古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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カテゴリ:古墳( 11 )

阿武山古墳見学会   2012.4.14

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左:集合場所、大阪薬科大学前バス停。中:すぐ西に阿武山の地震観測所、このすぐ裏に阿武山古墳がある。右:参加受付、左は宮崎文化財課長、中・内田さん、右・今西さん、お二人に案内、解説していただいた。
宮崎さんは今城塚古墳の発掘調査を担当されていて、現地説明会ではお馴染みの顔でした。

以下、当日配布された今城塚古代歴史館作成の資料「阿武山とハニワ街道を歩く」を参考に記述した。

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左:桜の花びらを踏みしめて古墳へ。中:ここから古墳域。右:周溝の表示、向こうが墓域。

 阿武山古墳は阿武山(標高281m)の山頂から南へ延びる尾根の先端部標高213mにある。直径80m~88mの円形に巡る周溝が確認されていて墓域とされたが、墳丘は盛土は認められず地山のままと思われている。中央部は方形に区画され墓室とされている。
 昭和9年に発掘されたときにとられたX線写真から被葬者は40~60歳の壮年男子、身長164.6㎝で当時としては高い。脊椎の圧迫骨折、肋骨に治癒骨折の痕跡があることが新たに判明し、これが死亡原因につながったものと考えられている。
 古墳は7世紀中頃~後半にかけて築造されたと考えられている。

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左:古墳の説明板。右:すぐ隣にある京都大学地震観測所(無人)、昭和9年の工事で埋葬施設が発見されて調査された。当時京都大学の濱田耕作教授の命で末永雅夫氏が調査に当たり、X線写真まで撮って調査されたが、高貴な人の可能性が出てきたため、憲兵の命令で中止し、埋め戻されている。
 埋め戻したとはいえ、保存処置は何も施されておらず、仮に今掘り返しても当時のの状態で残っているとも思われず、当時の資料を基にした研究だけが頼りになるものと思われる。

 茨木市に住んでいた小学生の時から「阿武山の地震計」として眺めていたが、まじかで見るのは初めてでした。

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「墓室」として方形に囲われた区画。

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左:塚原古墳群E1号墳、E2号墳。中:墳丘。右:マンホール。

阿武山古墳の南・東斜面の高槻市、茨木市には6世紀中頃~7世紀中頃までの間に築かれた群集墳で、総数140基が分布していたが現在約40基が保存されている。

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塚原第一公園にあるM1号墳、通常は施錠されている。左:公園標識。中:石室内部。右:同左。
明治期にウイリアム・ゴーランドが調査した時の写真が残っている。、当人が石室内で映っている唯一のもので、石積から当古墳と分かっている。

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左。ゴルフ練習場内に古墳が残っている。右:説明板。

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新池遺跡・埴輪工場。左:埴輪窯の説明、窯跡は計18基あった。中:建屋内に保存されている。右:窯の床が何段にも積層されていて、何回も床を創って再使用されていた事がわかる。

5世紀中頃から6世紀中頃までの間太田茶臼山古墳や今城塚古墳などの古墳に埴輪を供給した。

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左:工房跡、復元。中:建物は傷むので、手前の工房は建て替えされている、当時も同じと思われる。右:阿武山古墳出土の冠帽と玉枕。今城塚古代歴史館では開館一周年の特別展「阿武山古墳と牽牛子塚」が開催されていた。被葬者の髭と髪が残っており「DNA鑑定できないものか」と質問したが、具体化はしていないとのことであった。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2012-04-16 01:31 | 古墳

橿原考古学研究所友史会例会参加報告 2011.4.17

今回は南山城の遺跡をめぐる。朱雀にとっての目玉はあの三角縁神獣鏡を大量に出した椿井大塚山古墳である。この古墳は1895年(明治28)に当時の国鉄が古墳を分断して線路を建設し、1953年(昭和28)線路の拡幅工事の際に竪穴式石室が偶然発見され、当時最多の三角縁神獣鏡32面が出土している。当時京都大学講師の小林行雄が三角縁神獣鏡の役割を分析した話は有名。

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JR奈良線「玉水駅」に10時に集合して、出発。左:玉水駅前、中:出発、右:案内は橿考研の平松先生。参加人員は208人。
コースは「玉水駅」を南下して、すぐ東にとり、井出寺跡、石橋瓦窯跡に向かう。
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左:井手寺跡、:礎石、左説明板。
井堤寺は左大臣橘諸兄が創建したとされている。そこから井出の玉川を南にわたり岡田池窯跡に向かう。

