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カテゴリ:現地説明会、講演会( 63 )

韓国・栄山江流域の古墳を巡る旅参加報告1/9

 2013.05.25日、出発・関空→釜山→光州

はじめに:今回の訪韓目的は韓国南西部の全羅北道、全羅南道を流れる栄山江流域に散在する前方後円墳と、あわせてこの地域の史跡をたずねることである。旅行計画は主催した「㈱国際交流サービス」によるもので、ご案内・解説は滋賀県立大学教授田中俊明先生による。

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①左:国際線へ。中:搭乗手続き。右:搭乗ゲートへ。

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②左:搭乗機。中:離陸。右:淡路島北部、上は明石海峡。

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③左:小豆島北東部。中:岡山県玉野市・剣山、上部(北)は岡山市。右:右手は中海、島は大根島、左下は宍道湖・松江付近。

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④左:洛東江、右方向に釜山市街がある。中、右:釜山・金海国際空港着。


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⑤左:入国。中:空港建物。右:西へ出発。


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⑥左:高速道路を西へ「順天」を目指す。中・右:途中の田園風景、日本の田園によく似ている、田植え時期もほぼ同じ。

1、順天雲坪里古墳(順天市西面雲坪里)・・・山の中段にあって、2号墳(半径約20m)の墳丘は中心部は盛土状に残っているが他は削平されて畑になっている。墳丘には10基以上の土壙墓の終わり頃のものが残っていた。2号墳のすぐ下に1号墳、上約100mのところに3号墳がある。いづれも円墳。
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① 左:2号墳、畑になっている、左の小高いところが墳丘残存部。中・右:2号墳から少し登ったところにある1号墳、見晴が良い。

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② 左:2008年に発掘調査を担当した順天大学校博物館の李東煕先生(中央の野球帽)に説明してもらった。中:遠景、手前に鉄道、向こうに高速道路が走っている、すぐ左手に西順天インターチェンジがある。右:釜山からソウルまで5日間お世話になった観光バス、ガイドは案内のため全コースを事前に実地調査していた。

2、潭陽聲月里月田古墳(潭陽郡古西面)・・・東西主軸、西に開く前方後円墳で単独で存在する。大部分は盛土によって造成されている。1986年の調査で、墳丘長40.5m、後円部径23m、高さ5.1m、前方部幅16.7m、高さ3.3m。前方部幅16.7m、高さ3.3m、くびれ部幅15m。発掘調査はされていなかった。
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① 左:後円部より墳丘南面。中・右:後円部、北東から右手前方部

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② 左:前方部西から、古墳南面。中:前方部調査中、シートもかかっておらず立ち入り禁止にもなっていない。右:栄山江。

◎参考<前方後円墳の主は誰か>
・在地首長説:5世紀の末から6世紀のなかばにかけて、栄山江流域で百済領有化が進むなかで、それを全面的に受け入れることに抵抗のある在地の勢力が、倭の勢力とも通じていることを可視的に表現したのが、倭の墓制に通じる前方後円形古墳の築造であった。・・・滋賀県立大学教授田中先生他日韓の研究者
・倭人説:被葬者は独立的に割拠した勢力ではなく、土着勢力の権勢と対倭、対大伽耶攻略のために、王侯制のような支配方式の一環として百済王権によって、一時的に各地に派遣された倭系百済官人である。・・・韓国慶北大学朴天秀教授他日韓の研究者

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by yumeoijyuku | 2013-06-24 13:44 | 現地説明会、講演会

堺市ニサンザイ古墳現地説明会 2012,12,1。2/2 

堺市ニサンザイ古墳現地説明会 見学報告2/2

北側くびれ部には見学用ステージが組まれていた、前方部側に造出しがある。
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左:見学用ステージ。中:須恵器甕とハニワ列を検出。右:同左拡大。

建設時のものと思われる墳丘裾部が検出され、後円部径が従来数値より大きいことが分かった。
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造出し東斜面。左:墳丘裾。中・右:転がり落ちた埴輪片。

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②の部分左:1段目テラス。中:奥に葺石。右:手前に埴輪列。

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③の部分。左:見学通路から。中:外堤から仮設通路が見える。右:同左。

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④の部分。左:見学通路から。右:手前に埴輪列、仮設通路の奥に葺石。

