古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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橿原市磐余池現地見学会 見学報告

橿原市磐余池現地見学会 2011.12.17 

 古代磐余の範囲をみると東は桜井市の茶臼山古墳、メスリ山古墳、阿倍文殊院から、西・南は香具山の北あたり、北は近鉄大阪線の南を通る横大路までの範囲が推定されている。『日本書紀』に履中天皇2年(401年)のときに「磐余池をつくる」とあって、翌年にはこの池に「舟を浮かべて」遊宴したとある。一方用明天皇は在位足掛け3年で崩御し用明2年(587年)に宮のすぐ近くの「磐余池上陵」(桜井市池之内にある稚桜神社付近に候補地がある)に葬られ、のち推古元年(593年)に「河内磯長陵」に改葬されている。・・「日本の古代遺跡」5 奈良中部、㈱保育社、1983より抜粋。

 以下主に橿原市教育委員会・2011・12.17現地見学会資料「大藤原京左京五条八坊の調査」による。
 堤は池の北端に「ヘ」の字状に湾曲した高まり(長さ約220m、幅約20m~45m、南側の水面からの高さ約1.5m~2.5m)があって今回はその「高まり」上を発掘したもの。この高まりが南西から北東に延びる数条の谷筋をふさぐ形状であることから「磐余池」の堤に推定されている。
 今回の調査のまとめ。
①「高まり」が人工的に築かれた堤であることが確認された。
②池の上で見つかった大壁建物は渡来系集団と池の築造との関係を示すものとして注目される。
③堤の上で見つかった6世紀後半~7世紀前半の建物は池と同時期に存在していたことから、池に関連する施設であった可能性が高い。
④堤の上から見る池は景観的にも優れており、遊宴用としての役割が推定される。また盆地南部に水を供給し易い高所に立地してお入り、灌漑用の池として理にかなっている。

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左:説明会会場、前方の山の麓からこの近くまで磐余池があった。中:会場のすぐ南西の田んぼ、この左手向こうへカーブを描いて延びる畔が池の端で、右手から奥が池であったとされている。この写真の手前の畔が右の写真の家の手前の畔に続いている。その西は歌碑のあるところにつながる。

前掲左写真の道路沿いに向こう(南へ)100m行った先の左手で桜井市が平成12年度に調査したとき、池の堆積土が発掘されて6世紀後半~7世紀初頭のものとされた。この時期には池が機能していたとされている。

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堤造成土。左:調査地南端、ここのすぐ右手が前掲写真の「中」になる。中:左の北側(造成土1)。右:中の部分を逆に南から見る。

 造成土1は砂質土や粘土(厚さ1.4m)を積み重ねている、6世紀後半以前のもの。

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東部で発掘された掘立柱建物1を白杭で示している。右:現地すぐ西の道路で向こうは南、この道路の拡幅工事に関連して遺跡調査が行われた。

掘立柱建物1の建物は南北7間以上、東西2間の南北建物は6世紀後半ころのもの。


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左:大津皇子の歌碑「ももつたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」万葉集 巻ー416、この前方が磐余池跡とされている。向こうの小山あたりが池の南辺になる。中:御厨子観音寺入口、このすぐ左手に歌碑がある。右:桜井市の吉備池にある大津皇子の歌碑(於、2000,3,11吉備池廃寺発掘現地説明会)。

12月16日の毎日新聞は記事の中で。堤上の大型建物跡について、奈良大学教授上野誠先生は「宮の付属施設と考えていいのではないか。池を他t物から眺め、宴席も行われただろう。当時の人々にとっては思い出のいっぱい詰まった場所だった」と想像する。と報じている。

 桜井市は堤からほぼ北へ600mほどにある「吉備池」あたりを磐余池として歌碑を置いたが(大伯皇女の歌碑もある)、磐余池はここ橿原市にあったように思われる。吉備池は官営の吉備寺が有ったことが確定しているので歴史的遺跡であることは間違いない。
by yumeoijyuku | 2011-12-20 23:38 | 現地説明会、講演会