古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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大和の古墳をめぐる・・その2-34

大阪府古市古墳群① 2011.3.17

今回から羽曳野市、藤井寺市に分布する古市古墳群をめぐる。少し長くなるが付き合ってほしい。

「百舌鳥・古市古墳群」として堺市の百舌鳥古墳群と共に世界遺産への登録を進めている古墳群である。日本からはユネスコへ年2件しか推薦できないので、今後地域を挙げての条件整備を行って登録のための活動が続く。

古市古墳群は概略4km四方の範囲に大王級の前方後円墳が多く築造されている。今日は近鉄南大阪線土師ノ里駅のすぐ北にある「允恭天皇陵(市野山古墳)」から始める。
古市古墳群には天皇・皇后陵とされる古墳が10箇所、その他多数の古墳が築かれたが消滅した古墳も多い。
允恭天皇陵(市野山古墳)は「土師ノ里駅」のすぐ北にあって北面する三段築成の前方後円墳である。2重の濠と堤を持つが現状は外濠が埋められていて住宅地になっている。説明板によると、墳丘全長220m。数か所に陪塚が有ったが現存するものは今日訪れる「宮の南塚古墳」と「衣縫(いぬい)古墳」だけである。
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左:宮の南塚古墳、国府八幡神社の南にある。中:衣縫塚古墳。右:同左説明板

允恭天皇は仁徳天皇の子で先代の反正天皇の弟に当たる。倭王済であることが定説になっていて、「宋書」では462年に死去したとされている。この古墳の築造年代は陪塚の副葬品や円筒埴輪の年代から5世紀後半とされていて矛盾しない。
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左:允恭天皇陵後円部。中:同左説明板。右:前方部の拝所

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左:拝所への通路。中:前方部北西より前方部を見る。右:前方部北西から周濠を見る。

陪塚で消滅している長持山古墳出土の石棺がすぐ西にある道明寺小学校の前に展示されている。長持山古墳は径40mの円墳で明治年間には墳頂に2号棺が露出していたという。戦後竪穴式石槨に有った1号棺が調査されている。完備した挂甲や馬具の優品が出土している。1,2号棺共阿蘇溶結凝灰岩製刳抜式家型石棺。1号棺は蓋と棺身の短辺側に大きな縄掛け突起を持つ、5世紀後半。2号棺は船形の身とやや扁平化した蓋を持つ、6世紀前半に追葬されたとされている。
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左:説明板でお勉強(保護版は汚れていて撮影不能)。右:左が1号棺、右が2号棺。

允恭天皇陵の西を通る国道170号と近鉄との交点の南西仲姫陵との間に鍋塚古墳がある。一辺45m、高さ7mの方墳で埴輪の年代から古市古墳群の中では初期の5世紀初めころの築造とされていて、位置的に仲姫陵と関係が有ると考えられている。
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左・中:鍋塚墳丘。右:説明板。

次に仲姫皇后陵に行く前に修羅を出した古墳として有名な三ツ塚古墳をめぐる。東から八島塚古墳(一辺50mの方墳)、中山塚古墳(同左)、助太山古墳(一辺36mの方墳)が並んで作られているので「三ツ塚」と呼ばれている。南辺が揃っており、堀も共有されている。1978年に八島塚古墳と中山塚古墳との間の濠の底から修羅が発掘された。修羅は生駒市にある元興寺文化財研究所保存科学センターで保存処理を行った後、府立近つ飛鳥博物館に展示されている。築造時期は修羅と一緒に出土した埴輪から5世紀代とする説と、修羅を必要とするような大型石が使われた時期並びに助太山古墳頂に有る凝灰岩を横口式石槨とみて7世紀のものとする説が有って決着していない。
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左:助太山古墳墳頂、右向うの林は中山塚古墳。右:墳頂の凝灰岩