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左:東南部外堤への見学通路、向こうは共同墓地。中:説明板。右:受付近くで15分おきに説明の後見学。

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後円部南東外堤からの墳丘全景。

 時々強いにわか雨があって天候は不順であったが、周濠を渡って墳丘まじかに見学用通路とステージが用意されていて充実した見学ができ、世界遺産指定に向けた意気込みが感じられた。堺市がこれだけできるのだから宮内庁も墳丘のほんの一部にでも見学用通路を設けて一般に公開しても通路の下部をしっかり養生すれば墳丘に影響ないとおもわれる。誰のものかわからない古墳に少し入るぐらいなら罰は当たらないと思う、実際の継体天皇陵とされる高槻市の今城塚古墳はさんざん掘り返されているが、祟りがあったとは聞いたことがない。


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by yumeoijyuku | 2012-12-03 21:17 | 現地説明会、講演会

堺市ニサンザイ古墳現地説明会 2012,12,1。1/2 

堺市ニサンザイ古墳現地説明会 見学報告1/2

 ニサンザイ古墳は宮内庁が「東百舌鳥陵墓参考地として墳丘を管理しており、堺市が周濠を管理している。今回宮内庁の護岸整備工事の事前調査計画に合わせて堺市も同時に状況確認のため調査を行った。
 以下、堺市・文化財課「ニサンザイ古墳発掘調査 現地見学会資料H24.12.1・2」を参考にして報告する。

1、古墳の規模は前方部を西に向けた前方後円墳。大正時代末年に測量された地形図より全長290m、後円部径156m、後円部高24.6m前方部幅224m、高さ25.9mと全国で8番目の大きさとされている。
2、濠の底で本来の墳丘裾を確認した、後円部の外形が5m大きくなって、前方部も同様とすると、従来の墳丘長より10m以上大きくなり300mを超えると見られる。墳丘の周囲には幅50mの濠が巡る。
3、周濠に落ち込んでいた須恵器、土師器、円筒埴輪、形象埴輪から5世紀後半のものとされた。

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左:解説用パネル。右:古墳平面図。

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左:前方後円墳の図例(中津姫陵)。中:③の埴輪(手前)と須恵器(奥)。右:②の埴輪列。

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左:③の葺石。中:④の埴輪列と葺石。右:④の墳丘裾。

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墳丘全景、左・後円部右・前方部(外堤北西部から)。

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左:前方後円墳の仮通路から墳丘部へ渡る。中:参加者への注意書。右:仮通路を渡る。


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by yumeoijyuku | 2012-12-03 20:25 | 現地説明会、講演会

桜井市脇本遺跡説明会報告 

脇本遺跡第18次現地説明会報告 2012.9.29 

桜井市は奈良盆地南東部に位置し、脇本遺跡は南に大和川の源流初瀬川、北に大神神社のご神体三輪山に挟まれた位置にある。桜井市内から名張、伊勢方面への要衝で、平成16年以降は国道165号線拡幅に伴う調査が行われている。『日本書紀』にいう雄略天皇の「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」の推定地となっており、古墳時代中期~飛鳥時代の大形掘立柱建物などの遺跡が確認されている。

近鉄大阪線「大和朝倉駅」を北へ、国道165号線を東へ行くとバス停「脇本」の手前北側が今回の調査地である。
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調査地。左:中央部丸印。右:調査地、中央部やや右の交差点がバス停「脇本」

調査地の北側で池状に掘られた遺構が検出された。南北60m以上、東西約30m、深さ約1.2m、出土土器から5世紀後半に築造され、6世紀後半に廃絶していることが分かった。ただし、底に水の作用による堆積物が無く池とは考えられないと言い、用途は不明とされて「池状遺構」とされた。『日本書紀』には雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」(5世紀後半)、欽明天皇の「磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)」と行宮である「泊瀬柴籬宮(はつせしばがきのみや)」(6世紀後半)の記事がある。過去の調査ではそれぞれの時期に合う掘立柱建物が近くで発掘されていて、これらの宮に関係する可能性が考えられるという。・・奈良県立橿原考古学研究所「桜井市脇本遺跡第18次調査現地説明会資料2012年9月29日」より抜粋。

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調査地全景。向こうが南。信号のある通りが国道165号。手前・人が立っているあたりが池状遺跡。その向う左右に広がる石積みがその南端。

