古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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藤の木古墳出土品里帰り展

斑鳩町「斑鳩文化財センター」開館記念特別展2010.3.27

 昨年の藤ノ木古墳墳丘復元に続き今年は斑鳩町が「斑鳩文化財センター」を開館した。このセンターには出土品のレプリカを常設することになっているが、開館記念として橿原考古学研究所附属博物館に展示している国宝出土品を展示していた。

 国宝金銅製鞍金具(前輪、後輪)、金銅製杏葉他馬具装飾品を目の当たりにすることができた。残念ながら撮影禁止なのでUPできない。
同時に藤ノ木古墳石室が公開されていた。12時前に行くと途中斑鳩町役場には「整理券配布修了」と書かれていたが、朝早くには見学者が多かったが今はすぐに入れるとのことでラッキーだった。

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斑鳩町役場、国道25号線のここの信号を北へ入ると古墳に行けるが、その手前を右手に入ったところに文化財センターができた

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まず藤ノ木古墳へ

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ここの羨門のところに扉が有って常時閉まっていてガラス越しの見学となる。今回は中に入っての見学はできたが、扉内での写真撮影は禁止

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斑鳩文化財センター

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以前藤ノ木古墳の南に置かれていた石棺のレプリカがきれいになって庭に置かれていた

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展示室への通路、古墳の羨道、石室が描かれている。左奥が展示室と映像ホール

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このセンターの前の東西の道は「業平道」で在原業平が天理市の櫟本からここを通って~平群町~河内高安の河内姫のもとに通ったと言われている。百人一首の竜田川の紅葉を詠んだ歌も古墳の床の者か
by yumeoijyuku | 2010-03-27 21:53 | 古墳

纏向遺跡の新発見が語るもの講演会

邪馬台国からヤマト王権へ2010.03.21

奈良大春のオープンキャンパス&公開講座に行ってきました。

『卑弥呼の宮殿跡か? 邪馬台国論争に決着か? 邪馬台国からヤマト王権へ-纏向遺跡の新発見が語るもの-』との触れ込みで奈良大学講堂で市民公開講座が有ったので聴きに行ってきた。講堂は臨時に椅子を並べるほどの盛況で、資料の数が足らずに増刷して配っていた。

出演者
桜井市教育委員会文化財課主査、奈良大学20期生 橋本輝彦先生
大阪府近つ飛鳥博物館館長、前奈良大学教授 白石太一郎先生
司会:奈良大学文化財学科 坂井秀弥教授

『纏向遺跡の発掘調査』-卑弥呼の宮殿を探して-橋本先生

・奈良大学では国文科で学び、部活が考古学で最初は退部の時期をうかがっていたが止められず、そのうち纏向を掘りたくなって桜井市に就職した。

◎纏向遺跡の範囲
① 纏向遺跡の初期は最初に祭祀遺物が出土した団地の一角を中枢とする庄内式期(2~3世紀初)中枢地域を中心とする1km四方の区域であった(今の遺跡で言うと纏向の石塚、東田大塚といった‘墳墓’、相撲神社口バス停を含み、箸墓古墳の大池の北付近までを含む範囲)。
② 次の規模は布留式期(3世紀末~4世紀)で東西2km、南北1.5kmの範囲であった。中枢地域はこの地域の北東に偏るが珠城山古墳群のすぐ北から天理市との境界付近までを想定している(地域の概略は北が天理市との境界付近、南は箸墓古墳を含みその南、東は穴師の相撲神社付近、西は東田地区を含む範囲)。

◎纏向遺跡の特徴は
① 出土する工具の内スコップとして使用する鋤の比率が95%有って水田が主な唐子遺跡で 50%、他の場所では20~50%なので明らかに水田に使用されたものではない。また土器も他の地方からのものが多い。
② 近くにはベニバナ工房も見つかっている。ベニバナを染料として使用するには高度の技術が要る。アフリカ→中国→纏向に伝わったものと思われる。藤ノ木古墳で使われているが6世紀末頃のことである。
③ 3世紀後半のものとして鍛冶関連遺物が出土している、これには北部九州の羽口が有って九州とのつながりが有ったことがわかる。