仲姫皇后陵(仲ツ山古墳、岡ミサンザイ古墳)は全長290m、前方部幅193mで南西方向に開く前方後円墳である。古市古墳群では応神天皇陵に次ぐ規模を持つ、全国では9番目。くびれ部両側には方壇状の造り出しを持ち、狭い盾型の周濠と基底部幅45~50m、上面幅25mの広い外堤を持ち全長は410m前後となる。石棺が存在することや勾玉が出土したことが伝えられている。円筒埴輪から来月訪問する津堂城山古墳に次ぐ4世紀後半のものとされていて5世紀初頭前後とされる応神天皇陵より古い。
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仲姫陵古墳拝所

古室山古墳は長さ150mの前方後円墳で前方部を北東に向けて仲姫陵に向かい合わせて築かれている。仲姫陵より古いもので古市では初期のものとされている。
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左:古室山古墳後円部。中:説明板。右:赤面山古墳

ここの西名阪自動車道下には赤面山古墳が残されている。一辺15mほどの古墳であるが詳細は不明。自動車道建設に際しては橋脚の間隔を長くして保存されたという。

大鳥塚古墳は、墳丘長110m、前方部幅50m、高さ6.1m、後円部径72.6m、高さ12.3mの南面する前方後円墳で、くびれ部の両側に造り出しがある。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になっている。墳丘斜面には葺石があって平坦面には円筒埴輪が検出されている、他に家、衣蓋などの象形埴輪、二面の銅鏡や、鉄製の剣・刀・矛・鏃が出土されたと伝えられていて、5世紀前半のものとされている。
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左:大鳥塚古墳。右:説明板

応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は墳丘全長425m、前方部幅300m、高さ36m、後円部径250m、高さ35m三段築成の前方後円墳で、周濠を含めた全長は650mを越える規模を持つ。古市古墳群の売りは、広さでは仁徳天皇陵に負けるが墳丘体積は約140万㎥にのぼり仁徳稜を凌駕するとしている。墳丘は三段築成でくびれ部両側には造り出しが認められる、斜面には葺石があり、平坦部には数万本に及ぶ円筒埴輪が立て並べられていたといわれる。内部構造は調査されていないが以前に竪穴式石室及び長持形石棺の一部が露出していたとも伝えられている。外周には二重の周濠が有って内濠幅は約60m、内堤上部幅35m。東側には先行して「二ツ塚古墳」が築成されていたので濠、堤とも変形させている。墳丘前方部西側が大きく崩れていて地震による崩壊説が有力である。2011年2月には宮内庁の許可を得た研究者による外堤上の観察が行われて円筒埴輪列が確認されている。
出土遺物としては円筒埴輪、象形埴輪(1889年の浚渫時に出土した水鳥8体、衣蓋、盾、靫、家、短甲馬型など)はじめ衣蓋形木製品、クジラ・タコなどの土製品があった。円筒埴輪には口径50㎝、高さ1m、を越える大形のものが使用されていた。築造時期は5世紀前葉と言われていて古墳時代中期の代表的な古墳に間違いない。
前方部中央部すぐ北にある誉田丸山古墳他応神陵古墳と密接な関係が有る古墳は他に周辺に存在する東山古墳、栗塚古墳他消滅した古墳も含めて陪塚とされる古墳が多い。
なお、応神天皇陵に接して北西部に宮内庁古市陵墓監区事務所が有る。全国を五つの監区に分けて陵墓を管理している。東京の「多摩」の他「桃山」「月輪」、「畝傍」、「古市」が関西にある。古市監区は淡路島の淳仁天皇陵、香川県坂出の崇徳天皇陵も管理している。
この御陵の前方部正面、参道の東に誉田丸山古墳がある。測量図から径50mの円墳とされている。北側に墳丘に沿って窪地があるので10mほどの周濠が巡っている可能性がある。かつて京大の浜田耕作が墳丘頂に象形埴輪が散布されていたと報告しており、京大博物館には家・衣蓋(傘部の直径が約74cmある)・盾・靫等の象形埴輪が保管されている。この古墳の副葬品と伝えられる出土品が誉田八幡宮に所蔵されている。1848年(嘉永元年)発掘とされており、金銅製龍文透彫鞍金具などの馬具は大陸伝来の優品で一括して国宝に指定されている。陪塚とされているが出土した埴輪から応神天皇陵より新しい古墳とされている。
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応神天皇陵古墳拝所