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新聞報道。

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池状遺構南端の石積。左:上下方向に目地石を置いて整然と積み上げられていた。中、右:西より、左が池状遺跡の底部。

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出土土器1。弥生時代後期末~古墳時代初め。池状遺構の南、上段の遺構から出土

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出土土器2。左:池状遺構下層から出土、古墳時代中期・5世紀後半。中、右:池状遺構上層から出土、古墳時代後期・6世紀後半。

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出土土器3.左:出土土器2の右と同じもの。中:時期は左に同じ。右:展示風景

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説明は1時間ごとに行われた。左:説明風景。右:説明は奈良県立橿原考古学研究所岡田技師。池状遺構の南・上段にある遺構についての説明は無かった。

この後付近の神社を訪ねた。
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発掘現場北東にある春日神社。左:本殿。中:注連縄。右:説明板。

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発掘現場から北へ行き西へ行ったところにある玉列(たまつら)神社。左:本殿。中:説明板。右:神社を背にして南方向、右手奥に霞む山は音羽山。

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by yumeoijyuku | 2012-09-29 23:27 | 現地説明会、講演会

甘樫丘東麓遺跡現地見学会見学報告 2012.3.4

 昼前から小雨の降る中、熱心なファンが見学した。この甘樫丘東麓の駐車場に隣接する比較的平坦な区画の調査が続けられている。前回2010年3月に見学会があった調査ではこの平坦地に接する北東の斜面も調査されたが、今回の調査は前回調査の南東に当たりる区画を調査している。

 以下は「甘樫丘東麓遺跡-飛鳥藤原第171次調査現地見学会資料2012.3.4、奈良文化財研究所」および同研究所清野氏の現地説明による。

 今回の調査では飛鳥時代の中でも7世紀中頃の蘇我氏と関係の有りそうな時期の地層は削り取られていて遺構もその下部だけが残っている状態で、性格もまだ解明されていない。7世紀中頃には西南部が一気に埋め立てられている。

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調査地全景。左:南西より、右手が発掘現場。左手に掘削土置き場、その右手向こうのテントで出土品展示。右:西の斜面上部より。

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出土した土器。

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左:東麓の谷全体の調査地、今回は谷の東端になる。右:調査地を東から見た写真、向こうに見えるのは畝傍山。

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今回の調査区画。太い赤線は傾斜地を削りとって平坦面を創っている上端の線。図の上方が上段。図の右上部分は近世の耕作跡。調査地のすぐ東に飛鳥川とそれに沿った道路が通る。

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左:北から見た南西角、手前に硬化面があった、硬化面は人工的な火によって土の表面が釘も通らないほど硬化している。中:左写真の右手、南西角。右:中の北側、西より。

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左:右写真の東となり、被熱面は黄色い土の上部が熱で赤くなっている、熱は千度以下と思われる。方形遺構2は一片80㎝くらいのもので石をまばらに敷いている。右:上の写真と同じ南西角、建物1(紫のテープ)の柱跡があった。炭たまりには壁や土器の他に焼けたものがあって何が焼けたのか調査中。

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左:上の写真左の南西手前。右:左の写真の北側、手前の区画に赤く変色した被熱面、硬化面1、方形遺構2、向こうの区画に硬化面2が見える。

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by yumeoijyuku | 2012-03-05 01:40 | 現地説明会、講演会

茅原大墓古墳現地説明会見学報告 2012,2,18 

纏向遺跡現地説明会と同じ時に茅原大墓古墳の現地説明会もあったので見学した。

 桜井市教育委員会の第5次調査・研究現地説明会資料を参考に報告する。

 茅原大墓古墳は4世紀末頃築造とされ、奈良盆地東南部で3世紀代から続く大型古墳の系列の最後に位置づけられている。それまでの200mを超える巨大前方後円墳は造られなくなっている。、奈良盆地北部や河内地域に移り、当時の政権内における勢力変動を反映しているとされている。

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墳丘は果樹栽培のため大きく改変されている。左:茅原大墓遠景、後方は三輪山。中:中景、説明中。右:説明図。

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出土土器1:墳丘西側2段目くびれ部埋葬施設として流用されていたもの。

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出土土器2:同上

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左:前方部北東角の葺石と渡土堤、手前が東、周濠は向こう(右=西)へ延びるが、右の説明図(上が南)茶色のように前方部北東隅に渡土堤があった・・周濠の段差による水位調整用。

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2段目東側くびれ部。右:その位置

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後円部墳頂より。左:三輪山。中:箸墓。右:後円部には周濠跡が残る、正面に耳成山、その左に畝傍山。

以前の発掘調査報告はこのブログの2011.2.26(盾持人埴輪)参照。

 桜井市は2011年11月に市長選挙があって、新人の松井氏が前市長谷奥氏を倍以上の票差で破り当選している。谷奥市長は「卑弥呼の里・桜井市」を売り物にしていたが、今後の桜井市はどうなるのか?