◎発掘場所
今回発掘した場所は周りの田圃から一段高くなっていて、柿本人麻呂の屋敷が有ったのではないかといわれていた場所である。

◎発掘の成果
(発掘現地の報告は、タグ「現地説明会」で検索し「纏向遺跡発掘現地09.3.21」、「纏向遺跡発掘調査現地説明会09.11.15」参照)

  発掘された建物は柱跡から09.11.15のブログの模型が想像されている。この柱跡発掘につ いて、
①ブログにある模型の奥にある建物Dは現地では東(奥)の柱列2通りと他一部が検出された、柱跡からは当時柱を立ち上げた方向まで解明できて、建築の専門家の意見を参考に復元したものでかなりの精度が得られた。
②各建物の軸線は東西一直線に揃っており設計意図がうかがわれる。
③建物Cの棟持柱は壁の外に建てられていて後の伊勢神宮式である。
④柱は全て抜き取られている。柱穴には土器が残っているものが有って庄内3式(3世紀中葉以降)が出ている。

◎遺跡のその他の特徴
①建物の時期は卑弥呼の時期と合う。
②南北が正しく建てられている。
③後の宮殿建築設計に引き継がれている。
④建物建築以前の遺物は出ているが、以後の地層には遺物が出ていない。居館区域は清い場所とされていた。飛鳥宮跡も同様の傾向がある。

橋本先生は注意深く、「卑弥呼の時代に有った居館遺跡」とし、卑弥呼の居館とは言わなかった。


『考古学からみた邪馬台国と初期ヤマト王権』 :白石先生

1、古墳の形態と時期的な分布を中心に、弥生末期から古墳墳時代に移る時期の国家連合形成にかかる持論を展開された。
① 古墳時代前期初頭には広域の首長連合の首長が地位に応じた大きさの古墳を造った、その中心が大和である。以前は3世紀末~4世紀初頭とされていた(小林行雄ら)。しかし今ではその時期が遡っていた、出現期の古墳は3世紀中頃と考える。古墳の考えでは九州説には無理がある。
② 弥生末には鉄の時代となったが、日本では鉄の製造ができなかった。
③九州では輸入した鉄を再生して使わなくても、捨てられるほどに豊富にあった。
④ 3世紀初めに九州と畿内・瀬戸内連合が鉄の入手で争って、中心が畿内に移った。漢鏡の分布の状態からも分かる。
⑤その後は畿内の邪馬台国連合と濃尾平野に代表される狗奴国連合が共存したが、やがて邪馬台国に合体した。これは東海地方にあった前方後方墳が4世紀初頭から後半にかけて姿を消して前方後円墳が全盛となることでも理解できる。


2、二十数年来邪馬台国は大和でなければ考えられないと思ってきた。纏向の建物が卑弥呼の建物である。
① 纏向では学術調査の結果が早く出た。
②建物群(奥にある東からD,C,B,A)としては建物B,Cの辺りが立てこんでいるので正面は建物Dの奥側(東)である可能性が大きいので今後の調査を待つ。
③ 邪馬台国から大和の政権への歴史を語る初期の倭王5基の古墳(纏向を中心とした箸墓古墳→西殿塚古墳→桜井茶臼山古墳→メスリ山古墳→行燈山古墳(現・崇神天皇陵)→渋谷向山古墳(現・景行天皇陵))とその周りの古墳の解明が必要。
④国家形成を考えるには飛鳥に匹敵する国レベルの調査・保存が必要で、今回の調査が契機になる。