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奈良市の大安寺に使われた瓦を焼いた石橋窯跡とされている。大安寺では寺の近くの
「杉山古墳」にも窯跡が有る。さらに南下して蟹満寺を過ぎて、さらに南へ、「棚倉駅」前の湧出宮へ向かう。

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下水マンホール、左:綴喜群井手町、右:旧山城町(現・木津川市)

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「棚倉駅」駅前にある湧出宮。左:駅前の参道鳥居、中:拝殿の直前に鳥居が有る、右:境内(拝殿横)。

「棚倉駅」からは、ほぼJR線沿いに南下する。平尾城山古墳は線路の東、椿井大塚山古墳に至ってはまさに線路の上にある。

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左:北河原稲荷山古墳への昇り口、中左:稲荷山古墳のある稲荷神社、中右:左の昇り口のすぐ右にある横穴、右:横穴内部。
 稲荷山古墳の東には西に開く前方後円墳・平尾城山古墳がある。2基ともかなりの山の上にある。

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椿井大塚山古墳1、左:前方部先端、中:前方部西から後円部へ、右:後円部JR奈良線の向こうになる。
椿井大塚山古墳は全長約175m、後円部径約110m、前方部長約80m、同幅幅76mの前方後円墳。

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椿井大塚山古墳2、左:古墳の真ん中を電車が走る、中:線路向こうが奈良県側、左が後円部、右:後円部墳頂のJR境界石。

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椿井大塚山古墳3、後円部、左:後円部東、後背が山で説明板の平面図では周濠は無かったようである、中:後円部、南から、右説明板。

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後円部墳頂から西の眺め。中央の家屋が前方部の上に建つ。その先中央やや左が生駒山。

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左:椿井天井山古墳、延命寺の裏に当たる、中:同左・南から、右:椿井御霊山古墳・北から。
天井山古墳は南北軸の前方後円墳と推定されているが詳細は不明。
御霊山古墳は北西に開く全長約120mの前方後円墳とみられているが実態は不明。

例会はこの後、高井手瓦窯跡、高麗寺跡と回る予定であるが、上狛駅でエスケープして帰路に就いた。
by yumeoijyuku | 2011-04-18 21:46 | 古墳

今城塚古墳、いましろ大王の杜 古代歴史館 開館

今城塚古墳整備完成 2011.4.1

高槻市の今城塚古墳の整備が完成して、併設された「今城塚古代歴史館 いましろ大王の杜」が完成して
2011.4.1開館した。26日から事前開館していたので行ってきた。歴史館の内容も見ごたえがあったが、何といっても大王級の古墳がその全貌を現し、しかも保存すべきところは保存されていて考古に興味のある者を満足させる。
 今回は説明を省略して、写真を楽しんでいただきたい。

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今城塚古代歴史館・いましろ大王の杜 

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円筒埴輪

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2001.9.23円筒埴輪発掘

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家形埴輪

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家形石棺、手前:竜山石製石棺、奥:阿蘇ピンク石製石棺

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2009.1.21石棺の加工作業、阿蘇ピンク石

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2009.1.21竜山石製石棺

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2009.1.21二上山白石製石棺


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古墳前方部西北の入口

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埴輪1、内堤では埴輪の列が迎えてくれる。
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埴輪2、北側から、クリックして全体をご覧ください

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左:前方部南西角、右:同左北西角

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前方部南西角、内堤より

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後円部墳頂、石室北側が地震によって一段下まで崩落している
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2007.3.4崩落個所現説、左:現説ヶ所の右手が墳頂

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左:後円部南東の内堤から前方部を見る、中:同左墳丘後円部、右:内濠ではもうピクニックを楽しんでいる。

朝日カルチャーセンター 梅田教室 野外講座「古代のロマン・古墳をめぐる」では5月に今城塚古墳ほか高槻市、茨木市の古墳をめぐります。講座の申し込みは、電話:06-6348-1450 までお問い合わせください。
または、このブログに「非公開コメント」にチェックをいれて連絡電話番号をコメントしてください、こちらから連絡します。
by yumeoijyuku | 2011-04-01 16:48 | 古墳

橿考研友史会例会参加報告 10.11.21

巨勢谷の古墳

 今日は橿原考古学研究所友史会の11月例会で高取町、御所市の「巨勢谷の古墳」を案内してもらった。
近鉄吉野線「市尾駅」付近の市尾墓山古墳に集合。橿原考古学研究所の岡林先生の案内で高取町市尾から御所市古瀬まで、曽我川沿いの巨勢谷を歩く。この付近の古墳は葛城氏衰退後の奈良盆地南部に勢力を持った古代豪族巨勢氏の首長の墓と見られている。

市尾墓山古墳は前方部を北西に向けた全長約70mの前方後円墳。二段築成で周濠、外堤を持つ。後円部の中央に玄室長5.87m、全長9.5mの横穴式石室が有って、家形石棺が残っていた。奥壁の奥に羨道状の通路が設けられており、奥壁のところで閉塞されていた。6世紀初頭~前半の築造とされている。
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・市尾墓山古墳後円部、東南から

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・説明板1

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・説明板2

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・今日案内していただいた橿原考古学研究所の岡林先生

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・市尾墓山古墳後円部、東から。墓山の紅葉は斜めに立っている?

