古墳を中心に古代について、私生活も含めて語ります
by yumeoijyuku
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奈良の古墳めぐり・・その2-12
近鉄文化サロン 現地学習 09.04.16
葬送の地に太安萬侶が眠る、田原へ
奈良市東の山間部で葬送の地として注目されるのが田原地区。代表的なものは光仁天皇陵、春日宮天皇陵、横田古墳群と古墳ではないが太安萬侶墓が有名。平城京の葬送地は「養老喪葬令」に基づいて、京北方の奈良山丘陵、東方の田原地域および都祁盆地、生駒谷の3箇所があげられている。
田原へ行くにはJRまたは近鉄奈良からバスに乗るがバスの便が少ないので行き帰りの時刻確認が必要となる。山間部を行き須山を過ぎると田原地区で茶畑が目に付く。「田原御陵前」を通り越してしばらく走り「日笠」で下車する。
バスの来た方すぐに火の見櫓と郵便ポストがあって、道標があるところを右(西)に入る。10分もかからない内に光仁天皇田原東陵に出る。墳丘は東西38m、南北30mの不整形な円墳で高さ8m。周囲には空堀と外堤があるが幕末の改修のとき作ったらしい、天皇陵には周濠が必須のようである。19世紀始め頃には西に向かって開口する石室があったとの伝承があるが、幕末にはすでに不明となっている。
『続日本紀』によると第49代光仁天皇は第48代称徳天皇が跡継ぎを決めていなかったので、天皇が亡くなった後で諸臣が合議して、天智天皇の孫の白壁王が2ヶ月後に62才で即位した、11年間在位している。それまで天武天皇系が続いたが天智天皇系が栄えるきっかけになった。平安京遷都した第50代桓武天皇の父に当たる。持統天皇以来火葬が続いていたが光仁天皇は土葬で以後天皇は土葬が主流になる。
光仁天皇陵を西へどんどん行くと古事記編纂で有名というより墓誌によって分かった「太安萬侶の墓」の下に出る。1979年1月茶畑で作業中の人が火葬墓を発見して大騒動になった。墓誌銘には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」とある、723年のことである。奈良時代の上級官人の墓がこのように残って出土したのは極めて異例。
墓からの景色は日本文化の原点ともいうべき長閑な田園が広がっていて景色を堪能できる。
次は横田町へ向かう。先ほど渡った天井橋の手前のところまで戻って、川沿いに南(右手)へ向かう。左、左へ行き横田の交差点に出る。そのまま横切って行くと右手にこんもりした山が見える。しばらく進んでから右手に入って行くとこの山の南に出る。「春日社」、「天満宮」と併記されている鳥居がある。この神社の山には天満神社古墳群があってその一つが分かり易い。鳥居の前に布団工場があったがここの裏(南)に古墳がある。一番東のものが通路で削られていてよく分かる。また、鳥居に向かってすぐ右にも古墳があるが形態がはっきりしない。
最後は春日宮天皇陵へ向かう。天満宮の鳥居の所を先ほど来た方と反対の方(西)へ行くとバス道に出るのでそのまま西へ行く。バス道を1kmほど行くと「田原御陵前」バス停があって右手(北)が春日宮天皇陵の入口になっている。この陵は天智天皇の子で施基皇子の御陵であるが、子の白壁王が光仁天皇となったので天皇と呼ばれるようになった。在位した天皇ではない。
<<写真はクリックすると拡大します>
「奈良の古墳めぐり」受講ご希望の方は「近鉄文化サロン 橿原」Tel:(0744)25-5421、ホームページ: www.d-kintetsu.co.jp/bunka-salon/ または各地の近鉄百貨店にご照会ください。
葬送の地に太安萬侶が眠る、田原へ
奈良市東の山間部で葬送の地として注目されるのが田原地区。代表的なものは光仁天皇陵、春日宮天皇陵、横田古墳群と古墳ではないが太安萬侶墓が有名。平城京の葬送地は「養老喪葬令」に基づいて、京北方の奈良山丘陵、東方の田原地域および都祁盆地、生駒谷の3箇所があげられている。
田原へ行くにはJRまたは近鉄奈良からバスに乗るがバスの便が少ないので行き帰りの時刻確認が必要となる。山間部を行き須山を過ぎると田原地区で茶畑が目に付く。「田原御陵前」を通り越してしばらく走り「日笠」で下車する。
バスの来た方すぐに火の見櫓と郵便ポストがあって、道標があるところを右(西)に入る。10分もかからない内に光仁天皇田原東陵に出る。墳丘は東西38m、南北30mの不整形な円墳で高さ8m。周囲には空堀と外堤があるが幕末の改修のとき作ったらしい、天皇陵には周濠が必須のようである。19世紀始め頃には西に向かって開口する石室があったとの伝承があるが、幕末にはすでに不明となっている。
『続日本紀』によると第49代光仁天皇は第48代称徳天皇が跡継ぎを決めていなかったので、天皇が亡くなった後で諸臣が合議して、天智天皇の孫の白壁王が2ヶ月後に62才で即位した、11年間在位している。それまで天武天皇系が続いたが天智天皇系が栄えるきっかけになった。平安京遷都した第50代桓武天皇の父に当たる。持統天皇以来火葬が続いていたが光仁天皇は土葬で以後天皇は土葬が主流になる。
光仁天皇陵を西へどんどん行くと古事記編纂で有名というより墓誌によって分かった「太安萬侶の墓」の下に出る。1979年1月茶畑で作業中の人が火葬墓を発見して大騒動になった。墓誌銘には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」とある、723年のことである。奈良時代の上級官人の墓がこのように残って出土したのは極めて異例。
墓からの景色は日本文化の原点ともいうべき長閑な田園が広がっていて景色を堪能できる。
次は横田町へ向かう。先ほど渡った天井橋の手前のところまで戻って、川沿いに南(右手)へ向かう。左、左へ行き横田の交差点に出る。そのまま横切って行くと右手にこんもりした山が見える。しばらく進んでから右手に入って行くとこの山の南に出る。「春日社」、「天満宮」と併記されている鳥居がある。この神社の山には天満神社古墳群があってその一つが分かり易い。鳥居の前に布団工場があったがここの裏(南)に古墳がある。一番東のものが通路で削られていてよく分かる。また、鳥居に向かってすぐ右にも古墳があるが形態がはっきりしない。
最後は春日宮天皇陵へ向かう。天満宮の鳥居の所を先ほど来た方と反対の方(西)へ行くとバス道に出るのでそのまま西へ行く。バス道を1kmほど行くと「田原御陵前」バス停があって右手(北)が春日宮天皇陵の入口になっている。この陵は天智天皇の子で施基皇子の御陵であるが、子の白壁王が光仁天皇となったので天皇と呼ばれるようになった。在位した天皇ではない。
<<写真はクリックすると拡大します>
「奈良の古墳めぐり」受講ご希望の方は「近鉄文化サロン 橿原」Tel:(0744)25-5421、ホームページ: www.d-kintetsu.co.jp/bunka-salon/ または各地の近鉄百貨店にご照会ください。
by yumeoijyuku
| 2009-04-17 17:33
| 古墳めぐり案内