陪塚の一つ東山古墳を見て行こう。ただし、この古墳は一辺50m、高さ7mの方墳であるが葺石と円筒埴輪列が有ったというだけで調査はされていない。すぐ北に幅約10mの濠を共有し、同様に応神天皇陵の陪塚とされる蟻山古墳が調査されている。蟻山古墳は一辺45mの方墳。墳頂の施設から農耕具、多数の武器類の鉄製品が出土している。南辺と西辺に円筒埴輪列が確認されている。甲冑形、衣蓋形埴輪など、他に盾形埴輪も出土している。2008~2009年の調査では葺石の存在も確認されていて、5世紀前半のものとされている。現在は病院になっている。

次は「鋏(はざみ)山古墳」に向かう。すぐ近くの国道170号「野中東」の交差点を西へ行く、ほどなく北(右)へ細い道を入ると左手に墳丘が有る。周濠沿いに西へ半周できる。墳丘長102m、前方部幅66m、高さ9.1m、後円部径60m、高さ9.5mの東に広がる前方後円墳である。くびれ部両側に造り出しがある、墳丘は3段築成。墳丘斜面には葺石があって平坦面には円筒埴輪列が確認されている、口縁部の径が50㎝を越える埴輪も確認されている。家・盾・衣蓋形の象形埴輪も有った。後円部頂には径約17mの平坦部があって中央部に盗掘の窪みがあってここから組合式石棺が発見されたと伝わっている。5世紀前半のものとされている。

次はすぐ南にある「野中宮山古墳」になる。鋏山古墳から南へとりすぐのところの左手に幼稚園が有る所が野中宮山古墳の前方部に当たる。墳丘長154mで西に開く前方後円墳である。周濠が堤に沿って前方後円形で古い部類に入る。後円部頂には板状の割り石が散乱しており竪穴式石槨の可能性があるという。5世紀前半のものとされた。「藤井寺八景」として桜の名所に選ばれている。
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左:野中宮山古墳前方部。右:説明板。

野中古墳へは野中宮山古墳の南の道を東へしばらく行き、細い道を右手に入る。ちょうど次に行く墓山古墳の後円部の北に当たる。一辺37mの方墳である。狭い幅の周濠というより溝が巡っていたが埋まってしまっている。1964年に発掘調査が実施され、墳丘斜面の葺石や円筒埴輪列が確認された。墳頂部で衣蓋・冑・囲形等の象形埴輪、鎌・斧・刀子・紡錘車などの滑石製模造品に加えて高杯・蓋杯・壺など多様な遺物が出土した。多数の木箱に短甲10領、他に1領、計11領あって革製の衝角付冑、鉄製の眉庇付冑が付属していた。朝鮮半島産と見られる土器、石杵・臼、鉄鋋36k以上、その他武具、農具などが多量に出土した。出土遺物から5世紀中頃から後半のものとされた。

ここから南すぐに墓山古墳(応神天皇陵ほ号陪塚)の後円部に出られる。墳丘全長225mの三段築成された前方後円墳である。くびれ部左右には造り出しがある。濠は幅約18m。周濠外側には幅約32mの外堤が全周していた。1898年に家・衣蓋・短甲・靫・盾形等の象形埴輪が出土し現在宮内庁と京都大学に保管されているという。多量の滑石製勾玉や各種の象形埴輪の出土が知られおり、また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されていた報告もある。墳丘や出土品から5世紀前半のものとされている。この古墳は宮内庁によって応神天皇陵ほ号陪塚とされているが、全国第23位の墳丘を持ち、多量の鉄製品を持つ陪塚が確認されていて大王あるいはそれに準ずる有力者の墓と考えられている。これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えられる。