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・同上全景右手の後円部上段に開口部が見える、南西から

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・同上開口部、今日は扉が開かれていた。

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・石室奥壁、奥壁右部分が奥の通路に通じる閉塞石の壁になっている。

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・刳抜式家型石棺、二上山白色凝灰岩製。蓋の盗掘孔は保護のため補修されている。内部全面に鮮やかな赤色顔料が塗られていたという。

この後高取町歴史研修センターで市尾墓山古墳出土品他を見学した。
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・周濠から出土した鳥形木製品

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・同上石見型木製品

次に墓山古墳の西南約250mの小山にある天満神社境内「市尾宮塚古墳」に向かう。全長約44mの前方後円墳で前方部を東北に向ける。
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・市尾宮塚古墳説明板と刳抜式家型石棺、二上山白色凝灰岩製。

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・同上、後円部北北西に開口する。

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・御所市の権現堂古墳へ向かう。参加人員約160人。
途中、新宮山古墳、巨勢寺跡の近くを通るが素通りした。

権現堂古墳は天ノ安川神社境内にある径約30mほどの円墳であったとされるが原型をとどめず前後が崩れた横穴式石室と中に刳抜式家型石棺一基が残っていた、縄掛け突起は初期の特徴である楕円形で太く頂部平坦面が狭い。他にもう一基あったらしく縄掛け突起の一部が残っていた。古墳は6世紀初頭~前半のもの
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・権現堂古墳石室後部、羨道部はこの反対側南東にある。石室奥壁側の刳抜式家型石棺、二上山白色凝灰岩製、羨道側の内部に石枕が造られていることで有名。石室は崩壊防止のため鉄骨で補強されている。

この後一行は御所市古瀬の水泥南古墳、水泥塚穴古墳へ向かった。朱雀は所用のため離脱して「下市口駅」から返った。水泥の古墳については「奈良の古墳めぐり・・その24」(2007.11.18UP)参照。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2010-11-24 21:19 | 古墳

藤の木古墳出土品里帰り展

斑鳩町「斑鳩文化財センター」開館記念特別展2010.3.27

 昨年の藤ノ木古墳墳丘復元に続き今年は斑鳩町が「斑鳩文化財センター」を開館した。このセンターには出土品のレプリカを常設することになっているが、開館記念として橿原考古学研究所附属博物館に展示している国宝出土品を展示していた。

 国宝金銅製鞍金具(前輪、後輪)、金銅製杏葉他馬具装飾品を目の当たりにすることができた。残念ながら撮影禁止なのでUPできない。
同時に藤ノ木古墳石室が公開されていた。12時前に行くと途中斑鳩町役場には「整理券配布修了」と書かれていたが、朝早くには見学者が多かったが今はすぐに入れるとのことでラッキーだった。

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斑鳩町役場、国道25号線のここの信号を北へ入ると古墳に行けるが、その手前を右手に入ったところに文化財センターができた

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まず藤ノ木古墳へ

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ここの羨門のところに扉が有って常時閉まっていてガラス越しの見学となる。今回は中に入っての見学はできたが、扉内での写真撮影は禁止

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斑鳩文化財センター

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以前藤ノ木古墳の南に置かれていた石棺のレプリカがきれいになって庭に置かれていた

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展示室への通路、古墳の羨道、石室が描かれている。左奥が展示室と映像ホール

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このセンターの前の東西の道は「業平道」で在原業平が天理市の櫟本からここを通って~平群町~河内高安の河内姫のもとに通ったと言われている。百人一首の竜田川の紅葉を詠んだ歌も古墳の床の者か
by yumeoijyuku | 2010-03-27 21:53 | 古墳

流水さんと再会

安芸の宮島へ行く途中、福山市内で流水さんに会ってきました。奥さんを亡くされて以来世間への発信を控えていられるので寄ってみました。「05Mの会」の写真を持参してその様子や善さん、Oさん、naoさん達の熱い言葉をお伝えしました。
 少しやつれられた感じを受けましたが、今話題の箸墓古墳の関係する講演を聞きに行かれたとのことでその話をされていました。そして、時間があるならということで福山市の山手にある古墳を案内していただきました。