 当日は寒い日であったが途中の道の要所に道案内の方が立っていてくれた。現地説明の方共々、寒い中お疲れ様でした。

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by yumeoijyuku | 2012-02-24 23:04 | 現地説明会、講演会

纏向遺跡現地説明会見学報告 2012,2,18 

2月18日に行われた巻向遺跡調査現地説明会の報告。以前の調査区画で発掘された3世紀前半の建物群の南に隣接する区画を調査している。

以下、桜井市教育委員会の「巻向遺跡第173次調査現地説明会資料」を参考に記述する。
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ラッピング列車で巻向駅へ。左:春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣乾したり 天の天香具山 持統天皇。右:現地受付

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出土土器1

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出土土器2

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ラッピング列車が通る。銀も金も 玉も何せむに 勝れる宝子に及かめやも

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南東部の土壙とそれによって壊されている溝、庄内3式期(3世紀中頃)~布留0式期(3世紀後半)の土器が出土しているのでその頃に埋没したとされる。向こうに巻向駅。左、中:北西より。右:北より。

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左、中:布留3式土器が出土した土壙SK1005。右:前回出土した建物跡の柱跡から南を見る。左がJR桜井線。

 北側で以前発掘された建物群から今回の調査地の間に遺構が特定できていないことから、建物周辺に一定の空間が確保されていたのではないかとも考えられるという。資料は。「今後は居館域の構造や個々の遺構の性格を明らかにして行きたい」としている。

以前の調査内容については、このブログの「2009.11.15」、「2010.9.19」参照
by yumeoijyuku | 2012-02-24 00:22 | 現地説明会、講演会

橿原市磐余池現地見学会 見学報告

橿原市磐余池現地見学会 2011.12.17 

 古代磐余の範囲をみると東は桜井市の茶臼山古墳、メスリ山古墳、阿倍文殊院から、西・南は香具山の北あたり、北は近鉄大阪線の南を通る横大路までの範囲が推定されている。『日本書紀』に履中天皇2年(401年)のときに「磐余池をつくる」とあって、翌年にはこの池に「舟を浮かべて」遊宴したとある。一方用明天皇は在位足掛け3年で崩御し用明2年(587年)に宮のすぐ近くの「磐余池上陵」(桜井市池之内にある稚桜神社付近に候補地がある)に葬られ、のち推古元年(593年)に「河内磯長陵」に改葬されている。・・「日本の古代遺跡」5 奈良中部、㈱保育社、1983より抜粋。

 以下主に橿原市教育委員会・2011・12.17現地見学会資料「大藤原京左京五条八坊の調査」による。
 堤は池の北端に「ヘ」の字状に湾曲した高まり(長さ約220m、幅約20m~45m、南側の水面からの高さ約1.5m~2.5m)があって今回はその「高まり」上を発掘したもの。この高まりが南西から北東に延びる数条の谷筋をふさぐ形状であることから「磐余池」の堤に推定されている。
 今回の調査のまとめ。
①「高まり」が人工的に築かれた堤であることが確認された。
②池の上で見つかった大壁建物は渡来系集団と池の築造との関係を示すものとして注目される。
③堤の上で見つかった6世紀後半~7世紀前半の建物は池と同時期に存在していたことから、池に関連する施設であった可能性が高い。
④堤の上から見る池は景観的にも優れており、遊宴用としての役割が推定される。また盆地南部に水を供給し易い高所に立地してお入り、灌漑用の池として理にかなっている。

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左:説明会会場、前方の山の麓からこの近くまで磐余池があった。中:会場のすぐ南西の田んぼ、この左手向こうへカーブを描いて延びる畔が池の端で、右手から奥が池であったとされている。この写真の手前の畔が右の写真の家の手前の畔に続いている。その西は歌碑のあるところにつながる。

