古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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大和の古墳めぐり・・その2-18

朝日カルチャーセンター 現地学習 09.11.19
キトラ古墳から檜隈寺跡へ

近鉄吉野線「壺阪山」駅を出て正面の道を東へ行く。ゆるいカーブを描く広い道をどんどん行くと広い道に突き当たる。ここを左に、すぐまた右に広い道を行く。大きくカーブする外側(右手)奥にキトラ古墳が見えるが壁画保存のためテントで覆われていて、空調用の建屋だけが目につき有名なキトラ古墳という実感が無い。
キトラ古墳は高松塚と同じように7世紀末から8世紀初めのもので、径11m~12m、高さ4mの円墳。1983年11月にファイバースコープによる調査が行われて、北壁に玄武像が確認されて、それまであまり知られていなかった古墳が高松塚と肩を並べるほど有名になった。98年には小型カメラで東壁に青竜と西壁に白虎それに天井の星宿図、01年にはデジタルカメラで南壁の朱雀が撮影された。四神とも右向きで右回りに追いかけ合っている構図をしている。「キトラ」は地名の北浦がなまってなったと言われている。ちなみに旺文社1987年発行の地図には亀虎古墳として載っている。
次は檜隈寺に向かう。5世紀の応神天皇の時代に渡来したと言われる東漢氏(やまとのあやし)の祖阿知使主(あちのおみ)を祀る於美阿志神社がある。
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ここに7世紀末天武天皇のころ建立された東漢氏の氏寺檜隈寺があった。発掘調査によって伽藍配置は塔を中心に金堂と講堂が置かれその正面は塔に向かっている珍しい配置をしていたことが分かった。塔跡には平安時代後期の作で凝灰岩製の国の重文十三重石塔(上部が欠けて現状は十一層)が建つ。
塔心礎と十三重石塔
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次は文武天皇陵へ行く。桧隈寺跡から東へ丘陵を下りて先ほど来た広い道路に出る。キトラ古墳からここの一帯にかけて「飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区」の整備が行われていて、発掘調査がいたるところで行われていて、結果は説明会など随時発表されている。
桧隈寺跡付近の調査風景、左写真の左上に高松塚古墳が見える
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文武天皇陵は江戸時代以降今の高松塚、中尾山古墳とされたり野口王墓とされていたが、明治13年になって野口王墓は天武持統天皇陵であることが分かったため、ここが文武天皇陵であると治定された。古墳であるかどうかも定かでない。
文武天皇陵
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高松塚から天武・持統天皇陵へ

次はいよいよ高松塚に向かう。壁画保存の関係で無残な姿になっていたが径23mの墳丘が復元され、さる10月24日に竣工式が有って以後公開されている。壁画の保存作業が終わる10年後には墳丘は再築造され石槨・壁画も復元されるという。
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次は同じ歴史公園内にある中尾山古墳に向かう。高松塚古墳からは北の尾根に当たる山に築かれている。墳丘は径18mの八角形墳で、高さ6m、三段に築かれているが、墳丘はかなり崩れている。頂部には横口式石槨が有って内法90cmの立方体で各辺共一枚石で構成されている、火葬骨を埋納するための小石室で、火葬された文武天皇陵の有力候補となっている。
墳丘と露出している石槨の天井部
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次は野口王墓(天武持統天皇陵)に向かう、公園を北に駐車場の方にぬけて、広い道路を右(北東)に行く。
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すぐ先に小高い丘が見える。20mほどの階段を上ったところが御陵になっている。八角形の墳丘で一片の最大幅13m、径約39m、高さ6m。古墳は江戸時代には文武天皇陵とされていたが明治13年になって、鎌倉時代の1235年にこの古墳の盗掘実見記録「阿不幾乃山稜記」(あおきのさんりょうき)が発見され、野口王墓は天武持統天皇陵と確定された。

ここから北西に「鬼の雪隠」「鬼の俎板」がある。雪隠は横口式石槨の蓋石である。
鬼の雪隠から西へ向かい梅山古墳(欽明天皇陵)へ行く。全長100m、周濠があって西と南の土手は高く、水をたたえている。この周濠は幕末の陵墓修築で掘られたもので大幅に改造されている。埋葬施設等の資料が無く時期の選定も難しい。
この古墳の南西に接して吉備姫王の墓がある。吉備姫王は天智、天武天皇の母皇極天皇の母に当たる。現在ここに置かれている有名な猿石は、元々梅山古墳と南側の道路との間にあったが元禄15年に掘り出されて古墳の墳丘に置いて安産のお守りとしていたが、御陵指定に伴い今の位置に移設された。
帰りはここのすぐ西に近鉄吉野線が通り、南すぐに「飛鳥駅」がある。
by yumeoijyuku | 2009-11-19 21:29 | 古墳めぐり案内

纏向遺跡発掘調査現地説明会

09.11.15(日)

事前に見学したが都合をつけて説明会に行った。
概略は事前見学のとおりであるが、シートを取り外した現場を近くで見学できた。

大型建物、西南角から。右奥はJR桜井線、すぐ右手が「巻向駅」
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同上東から
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同上北西から
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南に箸墓古墳、左の建物の向こうが後円部、右手が前方部
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巻向駅ホームより天理方面
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復元案をもとに作られた模型、前回調査を合わせて、これらの建物跡が検出された。
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一番東の大型建物
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現地説明のまとめとして、「方位や軸線を揃えた建物が東西に4棟連続して構築されていた。・・・このように複雑かつ整然とした企画に基づいて構築された建物群の確認は国内でも最古の事例となるもので、これまでに判明している弥生時代の大型建物などとは一線を画する構造を持つもの」として、卑弥呼の居館であったと言った説明はなく、同時代ということだけだった。また周辺地区の調査はさらに続けられる。