 まず、古墳時代後期の前方後円墳で前方部と後円部の双方に横穴式石室を持つ二子塚古墳を案内してもらった。福山市街を芦田川に沿って北上し三次へ行くローカル線の沿線の住宅団地のはずれにある。「福山古墳ロード」に組み入れられている。

後円部(写真上)、説明板の向こうに開口部(写真下)があるこの石室の奥壁は一枚石がデンとすわっている。
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出土品としては「双竜環頭柄頭」が有名、向あった2頭の龍がそれぞれ球を加えているというデザインで、日本では他に例がないという。
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後円部の横穴式石室は開口しているが封鎖されていて入れない。凝灰岩で作られた組合式石棺の底部が残っている。床には土嚢を敷いて保護してある。
(下の写真)
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詳しくは流水さんのブログ(06.4.9)を参照されたい。

 次に案内してもらったのは近くの、とはいっても車で大分移動したが北塚古墳。説明板には後期・終末期の石槨となっている。

花崗岩で作られていて、花崗岩は固いので加工は難しいが、丸みの加工その他丁寧に仕上げられている。形は組合式家形石棺ともとれるが花崗岩なのでやはり直接埋設する石槨としてつくられたようである。
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 流水さんによるとこの付近一帯にはかなりの数に上る古墳が散在しているということである。また中世から江戸時代に至る遺跡が方々にあることを教えてもらった。近畿しかも奈良を中心とした古墳しか知らない者としては自分の住んでいる地域全般の歴史を踏まえておられる郷土史家に改めて敬意を表した次第でした。
 案内していただいている間はそれに傾注されていますが、一人でいる時などはふと淋しくなるようです。一日も早く鉢巻き姿を見せてくれるようお伝えして次の目的地宮島に向かいました。

<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2009-07-05 21:34 | 古墳

松阪市宝塚古墳

 母親の実家、お姉さん夫婦が住んでいる三重県大台町へ2泊3日で行ってきた、88歳と86歳の姉妹である。その帰りに松阪市にある「史跡宝塚古墳」に寄ってきた。

 この古墳は00年4月に「最大の船形埴輪出土」と発表されている。五世紀初頭の前方後円墳のくびれ部にある祭祀場の方形壇にあったもので、船は全長140㎝、幅25㎝で
ほぼ完全な形に復元され古墳時代の祭祀の形態を知るための第一級の資料と言われた。
今はその方形壇全体を復元し船の埴輪も複製が置かれている。

1号墳説明板
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方形壇と船形埴輪(方形壇の左手前にある),後方は松阪市内
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方形壇:後円部より、右方が前方部、後方は松阪市内
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2号墳
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<写真はクリックすると拡大します>
by yumeoijyuku | 2008-10-20 23:10 | 古墳

百舌鳥古墳群を行く

友史会九月例会08.9.21

今日は千賀久先生の案内で主として大山古墳(仁徳天皇陵)、百舌鳥陵山古墳(履中天皇陵)、いたすけ古墳、御廟山古墳を回った。予定していた土師ニサンザイ古墳は降雨中断となった。
今日巡る古墳は①津堂城山古墳(藤井寺市、陵墓参考地)、②仲ツ山古墳(藤井寺市、仲津媛陵)、③百舌鳥陵山古墳、④誉田御廟山古墳(羽曳野市、応神天皇陵)、⑤大山古墳、⑥土師ニサンザイ古墳、⑦岡ミサンザイ古墳(藤井寺市、仲哀天皇陵)の順に作られたとのこと、5世紀の頃である。

大山古墳については写真の説明参照
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先ず、千賀久先生の説明
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南東部。左:第三周濠前方部、右:同東側
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堺市のマンホール
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左:北を通る「中央環状線」と、右:永山古墳
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歌碑:全て故犬養孝先生書
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陪塚:銅亀山古墳
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御陵前の行進
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御陵正面、墳丘が見えるのはここだけ
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百舌鳥陵山古墳:北側の七観古墳跡に造られた展望台から
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いたすけ古墳と御廟山古墳はカメラの電池切れのため掲載できません、あしからず。