墓山古墳のすぐ東、羽曳野市役所の南に向墓山古墳が有る。一辺68mの方墳。中段と墳頂の平坦面には円筒埴輪、朝顔型埴輪の他、家・衣蓋・靫・盾などの象形埴輪が立っていたらしい。墳丘斜面には10cm大の礫が20cmほどの厚さに葺かれていた。この古墳の西は墓山古墳の外堤と重なる位置にある。この二つの古墳は同時にかつ一連の計画の下に築造されたもので、5世紀前半の古墳とされる。
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左:墓山古墳後方部。中:向墓山古墳。右:同説明板

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向墓山古墳の南に西馬塚古墳が有る。左:墳丘。右:説明板

浄願寺山古墳は墓山古墳前方部にある一辺67mの方墳である。1985年の調査で底部幅が約7.5mの周濠が有ったことが分かっている。向墓山古墳と東西に対称的な位置に有り大きさもよく似ているので関連性は高く、墓山古墳との関係は深いと思われる。

青山古墳は径62mの円墳に幅25m、長さ12mの造り出しを付けた墳丘長62m、2段築成の円墳で、古市古墳群で最大の円墳である。 墳丘のまわりには濠がめぐっていて、濠の調査では円筒埴輪や家・衣蓋・盾・靫・馬・人物形などの象形埴輪が見つかっている。古墳は5世紀中頃のものとされている。
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青山古墳と説明板

仁賢天皇陵(野中ボケ山古墳)へは少し北へ戻って西へ行く。外環状線を横断して下田池と上田池の間を抜けると目の前が御陵になる。御陵の東側周濠沿いに建つ住宅との間を前方部へ向かう。墳丘長122m、前方部幅107m、高さ13m、後円部径65m、高さ11.5mの前方後円墳で、前方部が高さ幅とも後円部を上回り、古市古墳群の終焉期を代表する墳形を示している。周濠と堤が巡るが左右非対称形をしている。
仁賢天皇は履中天皇の皇子の子であるが父が雄略天皇に殺された時弟(後の顕宗天皇)と共に播磨に逃れていたが雄略天皇の死後、身分を明かし先ず弟が顕宗天皇となり、次いで兄が仁賢天皇となった。姉は飯豊女王で葛城市の忍海に御陵が有る。
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左:仁賢天皇陵古墳後円部、北側の下田池から。中:後円部から前方部を見る。右:拝所

ここから西の道路を南に行くと峯塚公園が有って峯ヶ塚古墳が有る。全長96mの前方後円墳である。南側に現存する溜池が内濠に当たりその外側には内堤、さらに外濠が有ったことがわかっている。葺石は墳丘上段斜面の裾部分のみに施されていて、盛土の崩れやすい下部を補強したものと考えられている。後円部墳頂では竪穴式石室が見つかっている、天井や側壁の石は抜き取られていたが、墳頂の3m下に築かれており東西約4.3m、南北2.2m、高さ1.9mと復元された。石室には阿蘇産の凝灰岩片が残っており、刳抜式の舟形石棺が有ったとされた。石片は2種類の色調があって長持山古墳の石棺と同様に蓋と身で石質が異なっていたとみられている。また、石室からは夥しい数の副葬品が出土した、総数は3,500点以上。青銅鏡の小片、勾玉・臼玉・管玉・ガラス玉などの玉類、鹿角製やこれを模した木製刀装具等の伝統的な副葬品に加えて、馬具・盛(せい)矢(し)具(ぐ)(胡簶(ころく)=矢を入れて腰に付けて携行する道具)・銀製刀装具・銀製垂飾付耳飾り・帯金具などの渡来系要素の強い金・銀製の新しい副葬品も多数出土したという。被葬者を象徴する副葬品である大刀は長さが1.2mに達し、明らかに儀仗用の大刀である。刀装具には銀製ねじり環頭5点が見つかっており、これら装飾性の高い大刀は、のちに伊勢神宝として大王家のシンボルとされる「玉纏大刀」へと受け継がれたもので、これらを複数保有した被葬者の権威の高さがしのばれる。発掘調査で出土した円筒埴輪は新しい様相を示すものの一部にやや古い埴輪も見つかっている。
以上の様な副葬品は、古墳時代の中期的な武器・武具の多量埋葬と後期的な装飾性の高い金・銀素材を用いた副葬品の多量副葬の両方を持ちあわせており、過渡期の様相を示している。また石棺の形態や産地などを綜合して、峯ケ塚古墳は5世紀末頃に築造された大王墓級の墳墓とされた。
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峯塚公園