翌日16日の毎日新聞によると、「2日間の入場者は約11,300人、説明の最終は4時過ぎ」となっている。朱雀はその最終組に滑り込んでの見学でした。15分刻みの見学予定だったが、最終組の余得として退場を急かされず十分見学できた。
by yumeoijyuku | 2009-11-15 23:36 | 現地説明会、講演会

纏向遺跡発掘調査現地事前見学

現地説明会の日は都合がつきにくいので12日に念のため事前に見学した。3月も都合がつかず事前見学だけだった。

現場は今年3月に発掘調査説明会があったすぐ東側で、JR桜井線との間が調査された。前回結果と合わせて卑弥呼級の建屋が見つかって、桜井市はじめ関西の考古学界は邪馬台国大和説に弾みがついたと認識している。しかし、九州派はまだまだ「吉野ヶ里が横綱」と胸を張っている。

調査現場:左は3月の発掘発表場所、右が今回でその右(東)はJR桜井線なので続きの発掘は難しそう。
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柱跡:」太い柱の間に床を支える細い根太があった。柱の太さから一層と判定されている。
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現場の西から東のJR線路側を見る。このすぐ右がJR「巻向駅」。14,15日の説明会に向けて準備中。
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俳優で考古学協会員の刈谷俊介さんは以前から纏向の調査に関係してきた。
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by yumeoijyuku | 2009-11-13 15:05 | 現地説明会、講演会

橿考研「友史会」11月例会参加報告

09.11.8(日)
「磐余地域の古墳を巡る」
案内橿考研岡林孝作先生
JR、近鉄「桜井駅」に集合、朝10時にスタート。参加人員は約200人。
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先ず先月末に発掘調査現地見学会があった桜井茶臼山へ向かう。埋め戻し作業の合間に見学させていただいた。

墓壙の埋め戻し、白いシートは既存遺構と埋め戻し材との混同防止処置。前回調査後も処理されていたが腐食していたという。
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今回の見学会資料では「岩山を削りだした後円部の中央に、長方形の墓壙を掘り」としか記載されていないが、竪穴式石室の納まった墓壙は南北11m、東西約4.8m、深さ2.9mの規模で、花崗岩岩盤を彫り込んでいたという。60年前の調査でもそのことは報告されていたが注目されていなかったが、今回の調査で確認された。丘尾切断型墳丘であるが風化していたとはいえ花崗岩を彫ってまで築造された特異性が浮き彫りになった。

上:南の木棺取り出し部。下:石室内部石積(左:下部、右:上部)
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取り出された石室石材
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作業中にお邪魔しました。
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この後文殊院西、東古墳到着。昼食後各自見学し阿部寺跡、から谷首古墳見学となった。

岡林先生の説明(写真公開については先生の了解を得ています)
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谷首古墳石室内での説明
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兜塚古墳墳丘
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同上石棺と石棺内部、石棺は前後とも盗掘口が穿かれていた。
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最後は艸墓古墳を見学して、現地解散。

岡林先生、友史会世話役のみなさんありがとうございました。
by yumeoijyuku | 2009-11-08 22:51 | 現地説明会、講演会

桜井茶臼山古墳の調査 現地見学会報告

 10月29日から3日間行われた見学会の初日に行った。多数の見学者を予想して行ったが、平日とあって順路の途中で若干の渋滞があったが順調に見学できた。以下、当日撮影した写真以外の説明は県教委発行の「現地見学会資料―桜井茶臼山古墳の調査」によった。

 なお、茶臼とは抹茶を作るために茶の葉を粉にするための石臼のことで、すりつぶされた抹茶を受ける部分が半円形になっており上部の回転する部分が円柱状で、前方後円墳の形に例えて付けられることが多い。

 今回の調査は今年1~3月に行われて、6月に「石室を囲む丸太垣」として発表された予備調査を受けて、8月から本調査を行ったものである。
桜井茶臼山古墳は古墳時代後期に築かれた大型前方後円墳のなかでは、竪穴式石室が完存し、かつ見ることができる最古の古墳でもある。

 発掘調査は1949年にから60年たって行われたもので、竪穴式石室は当時の姿を保っていた。見学会当日までに内部に遺存していた木棺は取り出されて保存処理に付されている。

見学路:前方部からさらに一段高い後円部に上るための階段が仮設されていた。
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土壙と天井石。周りに見学通路が仮設されている。前回発表された囲いの木柱列はほぼこの通路の外側辺りをめぐっていた。
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竪穴式石室の西側垂直壁の石積。水銀朱を石材、天井石の全面に塗布してあった。室外部分になる面にも塗られており、あまり例が無い。
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同上南東角部
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床面。石室底面の地固めとして板石を2~3重に敷いて、棺床土(写真左下部)を置いていた。
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上:木棺搬出のため取り外された天井石の部分と、下:その天井石、右端の角柱2本は1949年調査時点にその左に置かれた天井石の補強に使用されていたもの。
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古墳後円部(右手)の中央部に石室がある。手前は受け付けと見学者待機用スペース。
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橿考研では出土遺物の分析を進め、なるべく早い時期に公開できるよう、努力していく。ということで、期待したい。
by yumeoijyuku | 2009-11-01 23:01 | 現地説明会、講演会