる。埴輪から古墳時代中期後半のものとされている。古墳は遺構を盛土で保護した上に築造当初の形に復元された。筒型埴輪、朝顔形埴輪も復元されている。当然樹木は無く、葺石が整然と貼り付けられている。
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三吉石塚古墳、左:墳丘、中:復元埴輪列、遠景は二上山、雄岳と雌岳が重なっている、左:墳頂より東の新木山古墳を臨む

 三吉石塚古墳のすぐ東に新木山古墳がある、と言うより石塚古墳が倍塚である。東面する前方後円墳で全長約200m、後円部径約117m、前方部幅約119mで西側の括れ部には造り出しが認められる。20m~25mの周濠も残存する。円筒埴輪、葺石が有ったことが記録されている。宮内庁に勾玉、棗玉、管玉が保管されている。古墳時代中期のものと判定されている。陵墓参考地で入れないが東の前方部から接近できる。
次はいよいよ今日最大の巣山古墳に向かう。新木山古墳の前方部から北へ抜けてゆくと讃岐神社のところで巣山古墳の後円部に出る。
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左:讃岐神社本殿、右:かぐや姫伝説の地

 巣山古墳は全長約220m、後円部径約130m、高さ約19m、前方部幅約112m、高さ約16.5mで馬見丘陵の中央部に位置する北北東に向く大型前方後円墳で、馬見古墳群の中心的な古墳である。周濠、外堤を含めると全長333m、全幅245mとなる。古墳時代前期末の4世紀後半から5世紀初めに築造された葛城地域の王墓で後円部に竪穴式石室が確認されている。広陵町教委によって数次に亘って発掘調査がされている。03年10月の発表では、前方部北西の周濠で墳丘からの渡り土手がある全国でも類例の無い島状の突き出し遺構が確認された。この遺構の南辺から南西方向、北辺から北西方向に角状に幅3m、長さ3~4mの突出部が付いていた。水鳥、家形などの埴輪が出土していて祭祀場と見られる。
06年2月には長持形の木棺の蓋や舟形木製品が出土したと発表された。長さ約2.1m分あったが復元予想では長さ4m、幅1mとされた。この木棺とされた部材は2008年5月に構造船の波除板と発表された。現代の天皇家の葬礼でも、納棺は「お舟入り」と呼ばれる。広陵町文化財保存センター所長の河上邦彦神戸山手大教授は「殯の後、遺体を納めた木棺を舟に載せて古墳まで運び、古墳の石棺に移したのだろう」としている。
この古墳は周濠を持ち全長300mを越す大古墳でありながら御陵指定を免れた古墳で大阪府高槻市の今城塚古墳と同じように前方後円墳についての貴重な遺跡で、昭和27年に国の特別史跡に指定されている。佐紀から河内へ移動する時期に築かれたとされ、その時期は4世紀終わりから5世紀にかけてではないかと考えられている。大阪府藤井寺市の津堂城山古墳とほぼ同時期の築造と考えられ、周濠内に島状遺構を設け、水鳥形埴輪を配置している点は非常によく似ている。墳丘は3段築成で、葺石や円筒埴輪列が巡らされ、後円部頂上と前方部に竪穴式石室の石材と見られる板石が散乱していた。外提の西と南側に、外提と同じ幅の周提帯があり、その外側に円筒埴輪列があったことが確認されている。
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馬見丘陵公園の古墳

以降の古墳は奈良県馬見丘陵公園の中にあって公園として整備されている。
先ず一番南には三吉2号墳がきれいに復元されている。北を向く帆立貝式の古墳で長さ90m、後円部径78m。前方部幅41m。
佐味田ナガレ山古墳は全長約105m、後円部径約64m、前方部幅約71mの南面する前方後円墳である。埋葬施設は盗掘のため不明であるが、後円部、前方部墳頂の盗掘あとに石材が全く見られなかったことから粘土郭または木棺直葬であったと推定されている。葺石や円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋、家形埴輪はよく残っていた。墳丘は復元されていて往時の威厳がしのばれる。東半分の墳丘裾と中段に埴輪を復元している、素焼のものとFRP製で復元されている。前方部のくびれ部寄りに2列の埴輪が墳丘に向かって配列されていて通路に当たる。造り出しへの出口も設けられていた。古墳時代中期前半(5世紀前半)のものと見られ史跡に指定されて土取による破壊から守られた。
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復元されているナガレ山古墳
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左:説明板と墳丘、右:墳丘上で展望を楽しむ


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 途中資料館に寄った後乙女山古墳に向かう、

乙女山古墳は代表的な帆立貝式古墳で1986年の調査で全長130m、後円部径104m、池や耕作跡の状況から幅約30mの周濠が有ったと判明した。前方部長は幅52m、長さは28mと短いのが帆立貝式の特徴である。また前方部の形が後円部に方形の造り出しを取り付けた形になっている。帆立貝式古墳には他に前方後円墳の前方部のように開いて短いものがある。墳丘には円筒埴輪や葺石が散乱していたが遺構は明らかになっていない。後円部中央から大量の滑石製勾玉、刀子、斧などの模造品が出土している。粘土郭の埋葬施設があったらしい。墳丘西南部に幅24m、長さ10mほどの造り出しが設けられていた、ここに葺石、円筒埴輪がよく残っていた。埴輪は小さいものが密にならべられ、埴輪列の内側には礫を一面に敷き詰め、その上面に家形埴輪2棟ほかが検出されている。乙女山は「お留山」のことで立入禁止区域であったらしい。
 この古墳の北には同じく典型的な帆立貝式、全長92m、後円部径80.6mの池上古墳があるが公園整備中で見学できなかった。この付近には三吉2号墳、狐塚古墳といった帆立貝式古墳が5基集中して存在しており桜井市の箸墓古墳周辺と同様際立っている。
 丘陵の馬見古墳群全体は、4世紀後半から5世紀後半にかけて約100年間続いて築造されたと考えられており、5世紀始めに最盛期を迎え、巣山古墳はこの時期に築造されたようである。古墳時代中期初頭に葛城氏の祖先たちがこれら古墳を築き、やがて葛城山麓へ移っていったと思われている。帰りは近鉄田原本線「箸尾」が近い。
by yumeoijyuku | 2010-07-21 22:30 | 古墳めぐり案内