この後、坂井先生の司会でシンポジュウムが実施されてから閉会となった。
by yumeoijyuku | 2010-03-22 21:15

甘樫丘東麓遺跡現地見学会の報告

奈良文化財研究所の現地見学会 2010.03.20

蘇我蝦夷・入鹿の邸宅があった甘樫丘で以前から調査していたシリーズの調査現地の見学会があった。2008年度の調査区の南東に隣接した箇所が調査された。

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調査地の位置:この看板のある場所のすぐ後ろの広い谷間部分が調査されている。右の赤い部分が今回の調査地

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調査地平面図、左が北、突き出ている区画が斜面でその先端部に柱列がある

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前回157次(2008年度)調査地。この右手が今回の調査地。

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今回の調査区全体:中央部斜面上部に柱列が見つかった

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建物と柱列

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後世に耕作された畝が検出されている

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石敷左:南東から。中:西から。右:左の石敷きの奥に「焼土遺構」とあるが時期は確定されていない

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左:斜面上部の囲いの柱列。右:柱列の模式図。ここの後ろの平坦地に建物がある可能性が出てきた。

報告資料「まとめ」の概略は「これまでの調査に引き続き、谷は7世紀から大規模な造成を繰り返しながら土地利用を行っている。丘陵の中腹に区画施設があることがわかり、今までの谷間だけでなく、丘陵の上にも遺跡が広がる可能性が広がってきた。」というものである、これは蘇我氏の邸宅が見つかる可能性に言及していると理解したい。
by yumeoijyuku | 2010-03-21 23:50 | 現地説明会、講演会

飛鳥寺西方遺跡現地見学会報告

飛鳥寺西方遺跡調査現地見学  2010.3.20

今日は明日香村教委の飛鳥寺関係と奈文研の甘樫丘東麓遺跡現地見学会があった。先ず明日香村の見学会の報告をする。

飛鳥寺の西門付近では今までに石組溝110m、敷石遺構70m、土管暗渠が南北160mに亘って有ることが調査で分かっていた。今回の調査地点は入鹿の首塚南へ約70mの地点で、それらが西方地域のより南側にも広がっていることがわかった。
飛鳥寺西方地域は中大兄皇子中臣鎌足が出会った場所と言われている。

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左:石組溝(奥)と土管暗渠(西より)。右:土管暗渠

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石敷遺構とバラス敷(奥)、遠景は甘樫丘(白いテントの左に見える車の列の辺りが奈文研の調査地の甘樫丘東麓遺跡。北東より

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同上南西より、左奥に飛鳥寺

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現地遠景、甘樫丘見学会場の前より

明日香村教委の西光さん、相原さんにお会いできた。相原さんは奈良大学の元学長水野先生の秘蔵っ子。
by yumeoijyuku | 2010-03-20 23:02 | 現地説明会、講演会

大和の古墳めぐり・・その2-22

葛城山麓の古墳②2010.03.18

葛城山麓(竹内街道南部)の古墳

葛城市は2004年10月に新庄町と當麻町が合併して、奈良県11番目の市となった。人口約3万6千人の林間田園都市である。中将姫伝説で名高い当麻寺、古代の国道「竹ノ内街道」が走る。『日本書紀』推古天皇21年(613年)に「難波より京に至までに大道を置く」とあって、これが飛鳥・当麻から竹内峠を越えて古市、河内を通り難波に至る竹内(たけのうち)街道(かいどう)のことといわれている。
近鉄南大阪線(吉野線)磐城駅すぐ南の国道166号(現竹内街道)の一つ南の旧竹内街道を西へ行く。県道を渡ったあたりで右手に入り国道の竹内街道を左(西)へ行く。程なく右手の「史跡の丘」に竹内古墳群がある。前方後円墳1基、方墳1基を含む34基 の古墳が確認されている。多くは直径10m、高さ2m程度の円墳で、古墳時代後期5世紀末から6世紀中頃にかけての築造と推定されている。34号茶山古墳は凝灰岩の板石を組み合わせた家形石棺が直接埋められていたというが現場はよく分からない。「史跡の丘」というわりには見取り図の看板があるだけで、個々の場所にある表示は字が読めなくて手入れが行き届いていない。しかし以前に訪問した時に比べると、樹木が伐採されて歩きやすくなっていた。
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旧竹内街道に戻ってから国道166号を迂回して(西)へ行くと国道の左手に上池が見えるのでその手前を左に入る。程なく南阪奈道をくぐると右手の山の中腹に「三ツ塚古墳群」がある。南阪奈道路の建設にともない調査が行われた。6世紀末から7世紀にかけて築造され、横穴式石室をともなう方墳や円墳のほか、小石室や木棺墓など、計34基の大小の埋葬施設が確認されている。
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三ツ塚古墳南部全景(東から)、右手が南阪奈道