前掲左写真の道路沿いに向こう(南へ)100m行った先の左手で桜井市が平成12年度に調査したとき、池の堆積土が発掘されて6世紀後半~7世紀初頭のものとされた。この時期には池が機能していたとされている。

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堤造成土。左:調査地南端、ここのすぐ右手が前掲写真の「中」になる。中:左の北側(造成土1)。右:中の部分を逆に南から見る。

 造成土1は砂質土や粘土(厚さ1.4m)を積み重ねている、6世紀後半以前のもの。

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東部で発掘された掘立柱建物1を白杭で示している。右:現地すぐ西の道路で向こうは南、この道路の拡幅工事に関連して遺跡調査が行われた。

掘立柱建物1の建物は南北7間以上、東西2間の南北建物は6世紀後半ころのもの。


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左:大津皇子の歌碑「ももつたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」万葉集 巻ー416、この前方が磐余池跡とされている。向こうの小山あたりが池の南辺になる。中:御厨子観音寺入口、このすぐ左手に歌碑がある。右:桜井市の吉備池にある大津皇子の歌碑(於、2000,3,11吉備池廃寺発掘現地説明会)。

12月16日の毎日新聞は記事の中で。堤上の大型建物跡について、奈良大学教授上野誠先生は「宮の付属施設と考えていいのではないか。池を他t物から眺め、宴席も行われただろう。当時の人々にとっては思い出のいっぱい詰まった場所だった」と想像する。と報じている。

 桜井市は堤からほぼ北へ600mほどにある「吉備池」あたりを磐余池として歌碑を置いたが(大伯皇女の歌碑もある)、磐余池はここ橿原市にあったように思われる。吉備池は官営の吉備寺が有ったことが確定しているので歴史的遺跡であることは間違いない。
by yumeoijyuku | 2011-12-20 23:38 | 現地説明会、講演会

友史会 2011海外遺跡の旅 参加報告 12/12

11月28日、帰国

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左:早朝に起床して現地時刻7時前にホテル出発。、霞にかすむ上海から浦東空港へ。中・右:出発準備。

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左:出発。中:滑走。右:上海上空。

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左:途中はほとんど雲の上。中:関空接近。右:着陸。

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左・中:関空到着。右:解散、帰宅。

みなさんお疲れ様でした


 この「海外遺跡の旅 藤原京・平城京の源流を求めて」は橿原考古学研究所 友史会主催のもと前園實知雄先生による資料作成・現地同行解説、㈱国際交流サービスの旅行・見学手配ならびに現地における補助説明によって実施されました。関係者の方々に感謝いたします。

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 同行された方がホームページで詳しく報告されています。
→ http://www.bell.jp/pancho/travel/china-3/preface.htm
by yumeoijyuku | 2011-12-11 15:28 | 現地説明会、講演会

友史会 2011海外遺跡の旅 参加報告11/12 

11月27日上海その2、上海博物館

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景徳鎮窯青釉雲竜紋壺(15世紀中期)

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景徳鎮窯雲竜紋壺(清雍正期、1723~1735年)

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左:展示館入口。中:案内。右:夏代晩期の十字紋方鉞(夏は殷の前の中国最古の王朝とされている=二里頭文化、前1900~前1600年頃)。

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前11世紀前半頃の鼎(=てい、本来古代中国で使われた煮炊き用の器):夏代から王位または王位の象徴として使われたという。

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西周(前9世紀中頃)のベル。銅鐸の起源のようにも思われる。

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左:剣。中:剣の柄尻。右:柄尻の加工再現。

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菱形紋剣春秋晩期(前6世紀前半頃~前476年)

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エントランス

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左・中:左に円形の上海博物館の建物。右:博物館前のビル街。

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左・中:上海万博記念棟。右:中国最後の夜ハワードジョンソンホテルでの夕食。


この「海外遺跡の旅 藤原京・平城京の源流を求めて」は橿原考古学研究所 友史会主催のもと前園實知雄先生による資料作成・現地同行解説、㈱国際交流サービスの旅行・見学手配ならびに現地における補助説明によって実施されました。関係者の方々に感謝いたします。
by yumeoijyuku | 2011-12-11 00:11 | 現地説明会、講演会