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峯ヶ塚古墳説明板

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小口山古墳

公園と東の芦が池の間の道を南へ行くと、右手に清寧天皇陵(白髪山古墳)がある。墳丘長115m、後円部径63m、前方部幅128mで二段築成の前方後円墳。前方部幅が後円部径の2倍に達し、前方部が最も開いた形をしている。後円部が二段目から急激に立ち上がっており墳頂の平坦面が狭いことから横穴式石室が採用されていると思われている。周濠は幅20~30mで巡っている。腰高の前方後円墳で、横穴式石室を持つ古墳としては天理市に東乗鞍古墳がある。
清寧天皇は雄略天皇の妃の子で生まれながらに白髪だったので白髪皇子と呼ばれていた。事績や結婚したかなど不明で影の薄い天皇である。雄略天皇が有力候補者を殺してしまっていたので清寧天皇の死後後継ぎがいなかったが顕宗・仁賢兄弟が発見されて弟が顕宗天皇になった。
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左:清寧天皇陵古墳拝所。右:小白髪古墳

この古墳の東外環状線のすぐそばに小さい古墳が残っている。墳丘長46m、後円部径24m、前方部幅23mの小白髪古墳がある。調査の結果幅12mの盾型周濠が有ったことが分かっている。両古墳から出土した円筒埴輪はよく似た特徴を持ち、共に6世紀前半頃に築かれたと考えられている。

小白髪古墳の北の道を東へ入るとすぐに日本武尊白鷺陵に出られる。墳丘長200m、後円部径165m、前方部幅106mの二段築成の前方後円墳である。くびれ部北側に造り出しがある。幅30~50m周濠が巡っていて、墳丘が悠然と浮かんでいる。旧地図にある周辺の田圃の形から堤の幅が約20mと想定され外側には外堤を区画する溝が検出されている。宮内庁による後円部の発掘調査で10cm間隔で円筒埴輪列が巡っていたことが確認されている。北側の外堤を画する溝からは屋根の網代を表現した家形埴輪や盾形埴輪などが見つかっている。古墳群内にあって位置・墳形・出土埴輪の特徴などから古墳時代中期から後期への過渡期の変遷期の古墳として注目されている。
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左:日本武尊陵古墳前方部、北より。右:前方部から後円部北側を見る

日本武尊は東国平定を終えて帰る途中、伊吹山の神との戦いで、草那芸剣を持っていなかったため破れてしまう、傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとするが。今の三重県亀山市の能褒野(のぼの)に辿り着いた時、ついに力尽きその地で死んでしまう。能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、御所市の琴弾原を経て、今の羽曳野市古市に降り立ち、その後白鳥となって何処ともなく天高く飛び去ったと『古事記』にある。したがっていずれの墓にも亡骸は無いことになっている。日本武尊能褒野墓は現在亀山市の「のぼの公園」にある。また、大阪府羽曳野市の近鉄「古市駅」南西には「景行天皇皇子日本武尊白鳥陵」がある。

帰りは近鉄南大阪線「古市駅」からとなる。

*** 写真は当日の天候などの都合で一部以前(今年2月、3月)に撮影したものを使っているものがあります。 ***
by yumeoijyuku | 2011-03-21 23:47 | 古墳めぐり案内