もっとも古い11号墳は6世紀末の円墳で全長10.2mの石室に対し、墳丘周囲の石垣が径12mで見かけを小さく作っている。11号墳の西側にある土葬した人骨を改葬した墓からは日本最古の皮袋(ポシェット)が出土している。現地は南阪奈道路建設によって山を削り取られる大幅な破壊を受けたが、10号、11号、13号といった主要な石室は発掘されたままの状態で、7号は移築されているので見学できる。
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7号墳の前でお勉強
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てんとう虫が古墳の説明を聞きに来た

南阪奈道路の南で川を渡り、ふたたび道路をくぐって南阪奈道路を右に見て葛城ICの方へ南下して平林古墳に向かう。
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南阪奈道路は高いところを通るので途中の展望スポットでは奈良盆地南部を一望できる。写真中央に耳成山が見える。2km弱行くと左に別所池があって貯水塔がみえるので、そちらへ入るとそこに南西に向けた全長55mの前方後円墳平林古墳がある、後円部径25m、前方部幅35m。葺石が有ったようであるが埴輪はみとめられていない。後円部に石室があって南南東に開口している。横穴式石室の奥壁を壁面上部から持ち送る特徴と、石室構築の基準位置に特定の石材を用いているのが特徴。「平林式」として畿内大型横穴式石室分類の標識になっている。6世紀の典型的な後期古墳で、横穴式石室をもつものは前方後円墳が築かれなくなる直前の古墳である。
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石室は照明付で見学できるようになっている、しかし扉があって錠がかかっているので中には入れない。
ここからほど近い当麻イトーピア住宅地にある芝塚1号墳、6世紀前半のものと推定されている。後円部西側には消滅した2号墳の凝灰岩製組合せ式家形石棺が移築展示されている。
当麻イトーピア住宅地にあった5世紀中頃~6世紀中頃の兵家古墳群は、住宅地開発に先立って1972年から調査された後ほとんど削平されたが、丸子山と呼ばれていた8号墳は保存された。芝塚古墳から西へ住宅地を行くと屋上に天文台のように望遠鏡をすえた家があるところの突き当たりにデンと構えている。径37.5mの円墳で測量されただけで詳細は不明。
住宅地を北に抜けてすぐに右手に見える鍋塚古墳。鍋塚古墳のところで県道を東へ横断し、塚畑古墳、全長約70mの前方後円墳で上部は削平され広場になっている。後円部には英霊碑が建っている。旧当麻町内では最大規模の古墳で古墳時代中期のものとみられている。これら2基の古墳を巡った後朝来た旧竹之内街道を通って「磐城駅」に着いて解散となった。
by yumeoijyuku | 2010-03-19 22:17 | 古墳めぐり案内

第2回「05Mの会」開催予定情報

第2回「05Mの会」
平城遷都1300年祭開催中 の奈良で開催に向けて、13日に準備の会がありました。今のところ奈良のホテルに宿泊の仮予約10月1日(金)をしています。会からは後日連絡がありますのでよろしくお願いします。
by yumeoijyuku | 2010-03-14 14:47 | その他