写真はクリックすれば拡大します
by yumeoijyuku | 2008-09-21 23:50 | 古墳

巣山古墳の喪船

 奈良県広陵町文化財保存センターで巣山古墳出土の喪船部材の展示をしているので見に行った。
 2006年2月に発掘された時は舟形木製品と木棺の蓋とされていたものが、今年広陵町文化財保存センター(河上邦彦所長)が木棺の蓋でなく準構造船の「竪板」と発表した。舳先に浪切板として使われたもの。直弧文が彫られていたことから木棺の蓋とされていた。今でも天皇の遺体を納棺するときは「御船入り」と言われており、喪船は葬送儀礼に使われたものとされた。  
 展示は9月1日まで、土、日は休み。近鉄大阪線「大和高田」から平端行バスで「広陵町役場前」下車、ただしバスは2時間に1本程度。タクシーで1500円見当。帰りには近鉄田原本線「箸尾」まで3.5km歩いた、約40分。
文化財保存センター:役場の敷地内にある。
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出土部材全体
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左:竪板、右:側板
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北北東に向く前方部の西で2003年に発掘された出島遺構(バックの写真、墳丘は前方部西面から出土した鳥形埴輪。
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同上家形埴輪、バックは北から見た墳丘西の濠部
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あいさつ
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by yumeoijyuku | 2008-08-27 23:26 | 古墳

斑鳩に眠る貴公子達:講演会



8月3日、奈良・平群町「平群史蹟を守る会」主催の講演会があった。
講師は前園実知雄先生
演題は「斑鳩に眠る貴公子達-藤ノ木古墳と御坊山古墳群の被葬者-」
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平群史蹟を守る会はS45年当時開発で取り壊される危機にあった、「烏土塚古墳」(現在国の指定文化財)を守るために設立され、その後見学会、後援会他活動を続けられている。

前園先生は橿考研在籍中に藤ノ木古墳調査を担当され、その後も研究を続けられている。現在奈良芸術大学教授。現在愛媛県東温市にある生家の法蓮寺住職でもある。今日は夏休みなので愛媛から来られた。
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1、藤ノ木古墳は今まで種々報告されていることに加えて次のことがわかった。
①公園整備のための調査で円墳であることが確定した。このことは記録にあるような「陵=天皇陵」ではない。
②石室の石積みが上部より下部の石が小さい部分があって、雑に設計変更された可能性がある。
③石棺の造り、副葬品では大刀は見事なものであるが、他は沓を始め作りが雑で急いで作った可能性がある。
④遺体2体は共に血液型B型で一人は20才前後の男性で、一人は成年(20~40才)男性であろうとされた。時期は6世紀第4四半期と特定できる。当時男同士を組んで埋葬することは忌嫌われていた。

2、587年4月用明天皇が死ぬと6月になって蘇我馬子は先帝敏達天皇の皇后炊屋姫尊(後の推古天皇)と諮って、次期天皇候補の一人穴穂部皇子(あなほべのみこ、欽明天皇の子)と皇子と仲の良い宅部皇子(やかべのみこ、宣化天皇の子と言われている)を殺させた。別の記録ではこの二人は兄弟であるとも言われている。

3、藤ノ木古墳の西約250mにある3基からなる御坊山古墳群は住宅団地建設で消滅してしまったが、一号墳の石室には三人分の人骨が互いに頭部を逆にしていたとの証言がある。三号墳は横口式石槨(現在、橿考研付属博物館の中庭に展示されている)内に陶棺内に棺長より長い一体の十四五歳の少年の人骨が首を折り曲げた形で埋納されておりいずれも異常な埋葬である。副葬品も含めて埋葬時期は七世紀半ばを下らない。

4、「日本書紀」によると643年11月に蘇我入鹿が聖徳太子の遺児山背大兄王一族を滅ばしている。「上宮聖徳太子伝補闋記」によると「男女23王が罪なく殺された」とある。

 以上のことから、藤ノ木古墳の被葬者は穴穂部皇子と宅部皇子。御坊山古墳群には山背大兄王一族が葬られた可能性が高い。もちろん確定的ではない、前園先生は最後に演題の「被葬者」に“像”を付加するように言われた。

この公演の内容は2006年12月に藤ノ木古墳の公園整備に先立って前園先生が新泉社から出版した「藤ノ木古墳―斑鳩に眠る二人の貴公子―」をもとにされている。


公演後藤ノ木古墳を訪問した、今年春公園化が完成後初めての訪問となった。

全景:右は南東角から、左は以前から置かれている石棺のレプリカから北を望む。
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羨道入口はドアで閉鎖されているが、ガラス窓から羨道部の見学通路と石室、石棺がのぞける
右はその導入部。
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「朱雀の夢ものがたり」参照
  奈良の古墳めぐり・・その23:近鉄文化サロン現地学習 H19.10.18
  藤ノ木古墳の全貌展:H19.10.25
by yumeoijyuku | 2008-08-04 12:31 | 古墳