古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります


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大和の古墳めぐり・・その2-17

朝日カルチャーセンター 現地学習 09.10.15

真弓丘の古墳

今回から4回にわたって飛鳥の古墳をめぐる。初回の今日は近鉄「飛鳥駅」から西の真弓丘陵を南下して古墳をめぐる。近鉄吉野線の西側、岡寺駅から飛鳥駅、壺阪山駅にかけての丘陵は古くから「真弓丘」と呼ばれる丘陵が続く。越、真弓、地ノ窪は明日香村が近鉄線を西へ突き出た部分にあたる。

近鉄飛鳥駅のすぐ北の踏切を渡るとすぐに右手に開口した岩屋山古墳が見える。墳丘の、西側半分は削平されて民家になっている。墳丘最上段は方墳とも円墳とも定かではなく、八角墳の可能性も残ると言う。
左:墳丘と右:開口部。下左:同、右説明板
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石室は花崗岩の切石で表面を丁寧に仕上しているが磨かれてはいない。側壁の2段目と奥壁と見上げ石も約25度傾けている。天井石は1枚。
左:右側壁、右:奥壁
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年代としては7世紀の前半から中頃までの時期で、終末期の古墳に位置づけられる。被葬者は推古朝末期から舒明、斉明朝の要人が候補になる。凝灰岩製の家形石棺が安置されていたと推定されている。
牽牛子塚へ
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越の村落を抜けて鑵子塚へ向かう、牽牛子塚は東北への展望が開けた立地になっている。牽牛子はアサガオまたはアサガオの種のことでこの塚も「あさがお塚」とも呼ばれる。複室式の石槨が有る。凝灰岩の巨石を刳りぬいて2室を造り出していて、床面はそれぞれ棺台を彫り出している。蓋石は概略80立方メートルと推定されている。比重を1.7としても130tを越えて石舞台古墳の天井石よりはるかに重いことになる。被葬者には斉明天皇の名も挙がっている。
左:開口部、右:整備工事中
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牽牛子塚では明日香村が整備工事を行っていた。責任者は去年鑵子塚の調査を担当された西光技師だったので挨拶させていただいた。今まで電話やメールではお世話になったが、お会いするのは初めてだった。「これから鑵子塚へ行くが石室に入れない」というと、恐縮されていた。

牽牛子塚古墳から引き返し、鑵子塚古墳への標識に従って行く。凸型の石室の凸字の左側(南)が羨道部で片袖型の玄室があって凸字の右側にも羨道風の奥室がついている他に例のない珍しい構造をしている。玄室は花崗岩を3段垂直に積み、その上にやや小型の石を4段、一石ずつせり出して積み上げている。中に立つと球状の石が石室全体を覆う感じで迫ってくる。石室は丸山古墳に次いで大きく最大級の石室である。
下:説明版で勉強中、奥右は墳丘
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2008.2.8毎日新聞によると、明日香村教委が調査を行った結果を発表している。以前から開口していたが改めて横穴式石室としては橿原市の丸山古墳に次ぐ全国最大級とされた。村教委の西光技師は「東漢氏は蘇我氏の配下とのイメージがあるが、当初は対等の力をもっていたのかも知れない」と話している。なお、この調査の後で石室への立ち入りは禁止となっている。

マルコ山古墳から高取町の古墳へ

次のマルコ山古墳へは低い丘陵を超えて南へ出る。近鉄の線路に近いところまで戻って櫛玉命神社の森の手前を右にとって車の通る道を西へゆるい坂を上って行くと右手の丘にマルコ山古墳が見える。墳丘は整備されている。円墳と言われているが、八角墳の可能性が強いと言う、1980年に行われた発掘調査では、凝灰岩製の横口式石槨があって高松塚のものと酷似していた。人骨が出土しており成人男性のものと鑑定されている。

写真中央にマルコ山古墳の墳丘
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また2004年に明日香村教委は西側の裾部分を調査した結果排水溝の石敷きラインに角があることから六角墳である可能性が高まったと発表している。この場合天皇に次ぐクラスの被葬者が八角形に対して遠慮して六角形にした可能性も残る。

マルコ山古墳のすぐ西、地之窪集落に接して「カヅマヤマ古墳」がある。早くから知られていた古墳であるが地図には載っていない、明日香村教委によって発掘調査され2005年12月に説明会があった。吉野川産の結晶片岩でできた磚積(せんつみ)石室。床以外全ての壁面と棺台に漆喰が塗られていた。この石室は中央から南が最大2m滑り落ちていた、1361年8月の南海地震の影響と思われる。7世紀後半の築造と判定されたこの古墳の被葬者は、新聞報道では、「場所的には皇族の墓域で、被葬者は書紀に記述のある人で間違いないだろう」、としている。この古墳は現在竹藪の中で近寄れなかった。近くの人に確認すると、家から当時の「明日香風」を持ってこられて説明してくれた。

再びマルコ山古墳の前を通って地之窪集落を後に一旦近鉄踏切の手前までもどり右手の丘陵に向かう、ちょうど高取国際高校の北に沿う道を西へ行くことになる。佐田の集落の奥、山裾の円浄寺の右手を入り春日神社の階段を上る。拝殿の右手に小さい円墳がある、これが束明神古墳である。
左:墳丘、右:説明板
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八角墳で対角線の長さは30m、現存高さ約4mの古墳であるが、1984年の調査で横口式石槨が発掘されている。約50cm四方、たて30cmほどの凝灰岩を加工した石材を500枚ほど使用して組み立てた家型石槨があった。この石槨は埋め戻されたが実物大の復原模型が橿考研付属博物館の庭に築造されている。被葬者は天武・持統天皇の子、草壁皇子の名があげられている。この皇子の墓は佐田の周辺とされており、宮内庁は次に行く陵墓を岡宮天皇陵としている。草壁皇子は子の軽皇子が文武天皇となったので追尊天皇として岡宮天皇と呼ばれている。草壁皇子は高松塚でも名前が挙がっているが、向こうは佐田の地ではない。

それではその岡宮天皇陵に向かおう。佐田の集落の道に戻り南へ向かう、案内標識に従って右(西)へ入る。すぐ突き当たりに拝所があって御陵と分かる。ただし、この御陵は地元では明治以降に作られたと言われているらしく、終末期の古墳ではない。

草壁皇子は天武天皇の皇太子になるが天皇の死の翌月大津皇子が謀反の疑いで処刑され、それへの反発が強かったのかすぐに皇位に就いていない。そして数年後母親の持統天皇が即位し、草壁皇子は即位しないまま689年に死んでしまう。持統天皇が我が子の即位に障害となる大津皇子を殺してまで力を入れていたが、皮肉な運命をたどった。なお、岡宮天皇の称号が贈られたのは淳仁天皇が即位したあとの758年になってからである。帰りは壺阪山駅で解散となる。

高取中学校付近
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今回から「朝日カルチャーセンター」の現地学習講座に変更しています。
by yumeoijyuku | 2009-10-16 21:39 | 古墳めぐり案内